第2話


 手の震えが止まった。

 この、神から授けられた祝福の時を有効に活用しなかったらバチが当たる。

 雑誌や動画サイトで見たことがあるから、使い方はなんとなくわかってる。

 ポーチの中を漁る。はじめはベースを整える。それからポイントメイクをする。

 でも、使い方を見たことがあるだけでは使い慣れないアイテムを使いこなすことなんてできなくて、何もかもが上手くいかない。

「ああ、もう! 違う、こうじゃない!」

 アイメイクが全然決まらない。こんな下手くそなメイクをするくらいなら、すっぴんのほうがまだマシかもしれない。

 ふ、と背筋が何かを感じ取った。

 時計を見る。あれから三十分。いつお母さんが帰ってきてもおかしくはない時間だ。

「や、やばい……」

 メイクをすることばかり考えていた。お母さんの前では被ってはならない化けの皮を、いったいどうやって剥げばいい?

 お母さんのクレンジングオイルを使うこと以外に、何も思いつかなかった。急ぎ洗面所へ行くと、鏡の裏で隊列をなす高級品の中から、クレンジングオイルをそっと取り、一プッシュだけ手にのせた。

 これで皮を剥げるかどうか、経験のない私にはわからない。けれど、どれだけならバレないのかもまた、わからない。

 足りないかどうかは、落としてみてから考えればいい。

 せっかくした、念願のメイクを即落とす。

 経験のない私には、何もかもわからない。

 これでちゃんと、落ちているのだろうか。

 鏡とキスでもする気なのだろうかというくらい、鏡に顔を近づけて見てみる。アイメイクが残っている。また、クレンジングオイルを使えばいいんだろうか。それともこれには、特別な何かが必要なんだろうか。強引に、こすれば落ちたりするんだろうか。

 玄関から、鍵を回す音がした。

「ただいまー。……って、なんで顔洗ってんの? 目、真っ赤になってるし」

「え? あ、あぁ。勉強してたらオーバーヒートしたっていうか、なんていうか。頭冷やしたい気分になって」

「……あっそう」

「うん、そう」

「今日、餃子にするから。勉強終わったら手伝って」

「ああ、うん。わかった」

 ギリギリ間に合った。

 人のポーチを勝手に持ち帰ってきて使ったことも、メイクをしたことも、お母さんの化粧品を勝手に使ったことも、たぶん全部、バレてない。

 突然、足に力が入らなくなった。

 すとん、と落ちたお尻が、床にぺとりとついた。

 まるで、マラソンをしたあとみたい。

 鼓動が痛い。息が切れる。


 部屋に戻って、勉強の続きをするふりをした。

 頃合いを見計らってダイニングへ行くと、お母さんは肉ダネを皮で包み始めていた。

「手伝う」

「ありがとう」

 二人して、黙々と肉ダネに皮を被せていく。

 この肉たちは皮を被れていいな、と、心が毒を吐く。

 こういう時は「美味しくなぁれ」とでも思いながら作業したほうがいいだろうに。

「ふぅ。終わった、終わった。すぐ食べる? 食べるなら焼くけど」

「……お父さんは?」

「ん? 今日も遅いって」

「そっか」

「それで、どうする?」

「うーん。お母さんは、どうしたい?」

「ん? そりゃあ、ちゃっちゃと片付けちゃいたいから、ちゃっちゃと焼きたい」

「じゃあ、食べる」

「はいはーい。じゃあ、焼けるまでちょっと待ってね」

「ああ、うん」

 人には厳しく、自分には甘い。

 お母さんのそんな姿を間近で見ていると、怒りがわく。これが正しい怒りなのか、それとも思春期とか反抗期とか、そういう年頃だからそう思ってしまうのか、私にはわからない。


 別に観たくないテレビをぼーっと眺めながら、焼きたての餃子をハフハフと食べた。

 画面の中にいる女の子は、つるんとした肌をしていて、ほんのりと色がのった瞼がキラキラと輝いていた。グン、と上向きのまつ毛が瞳を飾る。リップクリームでは作り出せない偽りの血色が、歪んだ円を描く。

『もー、何してるんですかぁ』

 粘っこい声が、歪んだ円から放たれる。

 気持ち悪い、と、私は思った。

 でも、私は知ってる。なんで気持ち悪いと思ってしまうか、知ってる。

 私は、本当はあんな女の子になりたかった。

 自分をより良く見せるメイクをして、楽しげに笑う。違う。心の底から〝人生って楽しい!〟と思いながら、そんな思いを内外から撒き散らしながら、その思いに合った声で笑う。

 そんな女の子になりたかった。

 画面の中にいるような女の子を見るたび、嫌悪感が私を支配するのは、そんな願望が顔を出すからなんだろう。

 そういう女の子のポーチを勝手に持ち帰って、そういう女の子の使いかけのコスメを使ってメイクをした人間には、嫌悪感云々を語る資格なんてないのかもしれない。

 でも、どうしても、嫌悪せずにはいられないんだ。

 自分が喉から手が出るほどに欲しいものを、手に入れられている人間を、嫌悪せずにはいられないんだ。



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