第18話:エルフの里の変貌
夕暮れ前の穏やかな時間、フィンはいつものように世界樹の高い枝に腰を下ろしていた。
上から眺める里の景色は、日常の穏やかさに包まれている。
優雅に歩くエルフたち、風に揺れる緑の木々、そして何も変わらない静けさが広がっていた。
世界樹の根元から漂う淡い光は、里の住民たちにとって生命そのものだ。
聖なる力に包まれながら静かな日常を過ごすことは、エルフにとっては当たり前のことだった。
里を守り続ける光のおかげで、外の世界から隔離されたような、完璧なまでの平穏がここにはあった。
しかし、フィンにとってその平穏は、どこか息苦しいものだった。
エルフたちは外の世界に目を向けず、世界樹に依存し、里の中だけで満足して生きている。
外の世界に対する興味や好奇心を持つエルフなど、ここには皆無だ。
フィンは高く
彼の心の中には、外の広い世界への憧れが募っていた。
「もっと自由に、旅に出られればなあ……」
指揮棒サイズの杖を握り締め、フィンは小さく
彼にとって、里は美しくても刺激に欠ける場所だった。
フィンが見慣れない男を目にしたのは、そんな時だった。
「……あれは?」
里の市場に、自然と寄り添って生きているエルフの里とは不釣り合いな姿があった。
真っ白なスーツに淡い紫色のマントを羽織った男が、雑貨を扱っている店先に立っている。
その姿は、エルフたちの中にあって異質だった。
光の結界と門番のおかげで、部外者の侵入は例外なくありえない。
里にいるはずのない存在が、平然とそこに存在している。
フィンは、急いで枝から飛び降り、地上へ向かった。
純粋に好奇心が掻き立てられている。
(なんか、変な奴がいる!)
イベントが少なく刺激を求めていたフィンにとって、見慣れない男の訪問は見逃せなかった。
世界樹の根元に降り立ち、目的の店が見える位置にたどり着く。
男の周りにはエルフの女性たちが円になって取り囲んでいて、女性の誰もが意中の異性でも見ているような様子で騒いでいる。
彼女たちは何かを話しながら、笑顔を浮かべていた。
(なんであんなにうっとりした顔をしてるんだろ?)
エルフは外見的に整った種族であり、美しさに対して特別な価値観を持っているため、他種族に対して外見で心を動かされることはほとんどない。
「あの男……」
フィンはその男をじっと見つめた。
一見すると、彼は美青年ですらっと背も高く、スーツも完璧に着こなしているように見える。
ただ、エルフを虜にするほどかと言われるとどうなんだろう?
男はスーツの袖を整え、優雅な仕草でエルフたちに微笑みかけた。
彼女たちはこの男に釘付けで、まるで彼がこの世の全てであるかのように振る舞っている。
「キミタチのこの里は本当に素晴らしい場所であるな。美しい自然と、純粋な空気……完璧に近いのである。しかし、もっと大切なものを探しているのだよ」
彼の声は低く、柔らかい。
それがさらに女性たちを魅了しているように見えた。
店の奥から出てきた若い店員も、男の元に近づき、うっとりとした様子で言葉を交わし始めた。
「お探しのものは……恋愛成就のお守りでしょうか? この里の名産品です」
店員がそう言うと、男は一瞬目を輝かせ、さらにエルフたちの間でカッコつけるようにマントを翻して応じた。
「その通り! 恋愛成就、最高じゃないか。私には特別な人がいるのである。完璧な贈り物を探していてね、これが彼女に相応しいかどうか見極めたいのであるよ」
周囲のエルフたちはその言葉に微笑み、再びため息をついた。
店員は棚から美しい
お守りの一部は世界樹の葉で作られており、温かみを感じさせる品だ。
それを差し出すと、男は優雅に受け取り、じっと見つめる。
だが、次の瞬間、その表情が変わった。
「……いや、これはダメであるな」
「え……?」
男は手のひらでお守りを撫でながら、細部をじっと見つめる。
そして、指先でわずかな汚れを見つけると、それをつまんで
「こんなシミがあるものを、私の大切な人に贈るわけにはいかないのである」
店員のエルフは驚いた表情で男を見た。
「え? どの部分ですか? これは素材の自然な風合いで……」
「そんなことはどうでもいいのである。美しさには完璧さが必要なのだよ。 キミタチ……こんなものが恋愛成就のお守りだなんて、嘘だろう? 愛はもっと完璧でなければならないのである。これでは、私の愛する人に喜んでもらうことなど到底できないのだよ!」
エルフたちは微笑みを浮かべ、男に同調するように頷いていた。
その様子はあまりに不自然で、フィンの背筋に冷たい汗が流れる。
「私が求めるものは……完璧なものだけである」
フィンは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
周囲のエルフたちは、誰一人として彼に異議を唱えない。
それどころか、彼の言動に合わせて「そうだね、完璧なものじゃなきゃ」「確かに、少し汚れてるかもしれない……」と口にし始めている。
まるで彼の言葉に従っているかのようだ。
「何かがおかしい……」
フィンの胸に、不安が募り始めた。
彼はもう一度、男の顔を見つめる。
確かに整った顔立ちだが、エルフたちがそこまで心を奪われるほどのものではないはずだ。
どうして誰も彼に逆らわないのか。
そして、男はふと手を止めた。
鼻をクンクンと鳴らしながら、取り巻きのエルフ女性の首筋の匂いを嗅ぎ始める。
匂いを嗅がれた女性は、恥ずかしそうにしながらも嬉しそうにしていた。
しかし、男は不快な表情を浮かべ、問いただす。
「キミ、複数の男の匂いがするのである。まさか、不貞を働いているであるか?」
問いかけられた女性は一瞬罰の悪そうな顔をするが、男に対して嘘を言うという概念そのものが抜けてしまっているのか、素直に答える。
「……はい、その通りです。ですが! 今はもう貴方様だけの……」
男が話の途中で指を鳴らすと、女性は一言も発せずに店のナイフを手に取り、首に刃を当てて一気に切り裂いた。
鮮血が飛び散り、その場に倒れて動かなくなる。
フィンが見ていた場所からは距離があり、何かしようとする間もなかった。
いや、近かったとしても動けなかっただろう、フィンが先ほどまで感じていた不安は焦りと恐怖に変わり、その場から動くことができなくなっている。
「不貞はダメである」
男は倒れた女性を一瞥して言うと、すぐに興味をなくして視線を上げ、世界樹の方へと向けた。
「……この里も、素晴らしく美しいことは間違いなのである。でも、惜しいかな、完璧ではないのであるよ。やっぱりあの木のせいであるな」
男は静かに呟く。
彼はゆっくりと立ち上がり、世界樹へと歩み始めた。
その姿は変わらず優雅だが、今のやり取りを見ていたせいか、底知れぬ不気味さを
フィンは、彼の後を追おうとしたが、足がすくんだままだ。
この男に近づいてはいけないと体が本能的に警告しているかのようだった。
男は世界樹の根元にたどり着くと、白い革手袋をつけた右手を樹皮にそっと触れる。
「この里は……まだまだ改善の余地があるのである。完璧にするためには、やっぱりお借りしている
そう言うと、彼の手から黒い靄がゆっくりと広がり始めた。
靄は瞬く間に世界樹を包み込み、その聖なる輝きを奪っていく。
フィンは何もできず、見守るしかなかった。
周囲のエルフたちは、彼に反抗することなく静かに立ち、黒い靄に飲み込まれるたびにその場に倒れ込んでいく。
フィンもまた、靄に飲み込まれると同時にうつ伏せに倒れ、気を失った。
「これでオビー様もお喜びになるし、振り向いてくれるに違いないのであるよ。なにせ、完璧に仕事を遂行したのだからね。エルフの里も、世界樹も――全て、私が完璧にしてあげたのだよ!」
里が徐々に異常に包まれていく。黒い靄がエルフたちを支配し、世界樹はその力を失っていった。男は両手を広げて深呼吸し、満足げな表情で振り返ると里の外へと歩き始めた。
「さて――それでは、急いでオビー様の元に帰らねば。ああ、愛しのオビー様、このヴァルゴ、すぐに参るのである」
フィンが目覚めた時、そこに以前まであった美しい里は無く、フィン以外の住民全員が正気を失っていた。
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