マスカラ〼カラッポ〼ポーチ
湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)
第1話
こんなチャンスはもう二度とないと思った。
それがいけない事とわかっていたけれど、私は私を抑えつけることができなかった。
いいや、違う。
これまでずっと抑えつけてきたから、今この時、心が潰れて弾けたってだけだ。
カバンのファスナーを全開にする。コロン、と落ちているポーチへ手を伸ばす。それを掴むとすぐに引き寄せ、ポーチをカバンに滑り込ませる。ファスナーを閉める。ドクドクと打つ鼓動を落ち着かせようと、すぅ、はぁと音を殺して息をする。
久米さんのポーチが、私の体のすぐそばにある。
このポーチの中にはメイク道具が詰まってるって、私は知ってる。
喉から手が出るほどに欲しいと思った、かわいいのもとが詰まってるって、私は知ってる。
戻して、と叫ぶ、心の中の天使に言い聞かせる。
――盗むんじゃない。借りるだけ。一晩借りたら返すから。
廊下から、弾む声と足音が聞こえる。小さかったそれは、どんどん大きくなっていく。
ついさっき、勇気を出してよかった。
あの時迷っていたら、間に合わなかった。
「あっれぇ? ないなぁ。教室にもないってなったらさ、どこかなぁ」
「やば。先生に拾われたら、雷落ちそう」
「だるぅ……」
久米さんが、パン、パンと手を叩いた。
「先生に先に見つけられちゃうとしたら、井田先生でありますようにっ!」
私がそれを持っていると知らない久米さんは、蛍光灯を神のオーラとでも思い込んでいるかのように、天井へ祈りを捧げた。
「ねぇ。井田先生が離任したりしたら、どうなると思う?」
「えぇ……想像したくもないよ。あたしたちが卒業するまで、ずっといてもらわないと困る」
キラキラ眩しい光を纏ったような、弾む声が行ったり来たりする。久米さんたちは、私の存在なんて空気みたいに、私のことを一ミリも気にしないで、どこかへ消えた。
また、ひとりぼっちになった。
カバンのファスナーを少し開けて、中にそれがあることを確認する。じっとそれを見つめると、罪悪感に蓋をするように、ファスナーを閉めた。
「ただいま」
「おかえり、マイコ。テスト、どうだった?」
「んー。まぁまぁ」
「……なに? わたしの顔、なんかついてる?」
見つめすぎた。憎い顔を、私を罪人にした罪深い人の顔を見つめすぎた。
「んー? ごめん、ぼーっとしてた」
「なにそれ。人の顔見てぼーっとするとか」
「ごめんってば。部屋でミスったところ確認してくる」
「その前に、手洗いうがい」
「あー、はいはい」
「はいは一回でいいよ」
「あー、はーい」
お母さんの顔から目を逸らし、気だるく返事をすると、洗面所へ向かった。
手を洗い、ガラガラと無駄に大きな音を立ててうがいを済ませると、用なんてないけれど鏡の扉をそっと開く。
そこには、お母さんが溜め込んでいる基礎化粧品がずらりと並んでいる。高いんだからピチピチお肌の若者は使わないように、と私に何度も言い聞かせてくる、中途半端なこだわりが詰まったそれらを視線で舐める。
「学生なんてこれで十分よ」と、唯一使用を許され、私に支給されている、肌に少しの潤いしかくれない安物の化粧水とは明らかに格の違う瓶の隊列。
「久米さんは、こんなの使って肌をケアしてたり、するのかなぁ……」
はぁ、と震えるため息を、狭苦しい洗面所に逃すと、自分の部屋という殻にこもり、計画を実行するために歩き出す。
今日返却されたテストは、ケアレスミスしかしていない。
返却されてすぐに、自分の課題は明確になり、次に同じミスをしないで済むだろう対策もした。
だからもう、確認する必要なんかない。
つまり、私が勉強しているとお母さんが思い込んでいる時間は、私がひとりこっそりと使っていい、自由な時間。
それは、私が今日手に入れたアイテムを試すことができる、貴重な時間。
カバンのファスナーをそっと開く。
盗んできたポーチのファスナーも、同じように開けようとした。けれど、うまく開かない。
違う。手が震えて、うまく力が入らないんだ。
自分を焦らすつもりなんて一ミリもないけれど、まるで焦らされているかのように、なかなか中身は見えない。
ようやく全開にしたところで、それは口を「ん」と閉じたままだった。
部屋の中のあちこちに監視カメラでもつけられているかのように、あちこちから幻の視線を感じる。
指が、吐息が震える。
ギィギィと、油が足りないロボットみたいに関節を動かして、ポーチの口をゆっくりと開く。
「あは、あははは」
感情がごちゃごちゃになったせいで、感情の消えた笑いが漏れた。
強引に開くポーチの小さな口の中にあるものしか、私の目には映らない。
使いかけのコスメが乱雑に詰まっている。
底が見えたアイカラー。商品名の印字が削れたマスカラ。ケースが壊れているのやら、輪ゴムが掛けられているチーク。ペン型のアイライナーやらアイブロウがごちゃごちゃと数本。ゴールドが禿げてプラスチックが露出したフェイスパウダー。
店頭で触れるのが精一杯だったコスメたち。夢でしか使うことができなかったメイクセット。
『マイコー! 買い忘れちゃったものあるから、買い物行ってくるね』
家の中、部屋の外からお母さんの声がした。
「はーいっ!」
腹の底から、喜びを隠した声を出す。
しばらく、短くても三十分は、この家は私の城と化す。
自由だ。うるさい人にバレることを気にせず、私は夢を叶えられる。
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