第14話
眠りに落ちていく最中、ベッドの上で意識の揺らぎを感じながら深い深い底へと心と体を沈めていく感覚は、水の中にいる時の感覚に似ている。
(今日は、水の中にたくさんいたからかな……?)
目蓋を閉じるだけで昼間の出来事が鮮やかに目蓋の裏側に再生されて、今は柔らかなタオルケットに包まれているはずの肌にも、水の感触が蘇ってくる。
スイミングスクールに通いたいと母に相談してから一週間。ようやく今日、体験レッスンに参加することができたのだ。
母は終始心配そうに見守ってくれていたけど、凛音は特に溺れそうになることもなく、順調にレッスンをこなして終わった。
終わったあとに、別のコースで練習していた類がやってきて『凛音くん、上手いじゃん!』と言ってくれたことでようやく母は安心し、正式な入会手続きをすませてから帰ることになった。
(シュウちゃんには会えなかったけど、次行った時は会えるかな……?)
そんなことを考えているうちに、凛音はいつの間にか完全な眠りに落ちていた。
夢は見なかった。
ただ、眠りの底から呼び戻されて目蓋を持ち上げた瞬間、目元から雫のようなものがぼろりとこぼれ落ちた。
「あれ……?」
さらにぽろぽろと大粒の雫がこぼれて、枕元を濡らす。
指先を目元に伸ばしたら、あたたかな水滴が指先にくっついてきた。
どうやら自分は、寝ている間に涙をいっぱいためていたらしい。
(どうして……?)
悲しいことなんてなにもないのに。
悲しい夢を見たわけでもないのに。
だったら嬉し涙なのかというと、それもまた違う気がする。
どうしていいのかわからず、凛音は涙が止まるまで泣き続けた。
「凛音ーっ!」
ドア越しに、母の声が響いてくる。
時計を見れば、七時をすぎたところだった。
朝ご飯ができたのかもしれない。
泣きはらした顔を見られるわけにはいかなくて、凛音は布団の中にもぐる。
寝たふりを決め込んでいると、やがて階段を昇るスリッパの音が聞こえてきた。
「凛音? まだ寝てるの?」
「…………」
布団越しに、肩のあたりを軽く叩かれるが、凛音は石にでもなったように動かなかった。
そのまま息をひそめていると、やがて母は諦めた様子で階段を降りていく。
「すみません。声をかけたんですが、起きなくて……」
ドアの向こう――おそらく玄関のあたりから、かすかにそんな声が聞こえてくる。
「いえ、大丈夫です。朝早くにすみません」
答える声に、凛音は驚いて目を見開いた。
(シュウちゃんの声だ!)
慌てて飛び起きて、足をもつれさせるほど大急ぎで階段を降りる。
その間に、玄関のドアが閉まる音が聞こえてきたものだから、余計に焦った。
「あら? 起きたの? いま、森倉先生が来てたのよ」
「早く言ってよ!」
「早く言ってもなにも、あんた、寝てたでしょ」
呆れて言い返してくる母に返事する暇もなく、凛音は玄関を飛び出した。
「シュウちゃん!」
声をかけると、すでに十メートルほど離れたところにいた愁が驚いた様子で振り返る。
そして、ぐしゃぐしゃに乱れた髪の毛とパジャマ姿で出てきた凛音の姿を見て、やわらかく微笑んだ。
「悪い、起こしたか」
「大丈夫だけど……なんで急に……? なんか、用事でもあったの?」
愁は基本的に礼儀正しい性格だ。用もなく、早朝にいきなり訪ねてくるようなタイプではない。
「凛音、うちのスイミングスクールに入会したらしいな。昨日の夜、練習に行った時に事務の人から聞いた」
「え……うん」
(昨日、シュウちゃん、来てたんだ)
凛音が行ったのは午前中だ。
会えなくて残念だったけど、同じ場所にいたんだ、と思うと少しだけ嬉しくなる。
「大丈夫か? 無理するなよ」
「なんで……? 前世では溺れて死んだから、心配?」
あまり喜んでくれているわけではなさそうな気配に、凛音はムッとして言い返す。
すると、愁は困ったように視線を揺らす。
「そうだな……心配だ」
嘘が下手で、ごまかすのも苦手な愁は、控えめながらも素直に肯定する。
「もう溺れて死なないように、泳ぎを覚えることにしたんだよ。まだ下手くそだけど……上手くなったら、また一緒に海に行ってくれる……?」
「海は…………ダメだ。悪い」
本当に申し訳なさそうに、愁はキッパリと言い切った。
「そっか……」
それを否定することなど、凛音にはできるわけがなかった。
過去をやり直すことはできても、過去は消えない。
来栖リンネがあの夏、あの海で死んだことは、神様にだって覆すことができない事実だ。
あの夏、一緒にいた友達を海でなくしてしまったという愁の傷を癒やすことは、容易ではない。
「……でも、プールならいいぞ」
沈んだ様子の凛音を見かねてか、愁は代案を出してくる。
「……スイミングスクールのプール?」
「いや、ウォータースライダーとかがあるような……遊園地みたいになっているプールがあるだろう? ああいうところなら、安全管理がしっかりした中で遊べるし、ちょうどいいんじゃないのか?」
「それって、デートってこと?」
「な……」
真面目だった愁の顔に、動揺が浮かぶ。
「そういうわけじゃ……いや、そうなのか?」
耳がわずかに赤くなったように見えた。
頭を掻くさまはどう見ても照れていて、この癖は何年たっても変わらないんだな、と凛音はほっとさせられる。
凛音はくすっと笑う。
「どこでもいいよ、シュウちゃんが連れて行ってくれるなら」
気づけば、前世で幾度も口にしたセリフを、凛音は口にしていた。
愁が真顔に戻る。
「これから大学の水泳部の合宿なんだ。五泊六日だから、次に会えるのは約一週間後になる。オレが戻ってくるまで……ここにいてくれるか?」
凛音は今度は苦笑することになった。
「そんなホイホイ何度も死んでられないよ。今のところ旅行の予定も引っ越す予定もないしさ、どこにも行かないって」
当たり前のことを言えば、愁はほっとしたように口元を緩めた。
「お土産、買ってくる。食べ物で、苦手なものはあるか? ……実は、これを聞くためにおまえの家に来たんだ」
愁は相変わらず真面目だ。
「僕が好きな食べ物なら、シュウちゃんが一番よく知ってるでしょ」
「食べ物の好みは……変わっていないということか?」
「味覚はまったく同じじゃないかもしれないけど……変わらないよ。なんにも」
愁が近づいてきて、手を伸ばしてきたかと思ったら、頭を撫でられた。
「わかった。行ってくる。一人で危ないところに行くなよ」
「はいはい」
「なにかあったら連絡しろ」
スポーツバッグの外側のポケットに入っていた紙を渡される。
そこには、愁の携帯端末の電話番号と、ご丁寧に、合宿先の電話番号まで書いてある。
「うん。ありがと!」
ぶんぶんと大きく手を振り回して愁の後ろ姿を見送りながら、凛音はあることを思い出した。
「シュウちゃーん! 今度の花火大会、また一緒に行こうよーっ!」
口元に当てた手をスピーカーのかたちにして、遠ざかっていくジャージ姿に向かって声を張り上げると、振り返った愁は笑顔を見せ、返事のかわりに大きく手を振ってみせた。
「……よし、夏休みの宿題、さっさと終わらせちゃお。シュウちゃんが合宿から帰ってきたら、たくさん会いに行くんだ」
まだ気温の上がりきらない、爽やかな夏の朝の空気のなか、凛音はこっそりと拳を作った。
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