第9話
電車の低いガタゴトという走行音にまじって、キャッキャと楽しそうに笑う子供の声が聞こえてくる。その隣では静かにしなさいと母親らしき人がたしなめる。それでも奇心は抑えられないらしく、暗い窓の外を眺めてみたり母親に話しかけたりしていた。
その様子をほほえましく思いながら眺めていると、母親が申し訳なさそうに頭を下げてくる。
それに対して私は母親を安心させようと笑顔で「大丈夫ですよ」と応じる。それを聞くと母親はすみませんと再び謝った。
幸いその車両には私たちとその親子しかいなくて、母親にこれ以上頭を下げさせることが無いのが私にとってはよかった。私はこんな風に母親が子供のことで周りに頭を下げるのを見るのが心苦しい。日本はもう少しこういう親子に寛容になるべきだと思う。
そしてそんな寛容ではない日本人の一人と勝手に思っていた相手である沙織は、意外なことに一人楽しそうに声を上げて笑っている子供を一瞥することもなく、ただ黙って本を読んでいた。
いや、意外でもないか。いつも私に対してはきつく当たってくるから感覚がマヒしていたけど、沙織は基本事なかれ主義だ。誰にかまうわけでもなく一人で我が道を行く、沙織は本来こういう人間だった。
「何?私の顔に何かついてる?」
「そう言うわけじゃない」
「そんなに意外かしら」
「何も言ってないんだけど」
「見ればわかるわ。別に私はあなたが嫌いなだけで、何も嫌いでもない人に嫌味を言ったりはしないわ」
よく好きの反対は無関心という言葉があるけど、沙織の中では無関心と嫌いの立場が逆転していそうだ。
「普通に私に嫌味言うのもやめてほしいんだけど」
「やめてほしいのなら私に好かれるように少しは善人の道から外れてみることね」
「さすが悪役が言うと参考になるな~」
「ええそうね、偽善者さん」
顔をしかめると対して沙織は「ふっ」と嘲笑してくる。
「私を欺きたいなら少なくとも私の気持ちぐらいは読めるようになることね」
「そんなの無理でしょ」
「かも知れないわね」
「……じゃあ、この前みたいに沙織を押し倒したら多少は動揺してくれる?」
「それはそのあとのあなたの行動次第ね、どうせ無理でしょうけど」
「うざい」
「ありがとう」
「だからほめてないって」
普通だ。
昨日あんなことがあったのに沙織はいつも通り。
いつも通り大人っぽい落ち着いた色合いの服に、長く伸び整えられたきれいな黒髪。背筋の伸びたきれいな姿勢とタイツをうっすらと纏う長く伸びたきれいな脚。いつものブックカバーに細くてきれいな手。
いつもの格好にいつものしぐさ、いつもの言葉使いに表情。
正直言って、私は少し話すだけでも思わず汗がにじみそうになるのに、沙織はいつも通りで別にあれで何か変わると思っていた訳では無いけど、やっぱり沙織は沙織なんだと思い知らされる。
とくとくと少しだけ、ほんの少しだけ早く脈を打つ心臓が痛い。
「次は———口は右側です」
自分の中を循環する血液を感じながらぼーっとしていると駅に着くアナウンスが流れる。
そういえば今日も例にもれず、沙織にどこに行くのかを教えてもらっていない。
もうなんか最近は詳しく聞くのも面倒くさくなってきている。
私は二人で自殺できればそれでいい。だから沙織が何をしてこようと気にしないし私は何もしない、私たちの関係はそれ以上でもそれ以下でもない。
私は昨日あの後そう結論付けた。それは沙織もきっと変わっていないと思いたい。
「燈火さん降りるわよ」
「え、あ、うん」
長い髪を翻しながら降りていく沙織の背中を、さっきの親子に頭を下げてから追っていく。
「今日はどこ行く気なの?」
「映画よ、燈火さんも見たい映画だと思うわよ」
「ふーん」
そんなよく知っているわけでもない他人の映画の好みなんて知るわけないと思っていると、沙織が見せてきたスマホにはさも当然かのように私の見たい映画のタイトルが示されていた。
今回もどうせその観察眼を存分に発揮して私の好みを見抜いたのだろう。
その映画は最近私が注目していた作品で、日本の現代の女子高生が、タイムスリップした中世のヨーロッパで、苦しみながらも強く生きて結婚に至るという話だ。
作中、売春や奴隷なども出てくる割と重めの作品で、普通の女子高生なら見ようともしないはずなのに、この作品を私の見たい映画としてあててくるのは割と怖い。
「どうしてわかったの?並大抵のことでは知りえない好みだと思うんだけど」
「感よ」
「いや絶対うそでしょ」
「合っているならなんだって良いじゃない」
「沙織は良くても私は怖いんだけど……」
「なら、あなたの持っていた本の傾向から読み取った、とでもしておこうかしらね」
「やっぱ怖い……」
沙織は多分他の人とは感覚が違う。
普通の人なら敬遠するようなことを平気で言ってくるし、妙なところで鋭い。
そういえば少し前に読んだ小説で、IQの違う人同士だと会話が成立しないという話も聞いたことがある、それにIQが高い人は感覚が鋭いとも。
もしかすると沙織は私のIQのはるか彼方をいっているのかもしれない。ふとそんな考えがよぎるが頭をふって振り落とす。
いや、少し頭のいいだけの性格の悪い女子高生だということにしておこう。じゃないと沙織に学年順位で負けているという事実が頭をよぎる。
「沙織ってなんでそんなに頭いいの?」
「急に何?」
「学力だけじゃなくて今みたいに細かいところまでよく見てるし、怖いけど素直にすごいなって。あとは私怨」
「ふっ、意外と根に持っているのね」
沙織は得意げに笑うと黒いワンピースを翻して振り返る。
相変わらず動作の一つ一つがきれいだなんて沙織を見ていると思う。
「でも、それだけは渡さないわ。申し訳ないけれど私、死にたくないもの」
「学年1位じゃなくなったら死ぬってどういうこと」
「教えない」
「またそうやってはぶらかす」
そういうのはやめてほしい、そう言いたかったけど口にはしない。
昨日みたいに友達みたいなことをしようとしたり、単純なことで壁を作ってきたり。一貫性があるならいいけどこうやって壁を作られると、仲のいい振りをされたみたいでもやもやする。
というかそもそも沙織と仲良くなりたいわけでもない。
「そのうち教えるわよ。もしかしたら意外と早くに知ることになるかもしれないわね」
「どういう意味?」
「今日次第ってことよ」
「答えになってないし」
怒る私を見て沙織はおかしそうに笑う。
長いエスカレーターを登りきり駅を出ると三大都市らしく息の詰まるような人だかりで、その中を沙織は縫うように進んでいく。その後ろ姿を見失わないように気をつけながらついていく。
今日は住んでいる市の中心部ではなく、県の中心都市まで来ている。なんでもここでしかできないことがあるらしくここまで来たらしい。
映画館なら、いつも飛び降りるビルの道路を挟んだ向かい側にあるから、わざわざここまで来る必要もないし、多分目的は映画館ではない。
映画館まで来ると都会の映画館らしくだいぶ広いホールになっていた。沙織はその中を迷うことなくチケット売り場まで向かって行く。
慣れた手つきで画面をタップしていって、映画のチケットを取ると売店の列に並ぶ。私はここの映画館に初めてくるけど、沙織のほうは慣れているみたいだし前にも来たことがあるのかもしれない。
「燈火さんは何を食べるの?」
「私はポップコーンとメロンソーダかな」
「私あまり食べられないからポップコーン少し分けてもらえる?」
「じゃあもう一回り大きいのを買っとく」
「そう、ありがとう」
「いえいえ……って、え、怖いんだけど」
思わずぎょっとして沙織の顔を見る。
あの沙織がさりげなくお礼を言って来た。いままで『そう』とか『ええ』とかそっけない言葉ばかり言っていたのに、今急にありがとうと言って来た。
まあ、一応昨日も言っていた気がするけど、今みたいな普通の会話でありがとうなんていわれるのは初めてだ。沙織でもありがとうなんていうんだと当たり前のことを考える。
「失礼ね、別にお礼ぐらい言ったっていいじゃない」
「そうだけど……やっぱなんか変、ツンデレってやつ?」
「そう言うのじゃないわよ、ほらバカなこと言っていない早く行くわよ」
そういって手を上げる店員のいるレジまで向かう沙織のほほが、若干赤く染まっているような気がした。
沙織は素直になるのが苦手なのかもしれない。そういう意外なとこは少し好感が持てる。
「沙織って結構かわいいとこあるね」
じろりと沙織がにらんでくる。
「さすがにやりすぎよ」
やばい、怒らせてしまった。
「ごめん調子乗った」
睨んでくる沙織は怖いけど意外な姿を見れたおかげで少し気分はいい。
そんな問答をしながら座席に着く。
体重でクッションが沈み込み座席が私を包み込む。
少し薄暗いのも相まってなんだか落ち着くし、だんだんと眠くなる感覚に陥る。
大体の映画館は高そうなふわふわとした椅子で結構好きだったりする。
クラスの子たちの中にはネットで配信されるからあまり映画館に来なくなったという話はよく耳にするけど、私はこの椅子に座りながら映画を見るのが好きで、サブスク配信が当り前になった今でも変わらず結構きていたりする。
「なんかお母さんを思い出すなぁ、だから好きなのかも」
「え?」
「あ、いや何でもない」
「教えて」
「何を?」
「今のよ、何か思い出すとか何とか言ったじゃない」
「お母さんを思い出すって言ったけど、それがどうかしたの?」
私が言い終わる前に沙織はカバンから手帳を取り出すと何やらメモをしていく。
「それ何」
「小説のネタ帳よ」
「え、それってネタ帳って小説の内容をメモしたものじゃなくて、自分用のネタ帳ってこと?」
「それ以外何があるのよ」
「じゃあ、小説書いてるってこと?」
「そうね」
私としては結構衝撃的な事実をさらっと言われたわけだけど、沙織は何とも思っていない様子で、紙に視線を移したままどうでもよさそうに答える。
でも言葉とは裏腹に目は真剣そのもので、何かをつぶやきながら紙にシャーペンを走らせていく。その表情は沙織が今まで見せたことのない表情で、記憶にこびりつく。
沙織でもそんな表情できるんだな……。そう思うと少し寂しいような気がした。
真剣な沙織に話しかけるわけにもいかず手持ち無沙汰になったので、スクリーンに流れる広告をぼーっと眺める。
近日公開予定の映画だったり、駅の近くのビルに入る店の広告だったり、映画館に足を運んだ人にどうにか記憶に残ってもらいたいと考えられただろう、趣向の凝らしたものがつらつらと流れていく。
そのうち自殺が増えているということを伝える、どこかのNPOの広告が流れてくる。相談してとか、一人じゃないとか、テンプレみたいな薄っぺらい言葉が並べられていた。
多分私みたいな人間に言っているんだろうけど、正直何も感じない。そこまで言うならこんな現状を変えてよと思う。けど私の場合は誰にどうこうできる問題でもないわけで、不毛すぎてそれ以上考えるのはやめた。
そう言えば沙織は、過去に自殺をしたことがきっかけで死に戻りするようになったと言っていた。言われた時は他に色々ありすぎてよく考えなかったけど、沙織にも私と同じように死にたいと思うような出来事ないし、気持ちになったことがあるということなのだと思う。だけどその理由を詳しく聞いたことが無い。
小説を書いていると言っていたし、やりたいことがあるなら死にたいと考えないのではと思ってしまうけど、実際自殺しているわけで少し不思議。
沙織のほうを見ればすでにメモを書き終えたのかスクリーンのほうを向いていた。
スクリーンの光に照らされて沙織の整った顔立ちがよく見える。
私から見た沙織は、何事に対しても冷めているように見える。自分がないというわけではなく自分をしっかり持っていて、私みたいに周りに合わせようとはしないという意味で冷めている。合わなかったら風のようにそこを離れていく人。私には到底できない強さだ。
なのに自殺をするぐらいに死にたいと思ったことがあったり、今も私と時々、自傷行為と称しながら自殺している。そう考えるとさっきの真剣な表情の沙織やいつもの冷めている沙織、自殺する沙織、どれが本当なのか分からなくなってくる。
「何?暗くても見ているのはわかってるわよ」
「あ、ごめん、沙織きれいだなって思って」
「そう、私の顔に見とれるのはいいけど携帯の電源は切っておきなさいよ。私、映画の最中に電話の音が鳴らす人、普通に軽蔑するから」
私に言っているはずの言葉なのにやけにに大きな声を出すから、周りに座っていた何人かソワソワとしだす。そしていそいそとポケットやらカバンやらに手を伸ばしている。
得意げに嘲笑ともとれる笑みを浮かべる沙織と見比べて、私も思わず笑みを浮かべる。
笑いながら、さっきまでの真剣な面持ちの沙織と今のいつも見せる表情の沙織、そのギャップに不思議な感じがした。
横目で沙織のルビーのような瞳を見て、何をどうしてか触ってみたいと思った。右手を上げようとした時、館内が突然暗くなる。
何事かと前を見れば映画が始まったようで映画の配給会社のロゴマークが浮かび上がってくる。
沙織から視線を外し椅子に座り直す。そしてもう間もなく映画本編が始まった。
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