第2話
時の流れは早く、あっという間に入学式を迎えた。真新しい制服に身を包んだリオの背中を思い出しながら、俺はというと、一人部屋で寝込んでいる。
まさか、入学式イベントという一世一代の機会を目前にして、季節外れのインフルエンザに襲われるなんて……。
お兄ちゃん失格だ。ハッピーエンド計画が早くも頓挫している。幸いにも土日を挟むから、来週からは問題なく登校できそうだが、この遅れは痛い。とりあえず、リオが帰ってきたらクラスの様子と、あとメイン攻略対象である「王子様」に出会えたかどうか聞かないと…。
このゲームには、何人かのメインキャラクターが存在している。まずは主人公である、最愛の妹リオ。それから、リオと恋愛に進展する可能性がある、六人の男子生徒。その中でも一番の主役、パッケージど真ん中に書かれている「王子様」と迎えるエンディングが、このゲームに用意されているストーリーの中で一番幸せ…の、筈だ。だから、なんとかリオがその「王子様」と同じクラスになっているといいんだけど…。
熱で朦朧としつつ、それでもやる気だけが働いている頭でぐるぐる考えていると、家のインターホンが鳴る。妹は入学式、母は付き添い、父は仕事だから、出られるのは俺しかいない。どうしよう。宅配便とかだったら、再配達めんどくさいだろうし、出たほうが良いんだろうか。考えながら、のろのろと自室を出て、マスクをつけたら玄関へ向かう。
「はい、どちら様でしょうか」
なんでインターホンをガン無視して、直接ドアを開けたんだろう。扉の向こう、立っていた相手のびっくりした顔を見て、そんなことを思った。体はそれほどしんどくないが、やはり熱とは恐ろしい。判断能力が鈍ってしまう。
「…あー。えっと、くずみくん、だよね」
「はい」
返事をしながら、来客の姿をまじまじと見る。灰色の生地に赤いラインの入った制服。色素が薄く、少しだけクセのある髪。同じ色の、こちらを見つめる瞳。彫刻みたいに通った鼻筋。何より、頭上のパラメータ。妹や中学のクラスメイトの時とは違い、縁が上等な絵画みたいな装飾を施されている。こ、これは。
「…お、王子様だ…!」
「…はあ?」
「あっごめんなさい。あの、なんだか、そう呼ばれていそうだなって」
「…ああ」
王子様という言葉に反応して、表情が一瞬だけ曇る。なんだか、ものすごくまずいものを食べた時、みたいな。
しまった。いくらなんでも失礼すぎた。初対面の相手にいきなり、王子様みたいですよねなんて。人によっては嫌味と受け取っても仕方がない。何か弁明をしようと頭を働かせていると、目の前の彼が一枚のプリントを差し出してくる。
「これ」
「え」
「今日配られたやつ。俺、久住くんと同じクラスなんだ。だから、先生に頼まれたんだよ」
「あ、ありがとう…」
穏当に、にこりと微笑む顔には何か、違和感がある。顔というキャンバスに無理やり表情を貼り付けたような、やっぱり、機嫌を損ねてしまったんだろうか。
「それじゃあ、俺はこれで」
「えっ…あ、お、お待ちください!」
焦りすぎて変な口調になった。踵を返し、完全に帰ろうとしていた後ろ姿を走って追いかけると、彼は、俺の変わりすぎている口調のせいなのか、驚いた様子で足を止める。グッジョブ、俺のトンチキ。
「初対面でいきなり失礼なことを言ってごめんなさい。プリントありがとう。入学式の後で疲れてるのに、迷惑だったよな」
「いや、別に…」
「改めて、久住ナオです。クラスメイトとして、これから何卒よろしくお願いいたします」
言いながら、深々と頭を下げて手を差し出す。それと同時に、そのまま地面へ崩れ落ちた。忘れてたよ。俺っていま、めちゃくちゃ熱あるんだった。その状態でマスクつけていきなり走って、それはこうもなる。
「いや、土下座までしなくても…」
いきなり地面と熱烈キスをかました俺を見て、彼は勘違いをしたようだ。しばらく周辺で戸惑いながら、やがて異変に気がついたようで、恐る恐る俺の首元に手を当てる。死んだと思われたのだろうか。流石に脈はあります。
「ねえちょっと、大丈…熱っ! 君いま何度くらいあるの?」
「十六度くらい…?」
「まずいな、会話が成立しないレベルか…ああ、もう」
少しだけ苛立った様子の彼を見て、心の底から申し訳なくなってきた。何度も言うが、入学式は一大イベントだ。ゲーム的な意味でも、ここで今、実際に生きている人間にとっても。彼だってその一人で、だから本当はこんなところでおかしな病人の介護ではなく、新しく友達になる予定のクラスメイトたちと、寄り道とか何とかしたかったはずなのに、俺のせいで全てがダメになっている。
何とか謝罪の言葉を捻り出そうとしていると、体がふわりと軽くなる。お迎えが来たのだろうか。こんなにも早く最期が来るとは思わなかった。ごめんな、リオ。お前を絶対に幸せにしてやりたかったのに…。
「…っとに、もう。何なの、お前」
悪態が、随分な至近距離で聞こえた。最近の天使は口が悪いのだろうか。混濁した意識で、薄く目を開く。
そこには、俺を抱き抱えて移動する彼の姿があった。
「家はここだよね。悪いけど、勝手に入るよ」
「えっ……」
「部屋は?」
「に、にかいの、つきあたり」
「薬は?」
「ベッドのよこに」
「そう。水を持ってくるから、ちょっと待ってて」
質問に答えていただけなのに、先ほどまで路上で倒れていた俺は、きがつけば家の中にいて、自分の部屋のベッドに寝かされていた。ここまで運んでくれた上に、今は薬を飲む準備までしてくれている彼は、きっと王子様ではなく聖人だろう。そう呼ばれているに違いない。なんて、ああ、だめだ。さっきそうやって、機嫌を損ねたばかりなのに。
しばらく意識を遠くへ飛ばしていると、階下から彼が戻ってくる。手には、いつも父さんが愛用している湯呑みに注がれた水があった。
「ほら、水」
「……」
「飲めない? …ちょっとマスク外すよ」
「うつったら、いけない」
「それはもう、今更だね」
自分の部屋へ戻ってきた、という安心感もあってか、先ほどよりも自分を律する心が溶けて、受け答えがしっかりとできない。薬を、飲まないといけない。わかっているのに体が動かせずにいると、彼の手が伸びてきて、俺の顔からマスクを外す。
「ほら、水を持って」
「…うん」
「そうしたらこっちの手で薬。封は切っておいたから」
「…至れり尽くせりの満漢全席で、大盛況のところ本当に申し訳ございません…」
「…何を言ってるのかはわからないけど、何が言いたいのかはわかるよ。気にしなくて平気。……こんな状態のやつ、放っておく方が心配だし」
言いながら、彼が薬を持たせてくれる。早く、飲まなければ。彼がここまでしてくれたのだから。という意地で、何とか錠剤を口に放り込み、水で流すと、体が安堵に包まれた。即効性の薬はなくても、飲んだという認識があるだけで、精神は安定する。
「飲めた?」
「飲めました…」
「ならよかった。それじゃあ、俺はもう行くね。鍵はどこにある? そのまま行くのは物騒だし、閉めたら郵便受けに入れておくよ」
「じ、自分で閉めるから」
「その状態で歩けるわけないだろ。言って」
「うっ…玄関の靴箱の上に置いてあると思う…あの、本当にごめん。入学初日で、いろいろ予定があっただろうに、こんな」
「いいよ。大した予定もなかったし」
なんて優しいんだろう。感動で体から力が抜け、そのままベッドに倒れそうになるのを、ギリギリの理性で堪えた。彼は俺のそんな様子を、興味深そうに見ている。……そういえば。
「あの」
「なに?」
「こんな状況で聞くは、たいへん申し訳ないのですが」
「……ああ。そういえば、名乗ってなかったね」
彼が、色素の薄い目を軽く開く。驚いた様子すら絵になって、後光が見えたほどだった。薄い唇が微笑みを形作ると、最初に顔を合わせた時のように、彼は慣れた様子で、人好かれする表情を浮かべる。きっと、彼が備えている技の一つなのだろう。
「俺は、獅子王玲司。今日から君のクラスメイトで…多分、君の初めての友達になる男だよ。これからよろしくね、久住ナオくん」
乙女ゲームヒロインの兄ですが、王子様はどうやら俺のことが好きみたいです でかくてつよい鳥 @nakuyo_yo
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