第27話:我慢しなくていいんだ

 一瞬、篠原が何を言っているのか分からなかった。

 裸? 裸? 裸って何だっけ?

 そんなことを考えながら明かりの消えた、窓からの月明かりだけが頼りの部屋の中へ目を細める。

 

 すると、見えてしまった。

 部屋の真ん中、ちゃぶ台があった場所に立つ篠原の姿が。

 恥ずかしそうに右手で胸を、左手で股間を押さえる、なにも服も着ていない篠原――。

 

「ご、ごめん!」


 裸の意味をようやく理解した途端、心臓がドクンッと大きく脈打ったのが分かった。

 俄かに心拍数がぐんっと上がり、息苦しくなって口をぱくぱくと動かすけれど、すぐに今やるべきことはそうじゃないと悟った俺は慌てて回れ右をした。


 しまった、十分に時間をかけて帰ってきたつもりだったけれど、まだ早かったか。

 しかもシャワーを出て服を着るタイミングで戻ってきてしまうとは、なんて間が悪――。

 

「待って!」


 扉にかけた手とは逆、買い物の入った袋を持った手を、篠原に握り止められた。

 なんでここで止められるのか分からない。ここは「きゃあ!」と叫ばれて、部屋の外へ追い出されるもんだろう。

 それとも何か、裸を見られた怒りでまずはひと殴りしないと気が済まない、とか?


 ありえる。篠原なら大いにありえる。篠原怒りの鉄拳に備えろ、俺!

 

「…………」


 だけどいつまで経っても衝撃はやってこなくて。

 代わりに背後から胸に手を回されたかと思うと、背中越しに篠原が突然抱きついてきた。

 

「ちょ! 篠原!」


 先ほど以上に心臓の鼓動が跳ね上がった。

 ニケツした時に、背中へやたらと柔らかくて弾力のある膨らみを押し当てられたことはあったけれど、服どころか下着すら身につけていない篠原のそれは、さらなる破壊力を誇る爆弾そのものだった。


 それになんだ、シャンプーの匂いか、それとも篠原自身が放つ香りかは知らないけど、何とも言えない甘い匂いが鼻孔を擽る。

 触覚と嗅覚と、そしてやたらと熱く感じる篠原の体温がじんわりと伝わってきて、俺の思考をどんどん単純化していく。

 

 こ、これって、そういうことだよな……。

 

 篠原のことは好きだ。でも彼女とお金の関係が発生している以上、想いを伝えるつもりはなかった。

 そんな男の意地みたいなものが、一瞬にして瓦解しようとしているのを感じる。

 

 だって篠原が――。

 

「アッキー……」


 篠原が俺の名を呼ぶ。

 俺も篠原の名を口にしようとしたけど、まるで彫像にでもなったみたいに口が動いてくれない。


「私、ずっと考えていたんだ」


 固まったまま、篠原の言葉を聞いた。


「アッキーに雇ってもらってるのに、私、なんにも出来てないなって。なにが出来るのかな、って」

「…………」

「店長に料理とか教えてもらって賄いとか作ってるけどさ……でも、それで月五万円はないよね……」

「…………」

「だから色々考えたんだけど、やっぱり私にできることなんてこんなことしかなくて……だから、アッキー」


 篠原がひときわ強くぎゅっと抱きしめてきて、体を密着させてくる。


「お願いだからアッキーはどこにもいかないで」

「…………」


 篠原の言葉を聞きながら、俺はただ自分がひどい勘違いをしていたことを恥ずかしく感じていた。

 ああ、なんて情けない奴なんだ、俺は。ひどく自分を責め立てる感情が、こんこんと沸き出てくる。


 おい、アッキーよ、お前はこれまで篠原の一体何を見てきたんだ?

 お母さんが戻ってくるのを信じて児童相談所の助けを借りず、ひとり暮らしを続ける為に、一時は自分の身体を売ることまで決意していた篠原が、お母さんの死を前にしていつもと同じなわけがないだろう?

 

 篠原は全部我慢してたんだ。

 見たくもない現実を見ないよう、あえていつものように明るく振舞っていたんだ。

 もしかしたら俺に心配かけたくなくて敢えてそうしたのかもしれない。

 篠原ってのはそういう奴じゃないか。

 

 なのに意外と大丈夫そうだなとか、これなら付いていなくてもいいかなとか、本当に自分自身に呆れる。

 おまけに俺を引き留めた篠原の気持ちにも気付かず、こんなことを篠原にさせてもまだ勘違いしているって馬鹿かよ、俺は。

 

 ああ、分かった。分かったよ、篠原。全部分かった。

 馬鹿な俺にも、ようやくお前のことが本当に分かった。

 だから頼むよ、もうやめてくれ。お願いだから

 

「一緒にいてくれるなら、私……」


 その先は頼むから、もう言わないでくれ。

 

「……篠原」


 俺は胸の前に回された篠原の手に出来るだけ優しく触れた。

 そこでようやく俺は篠原がさっきから身体を強張らせ、小さく震えていることに気づいた。

  

 安心させたくて指を絡ませ、強く握る。

 何度も何度も力をこめて、大丈夫だと言い聞かせるように。


 そうしているうちにやがて篠原のこわばりが弱まっていくのを感じた。

 もう大丈夫かと思って、篠原の腕を少しずつ俺の身体から離していく。

 

 篠原は今どんな顔をしているのだろう。

 そんなことを思いながら自由になった上半身のTシャツを脱いで、振り返らず後ろ手で篠原に渡した。

 

「アッキー?」

「篠原、大丈夫だ」

「え?」

「こんなことをしなくても、俺はずっとお前と一緒にいるから」

「……本当?」

「ああ。だから服を着てくれ。汗臭いかもしれないけど」


 ほどなくして背後から服と肌が擦れ合う音が聞こえてきた。

 名残惜しい気持ちがないと言えばウソになる。でもまぁこれでいいんだと自分に言い聞かせた。

   

「もういいよ」

「おう……っておい、お前、マジかっ!」


 振り返るとTシャツがぱつんぱつんになった状態の篠原が立っていた。

 しまった、情けないことに俺は篠原よりも身体が小さかったんだ。だからこうなることに振り返る前に気付くべきだった。


 ってか、これはダメだろ、下手したら裸よりもエロい。

 というか下は何も穿いてないんだからちゃんと隠してくれ、篠原!

  

「……アッキーこそ……マジなの?」


 カッコ悪くあたふたする俺を、でも篠原はいつものようにからかったりはしなかった。

 代わりにじっと見つめてくるその瞳はこれまで見たことがないぐらい必死で、らしくないぐらい弱々しくて


「本当に……アッキーは……どこにも行かない?」

 

 縋りつくような眼差しは、俺に落ち着きを取り戻させるのに充分だった。

 

「篠原!」


 それでも気が付けば俺は、篠原の名前を呼んで抱きしめていた。

 篠原を少しでも安心させてやりたくて。

 俺はどこにも行かないと伝えたくて。

 薄いシャツごしに今度は胸で感じる弾力に、しかし今は戸惑うこともない。ただぎゅっと、これでもかとばかりに力強く篠原を抱きしめた。

 

「ママが死んじゃった……」


 耳元で篠原が呟く。さらにもっと強く抱きしめる。

 

「ママが……ママが……」


 やがて篠原はこれまで我慢していた分を吐き出すように泣き始めた。

 それでも寝静まったアパートの住人のことを考えて声を押し殺す篠原は、やっぱり篠原だなぁと思った。



 ☆ 次回予告 ☆


 少女の希望は儚く星へと還った。

 でも、少女の毎日は続く。少年と共に。

 彼女を取り巻く人たちと一緒に。


 次回、第28話『みんなが彼女を愛してる』

 きっと読者の方々も、篠原さんを愛してくれていると信じてる。

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