第4話:五万円の使い道
『アッキー、ちょっとそれ取って』
今となっては定着しているこのあだ名を、初めて呼ばれたのは中二の時だった。
相手はクラスで誰よりも友だちが多くて、誰よりも毎日を楽しそうに過ごしていて、誰よりも色んなことに一所懸命で、そして誰からも好意を持たれるショートボブの女の子。バスケ部なだけに背は女子にしては高く、胸に至っては同年代では誰よりもでかいって男子の間では有名だった。
『え、アッキーって俺のこと?』
『そ。だってアキラって名前で呼ぶよりアッキーってあだ名の方が仲良しって感じでいいでしょ?』
『……俺たちってそんなに仲良かったっけ?』
『え、ひどい。一緒にバーベキューの火おこしをした仲じゃん!』
それはたまたま野外活動の班が同じで、たまたま一緒に火おこし役へ回されただけなのでは?
そう思ったけれど、あまり否定し続けるのもどうかと思ったので「まぁ、別にいいけど」と心のむず痒さを隠すように敢えてぶっきらぼうに言い放った。
なのにニカッと嬉しそうに笑った彼女。
その忘れがたい笑顔が今、俺の目の前にあった。
「え? し、篠原!?」
生まれて初めて女の人を買おうとしたその時、突然俺のあだ名を呼んで割り込んできたのは、中学時代の同級生・
印象的なショートボブだった髪が肩を隠すほどに伸びていたので、名前を呼ばれるまで存在に気が付かなかった。
ただ、あの頃と変わらない屈託のない表情、それにこんなところで中学を卒業して以来の再会を果たしたというのに、気まずさを感じることなく嬉しそうな笑顔を浮かべることができるあたりは、あの頃とまるで変わっていなかった。
「うん! 久しぶりだねぇ、アッキー。相変わらず背がちっこくて、女の子みたいな可愛い顔してるなぁ」
「う、うるせぇ!」
怒ってみせるも内心は心臓バクバクだった。
なんで篠原がこんなところにいる? まさか篠原に限ってそんなことは……。
でももしそうだったとしたら、俺がここに来た目的もバレバレじゃないか!
おい、神様、勘弁してください。
確かに高校生の分際で女の人を買おうなんて罪深いにもほどがありますけど、だからってこれはあんまりすぎる。
知り合いにこんなところを見られるなんてそれだけでも恥ずかしいのに、よりによって篠原になんて……。
頭がパニックになって、深い後悔に苛まれる中、篠原は嬉しそうに話し続ける。
それは懐かしい友人に出会った反応そのまんまだった。
高校のこと、中学の友だちのこと、最近あった面白いこと。ホント、次から次へとなんでもない話題が彼女の口から飛び出てくる。その様子に俺みたいな混乱や恥じらいは微塵もない。
そんな篠原を見ていると、やがてなんだか慌ててる自分が馬鹿に思えてきた。
と、同時に新たな可能性に気づく。
篠原だってさすがに自分がそういうことをしていると知られるのは嫌なはずだ。なのにこうも平然としていられるのは、実はたまたまこの場所に居合わせただけなのではないだろうか。
見れば周りの立ちんぼの人達がみんな小綺麗な格好をしているのに、彼女は普通のジャージ姿だった。いかにも学校帰りって感じで、周りとは明らかに異質な存在だ。
そうか、そうだったのか。
なんだかすごく安心する自分がいた。
「で、なんでアッキーはこんなところにいるの? ははぁ、さては……」
が、俺の心を再びかき乱すように、篠原は子供っぽい悪戯っ子な目つきで言った。
「アッキーも売りに来たんだな? そっか、アッキーってやっぱりそういう人だったのかぁ」
「……は?」
「で、アッキーはどんな人が好みなの? クールなエリートサラリーマン? それともマッチョ系? 中学の時の友だちがね、アッキーは絶対強気受けだって言ってたけど」
「ちょっと待て! そんなわけあるか!」
「そなの? じゃあツンデレ受け?」
「だから違うって! 俺にそういう趣味は無ぇ!」
「え? ってことはアッキー、まさか若い子好きなおばさんに体を……」
「だーかーら!」
昔と変わらない、突拍子もない発想で揶揄う篠原。
そんな篠原に思わずツッコミを入れてしまう俺。
中学の頃と同じやりとり、なのに心は落ち着くことなく、再び激しく動揺し始めた。
だってそうだろう。
このやりとり、もう完全に確定じゃないか。
ああ、くそっ! 篠原にこんなところなんて、絶対に見られたくなかった。
恥ずかしくて今にも死にそうだ。
それに篠原、お前に一体何があったんだよ!
なんでこんなことをしてるんだ、お前は!?
「ふふん、必死だねぇ、アッキー。分かった分かった。その必死さに免じて売りに来たんじゃないって信じてあげるよ、うん」
篠原、なんで俺に声をかけてきた?
なんでそんな楽しそうに笑っていられる?
なんでそんなに平然として
「じゃあ私を買いに来てくれたのかな?」
笑顔でそんなことが言えるんだ?
「ちょっとあんた、それ、ルール違反だから」
恥ずかしさと、混乱と、疑問と、どうしようもない絶望にも似た感情と。とにかくそんなものに再び満たされて心がいっぱいいっぱいになっていたら、俺が声をかけようとしていたお姉さんが軽く睨みながら篠原へ話しかけた。
篠原はそこで初めて彼女の存在に気付いたようで、きょとんとした表情で「え? ルール違反?」と問いかける。
「うん。そいつ、私に話しかけようとしてたじゃん。それを知り合いか何か知らないけど割り込んで横取りって、あんた、いい根性してんね?」
言われて「あー」と小さく声を上げた篠原は、再び視線を俺に移してきた。
気まずくて、目を逸らす。
「…………」
さっきまであんなにしゃべっていた篠原が突然無言になった。
むしろ「アッキー、サイテー」と貶される方が楽だと思えるぐらいの、重い無言だった。
「こういうところにも一応ルールはあるの。これからは気を付けてよ」
お姉さんの注意に篠原が小さく「……はい」と答えるのが聞こえる。
気まずさに一秒でも早くここから逃げ出したかった。もうお姉さんで童貞卒業とかどうでもよかった。
そうだ、逃げよう。
そう思った時だった。
「そもそもさ、あんたにはこの子よりももっと金払いが良さそうな奴がいるじゃん」
そう言ってお姉さんがちらりと視線を向ける。視線の先は、ファーストフード店の入口辺り。
つられて俺も見ると、店に背を預けて、こちらを伺うような小太りな中年男性がいた。
「帽子を深く被っているから分かりにくいけどさ、あいつ、ずっとあんたのことを見てたよ」
それが何を意味するのか、場慣れしてない俺にだってすぐに分かった。
だから次の瞬間、
「あ、あの! 俺、やっぱりやめときます!」
俺はショートボブのお姉さんに向かって頭を深々と下げながら「ごめんなさい!」と謝っていた。
さっきまで黙って逃げようと思っていたのに、今はちゃんと謝らなきゃいけないと思いなおす。
だってこれからすることは、お姉さんにも、そしてここまでおぜん立てしてくれた順平にも悪いなと思ったから。
でもどうしようもなかった。
ここでそうしなかったら、きっと俺はずっと後悔する。
そんな確信があった。
せめてものお詫びに財布から今日の為に貯めた一万円札を全部取り出すと、その一枚をお姉さんに差し出す。
この手のキャンセル料が幾らなのかは知らないけれど、なんとかそれで収めて欲しい。
だって残りは別のことに使うって今、決めた。
「篠原!」
振り返ると、俺は篠原の手に、残った一万円札を全部押し付ける。
篠原は一瞬何が起きたのか分からないように目をしばたたかせて、俺と握らされたお金を不思議そうに眺めた。
「五万円ある! これでお前を買う! いいな!」
「え? いや、ちょっと」
「なんだよ!? もしかして五万じゃ足りないっていうのか!?」
予想外なことに思わずお姉さんに差し出した一万円札へ、恨めしそうな視線を送ってしまった。
「ち、違う! 五万円は高すぎるよっ!」
「だったらいいじゃないか!」
「で、でも……」
「いいから! 早くお金をしまえ! ほら、行くぞ!」
俺はあたふたと財布を取り出す篠原に焦れて、その肩に手を回すと強引に引き寄せた。
そして苦々しい表情を浮かべて一万円札をぐしゃりと握りしめるお姉さんと、相変わらず帽子に隠れて表情を伺い知れない中年男性をよそに、大通りに向かって歩き出した。
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高校生が五万円でやったこと タカテン @takaten
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