第36話:暗雲
「あら?」
さんざん待たされたにもかかわらず穏やかな笑顔を浮かべて、つるつる頭を開けた扉から覗かせた香田さん。
「なんだ、徳さんじゃないの!」
その香田さんを見てママさんがすかさず呼んだ名前は、全く俺たちの知らない人のものだった。
「徳さん? 誰ですか、それ?」
「誰って、この人のことに決まってるでしょ」
「いやいや、違いますよ。このおじさんは香田さんと言って」
「何言ってんの。こんな見事なつるっぱげ、徳さん以外に誰がいるって言うのさ」
俺が間違いを指摘してもお構いなしに、ママさんは香田さんへ再び話しかける。
「でもどうして徳さんがここに? どうやって茜ちゃんの家を知ったんだい? てかあんた、最近はうちの店にさっぱり姿を見せなくなったじゃないか。こっちはあんたに伝えたいことがあったってのにさ」
おばさん特有の、相手に口を挟ませないマシンガントーク炸裂。
客の話を聞くのもお仕事なスナックのママさんとしてはどうだろうとは思うものの、ママさんだってその徳さんって人には色々と思うところがあってのことだろう。
ただ、人間違いされた挙句、それを指摘しようにも言い出す隙も与えられない香田さんにとっては、迷惑以外の何物でもない。
「そもそもあんた、茜ちゃんがどうなったか知っているのかい?」
ひとしきり言いたいことを言い切った後、ママさんは質問で締めくくった。
これで待ちに待った香田さんのターン。これでようやく香田さんは誤解を指摘することが……。
「あ、いや、その……そうだ、すまない篠原さん、実は予約している新幹線の時間ギリギリでね。今日はちょっと顔を見に来ただけで、悪いけどもう失礼するよ」
ところが香田さんは弁明するどころか、来たばっかりだというのにいきなりそんなことを言い出した。
「え? あ、あの、前から言われてたことの返事をしようと思ってたんですけど」
「ホント申し訳ない! もう時間がないんだ。一週間後に戻ってくるから、話はまたその時に。それじゃあ!」
よっぽど慌てていたのだろう、香田さんは篠原の言葉に聞く耳を持たないで気まずそうに顔を下に向け、俺やママさん、それどころか篠原ともまともに視線を合わせることなく、そそくさと部屋を出て行った。
その後姿をみんなして呆然と見送った後、篠原がぽつりと「……どういうこと?」と呟いた。
「どういうことって……だから新幹線の時間が」
「でも、あんなに急いでたんならドアをノックした時に言えばいいよね。今日は時間がないからって。なのに私がドアを開けるまで普通に待ってたよ? 私、結構待たせちゃったよね!?」
「それは……」
思わず言葉に詰まってしまう俺を、篠原が恨めしそうに見つめてくる。
篠原の気持ちは痛いほど分かった。言って欲しかったんだ。何か説得力のある理由を。
突然親戚を名乗って現れ、救いの手を差し伸べてきた香田さんを、どうにかしてまだ信じることができる言葉を。
「それよりもあんたたち」
納得出来る言葉が見つからず押し黙るしかなかった俺たち。
その沈黙をママさんが破った。
「本当に徳さんはあんたたちに香田だって名乗ったのかい?」
「……はい」
「香田ってのは確か茜ちゃんの旧姓だったわね?」
「なんでそれを知っているんですか!? ママは私にもほとんど実家の話をしなかったのに」
「らしいわね。あまり楽しい話じゃないから、って茜ちゃんは言ってたわ。でもその楽しくない話を、徳さんはやたらと聞きたがってね」
結局、その徳さんのしつこさに負けて、篠原のお母さんは実家のことを話したらしい。
名家の一人娘で、とても大事に育てられたこと。
ご両親と一緒じゃないと外に出ることも許されず、子供の頃はテレビゲームばっかりしていたこと。
高校生の頃に、親戚の人が家出をしたこと。
それを参考にして篠原のお母さんも駆け落ちをしたこと……。
「……それって全部香田さんが私たちに話した内容と一緒」
呆然と呟く篠原の身体がぐらりと俺の方へ傾いてきた。
慌てて受け止める。
今まで感じたことがない篠原の重さだった。まるで強い衝撃を受けて意識を失ったような、そんなぐったりとした重さがのしかかってきて必死に耐える。
無理もない。信じていたのに、ようやく自分の未来に光が差し込んだと思ったのに、全てまやかしだったなんて。
「なんてこと! 徳さんの奴、茜ちゃんから聞き出した話を利用して、親戚面して近づいてきたっていうのかい!?」
篠原の様子に状況を理解したママさんも、信じられないと頭を振る。
誰だってこんなことになるなんて思ってもいなかった。まさか篠原の親戚だと信じてやまなかった香田さんが、実は全くの赤の他人で、それどころか何かを企んで篠原に近づいてきたなんて。
……そうだ、香田――いや、その徳さんって奴は一体何を考えて篠原を引き取ろうとしたのだろう?
「……あの、ママさん、ひとつ訊きたいんですけど」
真相を知るためにどうしても確認しておきたいことがあった。
偽名まで使って接近してきた理由を、確定とはいかないまでも推測出来る証拠が欲しかった。
「あの徳さんって人、もしかして篠原のお母さんを口説いていた人ですか?」
☆ 次回予告 ☆
少女の身に一体何が起きているのか?
謎を解き明かすには、ある人物たちの力を借りるしかない。
次回、第37話『探偵参上』
親友、助けに来てやったぞ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます