第29話:涙

 篠原のお母さんの旧姓は香田と言うそうで、大地主の家の生まれだったそうだ。

 なかなか子宝に恵まれない両親がやっとのことで授かった子で、幼い頃から蝶よ花よとばかりに可愛がれたと言う。

 

「私は茜ちゃんと歳が近かったのでね。子供の頃は彼女の遊び相手を、私が勤めていたんだよ」


 篠原からお母さんの出自を聞いていると、部屋の片隅に置かれた骨壺に手を合わせていた香田さんが、振り返って話し始めた。

 香田さんは部屋に入った時に少し驚いたような様子だったけれども、篠原を見つめる優しい表情はずっと変わらない。

 

「もっとも茜ちゃんは、家の方針でほとんど外では遊ばせてもらえなくてね。いつも彼女の部屋で、テレビゲームの相手をさせられていたな」

「え? ママがテレビゲームですか?」


 篠原が信じられないと目を見開いた。

 確かに親がテレビゲームで遊んでたと聞かされると、子供としては何だか不思議な感じがする。でも今は大人でも、子供の時代があったんだ。マリオに夢中になっていた時があっても別におかしくはない。

 

「ママ、私にはゲームなんかしちゃダメって言ってたのに!」


 そっちかよ。

 まぁ、自分には禁じておきながら、実は子供の頃に遊びまくっていたと聞かされたら「なんだそれ!?」ってなるよな。

 

「それは多分、茜ちゃんにとっていい想い出じゃないからだろうね」


 憤る篠原とは対照的に、香田さんは少し悲しそうな表情を浮かべると、静かに説明し始めた。

 

「茜ちゃんはなんでも欲しいものは与えられたけど、唯一与えられなかったのが自由だったんだ。本当は彼女だって外で思い切り遊びたかったはずだよ。それでも子供だけで外に出て何かあったら大変だって、親と一緒じゃないと外出は認められなかったんだ。その反動で自分の娘にはテレビゲームなんかよりも、外で元気よく遊んで欲しかったんだろうね」


 その結果、篠原はそんなお嬢様育ちの親を持ったとは思えないぐらい伸び伸びと育ちましたけどね、とはさすがに言えなかった。

 代わりに「篠原のお母さんは箱入り娘だったんですね」と言おうとしたけれど、香田さんが「いわゆる箱入り娘ってやつだよ」と俺より先んじて言った。


「でもそれも度を越していた。きっと彼女もずっとストレスに感じていたと思う。そして彼女が大きくなった時、そのストレスを大爆発させてしまった。最悪なことにどうすれば爆発させられるのか、そのお手本になった人物がいたからね」

「お手本となる人物?」

「……私だよ」


 そう言った香田さんの顔は、とても苦々しいものだった。

 

「さっき茜ちゃんの遊び相手にさせられたって言ったよね。あれは少しだけ違っていて、実際は子供の頃だけじゃない、一生をかけて茜ちゃん、そして将来茜ちゃんが娶るお婿さんに仕えるよう、私は義務付けられていたんだ。それが私には耐えられなかった」


 街育ちの俺たちには信じられないけれど、血縁関係が強固な田舎ではよくある話らしい。

 特に分家の三男なんて立場は、まさにおあつらえ向きなのだと言う。

 

「ただ勘違いしないでほしいんだけど、茜ちゃんのことは別に嫌いじゃなかったよ。彼女は自分の方が立場が上だってことを分かっていながら、私のことをお兄ちゃんって慕ってくれてね。私も本当の妹のように思っていた」

「なのにどうして耐えられなかったんですか?」

「私にはもっとやりたいことがいろいろあったんだよ。それを我慢して、あんな田舎で一生暮らすなんて、到底受け入れられなかった。だから私は高校を卒業したその日、故郷を捨てたんだ」

「ああ、つまり」


 香田さんがさっき言った『お手本』の意味がようやく分かった俺は、改めてその言葉を口にしようとする。

 けれどまた香田さんが俺よりも早く「そんな私の行動を見て、茜ちゃんも私を真似ることにしたんだよ」と説明を付け加えた。

 

「あの頃の私はあまりに未熟で、自分のことばかり考えて、私の行動が茜ちゃんにどんな影響を与えるかにまで考えが及ばなかったんだ。だから随分と後になって茜ちゃんが駆け落ちしたと知った時は、ひどく後悔した」


 もっとも、もはや香田さんにできることは何もなかった。

 自分の役割を投げ捨てた香田さんは、当然のように家とは絶縁状態で、それが解消されたのは家出から十年以上経ってのこと。篠原のお母さんが駆け落ちしてからも同じような年月が流れており、今さら香田さんが何をしたところで本家の騒動は収まるはずもなかった。

 

「幸いだったのは、茜ちゃんが幸せな人生を送っていたことだった。うん、少し調べさせてもらってね。あの時は本当にほっとしたよ」


 本家のお屋敷とは比較にはならないものの、それなりの大きさの一軒家に住んでいた篠原一家。

 順風満帆なその様子に、自分みたいな故郷の関係者は近寄るべきじゃないと香田さんは思ったそうだ。


「だけどまた私は間違ってしまった。もしあれからも定期的に見守ることができていれば、お父さんの事故は無理でもせめて茜ちゃんは……」


 そう言って香田さんは両手を自分の太ももに置くと、頭を伏せて肩を震わせ始めた。

 その姿にふと、部屋の前で呆然と立ち尽くしていた香田さんの姿を思い出す。

 あの時に浮かべていた魂が抜け落ちたような表情は、途方もない喪失感がもたらしたものだったのだろう。

 そして今は取り返しのつかない後悔が、香田さんを苛む。

 

「……ありがとうございます。きっとママも香田さんのお気持ちに、天国で感謝していると思います」


 香田さんを救えるのは、もはや篠原しかないかった。

 

「パパが死んじゃった時に、ママが実家に電話しているのを見たことがあります。ママは泣いて謝っていましたが、許してはもらえなかったようでした。今度はママが亡くなって、私が連絡をしました。私のことを忌み児だなんだと罵った挙句、ママの死を知って出た言葉が『お家を潰そうとした罰が当たったんだ。いい気味だ』ですよ? ホント、あの人たちの中には、死んじゃったママを弔ってくれる人なんて誰もいないんだと思ってました」


 いまだ顔を上げることもできず、身体を震わせる香田さんの頭を篠原は胸に抱く。

 

「ママの為に泣いてくれて、本当にありがとうございます」


 篠原も頬を涙に濡らしていた。

 彼女が泣くのを見るのは、これが二度目だった。



 ☆ 次回予告 ☆


 男が少女の前に現れ、少女の運命が変わろうとしている。

 その時、少年は……。


 次回、第30話『鏡を拭け』

 出会いと別れが人生だ。

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