第17話
香織に相談をした五日後、また連絡するという言葉通り沙織から連絡があった。
幸い沙織に指定された日は土曜日で、香織の埋め合わせの日は日曜だったから、香織に心配をかけることはなさそうだと、安心したのが昨日のこと。今は駅前のビルに行くとき以外はいつも待ち合わせに使っている駅で、沙織を待っているところだった。
今日は梅雨にしては珍しく晴天が広がっていて、日陰にいても少し汗ばんでくる陽気だった。道を行き交う人も半そでで歩いている人がほとんど、夏本番も近づいてきているんだなあと実感する。
昨日は雨が降っていたせいか、じめじめとした空気でどうにも本を読んで待つような気分にはなれそうにない。
手持無沙汰な私は、待っている間に沙織との連絡を取り合ったメッセージを見る。というのも今回の沙織のメッセージには気になるところがあった。
『午前九時にいつもの駅前に集合 行き先は水族館』
そう書かれていた。
心境の変化でもあったのだろうか、沙織にしては珍しく行き先が書かれている。
行き先も伝えず連れて行くのに引け目を感じ始めたとか、あるいは私を試しているのか。今日の自殺に何か影響することでもあるのか、私の反応を見たくてからかっているのか。
ただ単に行き先を伝えられただけなのに、ベッドの上で十分くらい考え込んでしまった。沙織じゃなかったらこんなことで考えを巡らせることもない。考えるのをやめてから自分の行動を振り返って思わずクスッと笑っていた。
沙織の真意は置いておくにしても、今回みたいに行き先を教えてくれるのはありがたかった。というのも、場所に合わせて服とか小物なんかを考えることができないから、今までどこにでも合わせられるような服にしてきたわけだけど、正直それは少々女子高生としてはうれしくなかった。なのでこうして場所に合う服をコーディネートできるのは楽しくて結構時間がかかってしまった。
ふと、駅舎の中にある時計に目を向ける。
時間がかかったとはいえ、沙織に小言を言われるのは嫌だったからいつも通り、集合時刻の十五分以上前にはここに来ていた。けどすでにその集合時刻は過ぎてしまっていて、もうじき十五分になるところだった。
沙織にしては珍しい、沙織はいつも集合時刻の三十分前にはついている。そればかりか時間の十五分前に私が来ていないと遅いと言ってくる始末で、それなら三十分前の時間を集合時刻にしてよと思うわけだけど、それはまあ置いておく。とりあえず言いたいのは沙織は時間はきちんと守る、それに加えてかなり余裕を持たせるようにしているということ。
それが今日はこれだけ遅れているわけで少し心配になってくる。
三十分になっても連絡はない。沙織じゃないし「ああ、来ないんじゃ帰るか」となるわけもない。私は沙織の家へと向かうことにした。
蒸し蒸しとした空気の中、スマホとあたりを見比べながら歩いていく。
実を言うと私は沙織の家がどこにあるのかは知らない。いつも集合場所にしている駅の近くだということは教えられていたけど正確な家の場所を教えられたことはない。知る必要もなかったし、沙織も積極的に自分の話をするような人ではないのも相まって、今まで知る機会がなかった。
とはいえあてずっぽうということでもない。沙織が少し前にボソッとこぼした言葉で、家が相当でかいことはわかっている。曰く「人を探すのに苦労する 」だそう。今までいいところの子だというのはうすうす感づいてはいたけど、その言葉以来、沙織をそういう家の出だという目線で見るようになった。見るようになっただけで何も変わらなかったけど。
例えばうちで飼っているよくしゃべるインコが、実はいい血統の出だと教えられたみたいなのだと思う。よくしゃべるし頭はいいんだろうと思っていたけど、突然血統が由緒正しいとか教えられても、ああそうなのか見たいな感慨しか浮かばないみたいな……。
うん、なんかたとえが絶望的に下手だ。沙織ならもう少し上手くたとえそうだ。私が表現できる範囲だとそんな感じ。
と、どうでもいいことを考えていると、グーグルマップで目星をつけていた家にたどり着く。
「おお……でかい」
地図上で見た時も大きいなとは思ったけど、やっぱり実物は迫力があった。一面ヒノキの壁で覆われていて、ところどころ壁に装飾がされていた。たぶん四方をこの壁で囲われているのだと思う。装飾もやけに凝っていて、壁だけでなんとなくお金持ちなんだろうなと予測がつけれてしまうほどだった。
そして沙織の家かどうかの確認もすぐにすんだ。少し歩いたところに小さい入口のような場所があって、たぶん裏口なんだと思う。そこにあった表札に「登坂」と書かれていた。
さすがにこんな大きな家がもう一個あって、かつ同じ登坂という名字であることはないだろうしここが沙織の家で合ってる。そう信じ切って家の外周を歩いていく。
外周を歩いていればいつかは表玄関につくものだと思っていたけど、なんというか、沙織の家ではないという可能性があるのではないかとすら思えてくるほどに、なかなかに道のりが長かった。
「暑い……」
この気温と湿度の中長時間歩いているとさすがに汗がひどい。
ハンカチを取り出して汗をぬぐう、そしてまた汗をぬぐう、そんなことを三回ほどやっているうちに面倒くさくなってしまって、適当に手で落とすようになっていた。
沙織はなぜ来ないのか、今日はなぜ行き先を教えてきたのか。
今日以前まで考えを巡らせて、沙織が今日こそは少しだけでもいいから自分を見せてくれないかとか。
そんなことを考えながらぼーっと壁伝いに歩いていく。
額から流れ落ちる汗を振り払うと、いきなり大声が聞こえてくる。
自分のことでもないのに思わず肩をびくつかせてしまって「うっ!」なんて情けない声を出してしまった。恥ずかしい……。
それはそうと声の出どころはどこかと、きょろきょろしていたら、どうやら今伝っている壁の向こう側から聞こえているらしい。そしてちょうど壁の装飾から中が見えてしまっていて、しかも植え込みの目隠しもその部分だけ枯れていて。
後ろめたいものを感じながらのぞき込むと、私の探している人がそこにはいた。大きな日本庭園様式の庭を挟んだ先、窓ガラス越しにその姿を確認した。
私をいびったりけなしたりいじめたり、けれどどこか同情的な感情を向けてくる女の子。
なんのけなしに声をかけようとして、様子がおかしいことに気が付く。あの孤高のお嬢様が
『目の前の何かを見て恐怖の色に染められた顔から、一筋の涙を流していた』
怖がる姿はおろか動揺すらほとんど見せない、嘲笑以外の感情なんて表に出さないあの沙織が泣いていた。顔面蒼白、体も震えていて、誰かに何かを訴えかけるように叫びながら、左腕をさすっていた。
いやな汗が流れ出る。後ろめたさというより、気持ちの悪いものを見ているときの気分に近かった。
左に視線を移すと、六十台半ばといったところの男性が沙織の目の前に立っていて、その手に握られていたのは紙の束。私はそれに見覚えがあった。あれは恐らくこの前沙織に見せてもらった小説の原稿用紙の束だ。なかなかあんな大きなクリップは見ないし、そうに違いないと確信めいたものを感じた。
その紙の束を持つ人物、恐らく年齢的に沙織の父親だろう人の顔は無だった。目の前にいるのは沙織であるはずなのにまるで物を見るような、そこらへんに転がっている石ころを見るような眼をしていた。
初対面、というよりもあってすらいない人の顔を見ただけで、この言葉を言うのは自分でもどうかと思うけど、その人に対して「ああこの人はきっとかかわっちゃいけない人だ」そんな風に思った。
そして今まさに私が抱いた感想を体現するかのようにその人は、うそ……ああ、認めたくない光景が広がっている…………沙織がその人に殴られていた。
沙織の耳元で何かぼそぼそと口を動かした後、表情を変えずに、本当に表情一つ変えずに、沙織なんて目じゃないほどに無感情に、みぞおちあたりを殴っていた。
それも一発で沙織が崩れ落ちるほどに重いこぶし。
その怪力は本物のようで、崩れ落ちながらも必死に縋り付く沙織に見向きもせず、原稿用紙を両手でビリっと破いてしまった。あんな分厚い原稿用紙を一息に。
あたり一面に散らばる紙の束、目を見開く沙織。クリップのついていた片側だけを残してもう片方は散ってしまう。
原稿用紙なんてコピーなのだから、パソコンにデータさえ残っていればすぐにでも復元できると思う。なのに沙織があんな風になってしまうのは、そのデータさえ消されてしまっていて、あれが最後のデータだったのか。それともほかの理由だったのか。
沙織には失礼だけどそんなことは今の私にとってはどうでもよかった、ほんとびっくりするぐらい沙織の小説の安否なんてどうでもよかった。それよりも、目の前で起こった出来事を経た沙織の姿が私の情動を揺さぶり続けている。
ひどい表情だ。今までに見たことない、絶望という文字が似合うような顔をしていた。それにあんなみじめな姿。無様に地面にはいつくばって涙を浮かべている。いつも笑顔で私をいたぶる沙織が。
私の中で何かが静かに、けれど大きなひびが入る音が聞こえた。
視界が揺れる、自分がふらついているのもわかる。疲れているわけでもないのに息が切れていて……それに心臓もぎちぎちと痛む。自殺の時だってこんなには痛まないくせに。
自分のことでもないのにこんなになってしまうなんて、と少し残る自分の冷静な部分が訴えかけてくる。けども動悸は収まらない。
目の前で沙織がみじめに見えただけで、お前が言うには、嫌いなあの人の弱さを見ただけでここまでの動揺をしているのだよと、自分の体が伝えてくる。
心臓をつかむ。離れるべきだと訴える頭に反して動かない足。
沙織が私のほうを見た気がして、左足を一歩引く。
やっと動き始める足。
そこからは早かった、一目散に元来た道を引き返し目の前の認めたくない事実から目を背けるように……逃げた。
走って走って走って走って、逃げた。
そして、私は走りながら涙を流していた。
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