第30話:鏡を拭け

「遅ぇぞ、この馬鹿野郎ども!」


 篠原のお母さんを荼毘に付した日の夕方。

 いつもより少し遅れて出勤してきた俺たちに、店長は何の遠慮もなく叱りつけてきた。

 遅れたといっても遅刻じゃないんだから、そんなに怒らなくてもいいだろうに。


 でもこれもきっと、一日も早く篠原が普通の日常に戻れるようにという、店長なりの気遣いなんだろう。

 相変わらず気配りが下手な人だった。

 

「さぁ早く仕事に入れ、おまえら」

「店長、その前にちょっと話、いい?」


 篠原の申し出に一瞬店長が面食らったのが分かった。

 篠原がいつにもなく真面目な口調で言ってきたのに驚いたのだろう。

「な、なんだよ」と口ごもりながら受け答える店長に、篠原がつい数時間前のこと――香田さんから持ちかけられた、これからの篠原の人生への提案についてを話す。

 

「マジか……」


 話を聞いて思わず絶句する店長の反応は、俺の想像通りだった。

 

「そいつぁよかった! よかったなぁ、初!」


 だけどすぐに強面をくしゃっと崩して、自分のことに喜んだのは正直意外だった。

 

「これでおめぇ、ちゃんと高校にも行けるようになるじゃねぇか!」


 篠原の肩をバンバンと叩いて祝福する店長。それは篠原が再び高校に行けるようになる事実だけを見ていて、彼女がこの店を辞めなきゃいけないことに気づいていないようにも見える。

 でも、きっと店長もすぐそのことには気がついたはずだ。だからこそ最初は俺と一緒で、なんとも歯切れの悪い反応になった。


 だけどそこからすぐ祝福できたのは、やっぱりなんだかんだで店長は大人なんだな。

 一方で今ももやもやしている俺は、どうしようもなく子供だった。

 

 篠原のアパートでお互いにひとしきり涙を流した後、香田さんは篠原に自分と一緒に暮らさないかと話を持ち掛けた。

 生活費はもちろんのこと、学費も面倒を見てくれるという。香田さんはずっと独身で、それなりに蓄えはあるのだそうだ。

 

 香田さんの話に篠原は感謝しつつも、しばらく考えさせてほしいと申し訳なさそうに答えた。

 本来なら即答してもおかしくないぐらい、今の篠原には願ったり叶ったりの申し出だと思う。

 それでもすぐに答えを出せなかったのは、香田さんの家がここから新幹線を使わないといけない地方都市にあるからだった。

 

 勿論、会いに行こうと思ったらいけない距離でもない。

 だけど今のように毎日顔を合わせるようなことは到底不可能で、ましてや居酒屋てっちゃんでバイトを続けるなんて絶対無理。

 つまりここ数カ月で築いたものを全て捨てなければ、篠原はそれを手に入れることはできなかった。だから返事を躊躇したのだろう。

 

「店長、喜んでくれるのは嬉しけど、でも本当にいいの? 私、ここを辞めなくちゃいけなくなるんだよ?」


 喜んでくれる店長に、逆に篠原の方が困惑したように尋ねる。

 

「いいに決まってんだろうが! こっちとしても生意気な奴がいなくなってせいせいするってもんよ!」

「その生意気な奴のおかげで店が成り立っているから、心配してるんだけど?」

「だからそういうところが生意気だってんだ! てめぇなんぞいなくてもこっちはやってけるわ、ボケェ!」

「ホントに? 私が辞めて一ヵ月で潰れちゃったりしない?」


 やいのやいのと言い争いを始めるふたり。

 それは篠原が居酒屋てっちゃんでバイトを始めてから、毎日のように繰り返されたやり取りだった。

 店長が篠原をからかい、篠原がやりかえして、あとはもうお互いに相手を言い負かさないと気が済まないと言わんばかりのやり取り。

 本当に馬鹿馬鹿しい、ふたりともいい加減にしとけよと思ったことなんて何度もある。

 

 それが今は何だかとても愛おしく感じて、こんなふたりのやりとりがこのままずっと続けばいいのにと思ってしまった。

 

「っておい時間! お前ら、早く仕事に取り掛かりやがれ!」


 もちろんそんな願いは叶うわけもなく、時間は無慈悲に進み続ける。

 篠原が慌てて掃除機を取りに行く。俺もトイレ掃除をしようと店長へ背をむけた。

 

「おい、童貞! ちょっと待て!」


 と、いきなり背後から肩に店長のゴツい手が置かれ、続けてぐいっと俺を覗き込むように顔を出してくる。


「トイレの鏡が今朝からどうも曇りがちなんだ。時間をかけて掃除してこい」

「え、でも開店までもうそんなに時間が……」

「いいかぁ、しっかりやれよぉ。てめぇが今どんな顔をしているのか、よーく分かるようにな」

「あ……」

 

 最初は戸惑ったものの、すぐに店長が何を言っているのか分かった。

 

「……俺、そんな顔してますか?」

「まぁ、無理もねえけどな。でもよ、惚れた女が幸せになろうとしてんだ。いつまでも顔を引き攣らせてるような奴は男じゃねぇぞ」


 店長が気合を入れるようにドンと俺の背中を押した。

 その勢いにたたらを踏みそうになるのを必死に堪える。

 この一歩は自分の意志で踏み出さなきゃいけないと、妙な意地のようなものが俺の身体を支配していた。



 ☆ 次回予告 ☆


 もし運命というものがあるのなら。

 ふたりの出会いは、運命だったのかもしれない。


 次回、第31話『あの日、あの時、この公園で』

 運命ならば、きっとまた出会えるはず。

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