04-2.
「……いおり」
母は言葉を発した。
それは風の音にかき消されてもおかしくはないものだ。
「そうだよ。俺だよ。伊織だ」
伊織の声は震えてしまう。
「遅くなってごめん。帰ってきたよ、母さん」
伊織の言葉は母に届いた。
それは母の未練に触れた証拠だった。
「かえって、きた」
母は言葉を発する。
言葉の意味を瞬時に理解するほどの知力は残っていない。擦り切れて、そのまま消えてしまってもおかしくはないほどに年月がかかってしまった。
その姿はあまりにも痛々しいものだった。
「いお、り」
その言葉の意味を確かめようとするかのように、母は何度も伊織の名を呟いた。大切にしまっていた宝物の中身を確かめるように、何度も何度も繰り返す。
それは母の心残りだった。
母の未練だった。
その未練に鬼である伊織が触れてしまえば、消えてしまうほどの心もとない心残りであり、それが現世に留まり続けるのは、母の魂を現世に縛り続けるようなものだと伊織は知っていた。
頭の中では理解をしていた。
母が残してしまった未練を解くことができるのは、伊織だけだと知っていた。
それでも、その手を伸ばせなかったのは伊織に覚悟がなかったからだ。
「おかえり」
母は笑った。
その言葉を言う為だけに墓の上に座り続けていたかのように、優しい笑顔だった。
「……ただいま。母さん」
伊織は笑ってみせた。
掴んだはずの母の手は光の泡となって消えていく。少しずつ、景色に溶けていくかのように欠けていく母の姿に伊織は涙を堪えることができなかった。
……苦しいもんだな。
覚悟はしたはずだった。
すべては姉を生かす為だ。
再会を果たした美香子と一緒に過ごす日々は愉快なものになるだろう。それは、伊織は人として生きた日々を思い出させるものになる。
それらを手放せなかった。
その為ならば、母の未練を利用すると決めたのだ。
「母さん」
伊織の声は母に届かない。
しかし、母は穏やかに微笑んでいた。
かつて、母と息子として過ごした懐かしい日々を思い出せる笑顔だ。母は伊織を慈しみ、心を鬼にして軍に送り込んだのだろう。
「俺、母さんの息子に生まれてよかったよ」
伊織は涙を堪えながら、震える声で告げる。
光の泡のように消えていく母の未練が伊織の頭の中に入り込む。
それは音のない映画を見ているようなものだった。一方的に押し付けられた記憶の中で、母は古びた写真を抱きしめて泣いていた。
儚く消えていく記憶の中、母は数えきれないほどに後悔をしていた。
戦地に向かい、紙切れ一つしか戻ってはこなかった息子たちを見送った日を嘆き、蜃気楼のように消えてしまった伊織の行方を捜し続けていたのだろう。
時代が母を苦しめていた。
しかし、それはどうしようもないことだった。
それでも、母は悔やみ続けていたのだろう。
「……母さん」
伊織は墓石に視線を向けたままだった。
そこに母の面影はない。
……ごめん。
伊織はゆっくりと墓石に背を向けた。
……さようならだ。
二度と墓参りには来ないだろう。
伊織と母を繋いでいた残滓は消えた。母の未練は伊織の中に流れ込み、それは呆気なく消えてなくなってしまうだろう。
……代償か。
暁丸は知っていたはずだ。
美香子と伊織を結んでいる縁はいつ解けてもおかしくはない。それを強固なものにするのは不可能だ。
しかし、一時的な強化ならば可能である。
その為には伊織は代償を支払わなければならない。その代償が人の頃の思い出だと暁丸は知っていながらも、口にしなかった。
言葉にすれば、伊織が戸惑うとわかっていたからだろう。
なによりも、暁丸は人の頃の記憶に執着する伊織をなんとかしたいと思っていた。鬼らしく生きられるようにしたいと日頃から考えていた。
その為ならば、伊織の心の隙を利用するような鬼だった。
……連絡しないとな。
伊織は和傘の柄を握りしめる。
人の頃の記憶は淡く消えていくだろう。
それが伊織が選んだ道ならば、どうしようもないことだった。
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