第11話:決めたぞ

 置いていた自転車を取りに、すっかり陽が沈んだ街を一緒に歩く篠原は、もう逃げようとはしなかった。

 その途中で例の通りを歩く。

 女の人たちはもう誰も立っていなかった。

 みんな無事にカップリングを済ませた後なのか、それとも警察の一斉検挙があったのか。

 分からないけれど、今はもうただの人が混み合う道に篠原も俺も用事は何もなかった。


「ま、そんなわけで」


 つまらなそうにさっきまで立っていた辺りから視線を逸らし、篠原が首の動きで行こうと促して続きを話し始める。

 

「ママはパパと駆け落ちしたのがクセになったのか、昔から何かと嫌なことがあったら逃げちゃう癖があるんだよ」


 例えば篠原がまだ小さかった頃、言うことを聞かない彼女に嫌気がさして家を飛び出したり。

 例えば近所付き合いが上手く行かなくて、しばらく家に閉じこもったり。

 夫婦喧嘩が原因で失踪するなんてこともあったらしい。

 

「もともといいところのワガママお嬢様だったからね。仕方ないのかもしれないけれど」


 そういう篠原だってつい一年前までは親が社長のご令嬢だったくせに、とは思わなかった。

 社長といってもそれほど大きな会社ではなかったらしいし、なにより篠原自体、令嬢と呼ぶにはあまりにタフでフランクすぎる。

 母親を反面教師にして育ってきたからかもしれない。

 

「だから家に帰ってこなくても『ああ、またか』と思ってたんだよね。パパが亡くなってふたりで生きていくことになって、ママはそれでも珍しく頑張ろうって前向きになってくれたけれど、それでもそのうち無理が来て爆発するだろうなとは思ってたし。それにいつも二、三日で帰ってくるから」

「でも、それが?」

「うん、まさか二ヵ月も帰ってこないとは予想外だった」


 ――振り返ってみれば昨夜、篠原のアパートに行こうと提案した時の彼女の反応はおかしなものだった。

 篠原は自分の声の大きさを心配するだけで、自分の家に男を連れ込むなら一番気にするであろう親の存在を、今から思えばまるっきり無視していた。

 いくら母親が普段から夜遅くに帰ってくるとは言っても、絶対だとは限らない。体調不良やらなにやらで早く帰ってくることもあるだろう。

 そんな当たり前の危惧がごっそり抜け落ちていたことに、篠原が置かれた状況の深刻さをその時に察するべきだったのかもしれない。

 

 母親との二人暮らしと、篠原ひとりだけでは全く話が違う。

 そりゃあ学校も辞めざるを得ないわけだ。

 なんせ収入がない。コンビニでのバイトだって、篠原によればついうっかり母親が家を出て行ったことを漏らすや否や、あっさりクビを言い渡されたそうだ。

 なんでもそういう人物は何かをやらかす可能性が高いから、だとか。

 

 普段の篠原と接していたら、彼女がそんなことをしないって分かるだろうに、それでも万が一の危険性を重視する。積み重ねた信頼なんて、リスク管理の前には何の役にも立たないのが、悲しいことにこの世の実態だった。

 

 だから篠原は立ちんぼで自分の身体を売ることにしたのか。

 事情は分かった。痛いぐらいに分かった。

 

「なぁ、なんで児童相談所に連絡しないんだ?」


 でもやっぱり納得なんてできない。

 くそったれな世の中であるけれども、篠原みたいな人に助けの手を差し伸べてくれるシステムがこの国にはある。 

 それを利用せず、自分で自分を傷つけるのは馬鹿げている、ように俺には思える。

 

「……まぁ、そう思うよね」


 篠原が自嘲気味な笑みを浮かべたかと思うと、ついと顔を俺から逸らした。

 何か見つけたのかと思って、俺もそちらの方へと視線を向ける。

 

「でもママはきっと戻ってくるから」


 行き交う人の中に知った顔はなく、もしかしたら篠原がお母さんを見つけたのかもと淡い期待をしていた俺の耳に届いたその声は、どことなく気恥ずかしさを秘めた匂いがした。


「だけどもう二ヵ月も経ってるんだろ?」

「うん、なかなか気合の入った家出だよね」

「家出って……これはそんなのじゃなくて」

「ううん、家出だよ」


 篠原が断言する。

 まるで家出以外の表現を頑なに拒否するかのように。

 

「だからね、戻ってきた時に私があのアパートにいないとママが困っちゃうでしょ? 児童相談所に連絡したら、きっと施設で保護されちゃうだろうからダメだよ」

「でも」

「それに一度施設に保護されたら、いくら戻ってきたママが私を引き取ると言ったところで取り合ってくれないかもしれないって――あっ!」


 突然大声を出した篠原が走り出した。

 一体どうしたのかと思ったら、篠原の自転車が今まさにトラックへ乗せられようとしているところだった。

 どうやら不法駐車をしていたらしい。

 篠原が自転車を撤去しようとしていた人たちに平謝りして、なんとか取り戻すことに成功して戻ってきた。

 

「危なかったな」

「危機一髪だったね」

「てかいくらお金が惜しいからってちゃんとした駐輪所に停めろよ。持っていかれたら取り戻すのに確か3000円ぐらい取られるんだぞ」

「……まぁ、お金で取り戻すことが出来るのならまだいいよね」


 一瞬何を言っているのか分からなかったけど、「でも孤児院に保護されたらそうはいかないかもしれない」と続けてくれたので合点がいった。

 

「だからママが家出から戻ってくるまで、私はなんとしてでもひとりで生きていかなきゃいけないの。その為にはどうしてもお金が必要なんだよ」


 もともと貯えがあったわけでもない。

 売れるものは売って、生活を可能な限り切り詰めながら雇ってくれるところを探してと、出来ることは全てやりつくした。

 

「それでもどうしようもなくなったから、自分の身体を売ることにしたんだよ。だからアッキー」


 篠原は自転車に跨った。

 てっきり今夜も自分がペダルを漕がなきゃいけないと思っていた。

 だけど今日の篠原はサドルに座る。

 それはここでお別れの意味。そして――


「もう邪魔しないで」


 これ以上関わらないでという篠原の意志表示だった。

 

「邪魔、だったか……」

「昨日のことは本当に感謝してるよ。おかげで遅れていた家賃を払えたし、これでしばらくは大家さんにあれやこれやと詮索されなくて済む。ホント助かった。でもね、今日みたいなことは止めて欲しい、マジで」

「…………」

「分かってる。アッキーの気持ちは痛いほど伝わってるよ。でもどうしようもないんだよ。嫌でもやらないと生きていけない。それが今の私の現実なの」


 現実。

 そのどうしようもない言葉を、これほどまでに重く感じたことはなかった。

 父親が死に、母親が失踪した現実を前にして、俺の「身体を売るな」なんて要求はただのわがままにすぎない。篠原の言う通り、現実の厳しさを知らない子供の幻想だ。必死になって、現実に食らいつこうとしている篠原にとって、俺は確かに邪魔者以外の何者でもなかった。

 

「……じゃあそろそろ行くね」


 篠原が自転車のペダルに足をかける。

 最後だと思った。

 篠原となんでもない話をしたり、冗談を言い合ったり、お互いにむきになって言い争うこともこれが最後だと。


 実際にはアパートに行けば会うことも出来るし、篠原が立ちんぼする街を変えてもしつこく探せば見つけ出すことはできるだろう。

 だけどその時に会った篠原が、今の篠原と同じだとは言い切れない。

 なにもかもが変わり果てた篠原になっている可能性だってある。


 だからこれが最後。

 篠原を、俺が知っている篠原のままで、引き止めることが出来る最後のチャンス。

 

「篠原!」


 つい大声を出してしまった俺に、篠原が少し眉を顰める。

 勘弁してほしい。

 きっと人は何かを強く決めた時、声が必要以上に大きくなるものだから。

 

「篠原、俺、決めたぞ!」

「決めた? 決めたって何を?」

「決めたと言ったら決めたんだ」

「いや、だから何をって聞いてるんでしょうが」

「だから篠原、教えてくれ」

「ちょっとアッキー、人の話聞いてる?」


 会話になってないのは自覚している。

 それでも構わず、俺は興奮状態のまま問いかけた。

 

「篠原を買うとして、俺は一ヵ月に幾ら払えばいい?」 



 ☆ 次回予告 ☆


 少年は言う。

 これは同情なんかじゃない、少女にそんなことをして欲しくないと願う俺のエゴだと。

 そんな少年に、少女はどう答えるのか――


 次回、第12話『彼女の提案、俺の要望』

 どうぞお楽しみに。

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