04-1.墓守は涙を流す

* * *



 何度、足を運んでも寂れた景色は変わらない。


 すれ違う人は伊織に気が付くこともなく、足早に立ち去っていく。


 定期的に花を変えに来ている人がいたのだろう。山田家の墓の花は枯れてはいなかった。それでも、数日経てば茶色くなってしまうほどには萎んでいる。慣れた手つきで花を取り換え、回収した花を袋の中に詰める。


 その間、墓の上には女性が腰かけていた。


 黄泉に渡り切れず、残ってしまった母の未練だ。


 それを断ち切る為に、伊織は誰の命日でもない日に墓参りに来たのだ。


「……母さん」


 意を決して、母に呼びかける。


 墓の上に腰かける女性は振り向かない。あいかわず、伊織の声は届いていない。


「ただいま、母さん」


 伊織は挫けなかった。


 その声が母に届かないのは知っている。


 それでも、あの日、母に伝えられなかった言葉を口にすると決めてきた。


「こんな化け物になっちまったけど」


 身を守るように差していた日傘を畳む。


 化け物であると主張する角は人にはないものだ。それは今の伊織の誇りであり、かつての伊織を否定するものだった。


「でも、母さんと父さんの息子として、付けてもらった名前で生きている」


 伊織は名を変えなかった。


 人からあやかしに転じた際、かつて人であった名を捨てる者ばかりだ。人として日々を捨て、忘れようとするのは珍しいことではない。


 元の日々には戻れないのだと、自分自身に言い聞かせる為に名を捨てる者もいる。伊織はそうするべきだと勧められたことがあった。


 しかし、伊織は名を捨てられなかった。


 伊織の生存を信じている家族がいると知っていながらも、名を捨てて、別人としての道を歩む覚悟ができなかった。


「母さん。あの日、母さんの言葉を最後まで聞かなくてごめん」


 伊織は母が息を引き取る瞬間を見ていない。


 母の最期の瞬間を見ていない。


 それが母の未練をこの世に縛り付けてしまっているのだと気づいても、動くことができなかった。伊織の声は母には届かないと決めつけ、前に進む勇気をもてなかった。


「母さん」


 伊織は何度も母を呼ぶ。


 幼き頃の日々を思い出す。それは戻ることが許されないからこそ、恋しくて、狂いそうなほどに輝かしい日々だった。


「俺、後悔をしていないよ」


 伊織は本音を口にする。


 軍人になると選んだのは、男ならば国に尽くすのが当然の時代だったからだ。他の人と違う力を持って生まれたのならば、それを国の為に使うこそが伊織に託された使命なのだと信じて疑わなかった。


 かつて人であった時の伊織の使命を母は否定した。


 母は軍に行くべきではないと口にしていた。


 それは愛国心に欠ける言葉であると、口にしてはいけないものだと母は知っていたはずだ。それよりも息子を優先したかったのだろう。


 その気持ちを伊織は理解できなかった。


 人として交わした言葉はその日が最後だった。


「軍は俺の居場所だった。国の為に尽くした日々は間違いなんかじゃない」


 伊織はかつての熱があった時代が好きだった。


 過ちを犯しつつ、踏み止まることが許されなかった燃えるような日々を過ごしているのは悪くはなかった。


 それは人ではなく、鬼としての本能が強まっていたからなのだろう。


 鬼として本能が争いを求めた。血を血で洗う日々を求めた。


 その日々は伊織を人とあやかしの境界を曖昧にし続け、ひょんな拍子で境界線を踏み外してしまった。


「姉さんと七海から聞かされたんだろ。俺が景色に溶け込むように消えちまったって。きっと、母さんはそうなると知っていたんだろ?」


 伊織の言葉は母に届かない。


 それでも、止めるわけにはいかなかった。


「鬼になると知っていたからこそ、母さんは反対をしていたんだろ?」


 伊織は真実を知らない。 


 鬼になると思ってもいなかった。


 しかし、今になると母は知っていたのだろう。伊織の力は国に尽くす為に与えられた奇跡の力ではなく、人ならざる者の力だと知っていたからこそ、必死に人の道を踏み外さないように引き留めようとしていたのだろう。


 それを言葉にはできない時代だった。


 母は伊織に人でいてほしいと願っていいた。


 それは、伊織が神隠しにあったことにより、散ってしまった願いだった。


「母さん。人として戻れなくてごめん」


 伊織は謝罪の言葉を口にする。


 それは鬼になってから何度も口にしてきた言葉だった。


「母さんの言葉を聞かなくてごめん」


 伊織は墓の上に座る女性に手を伸ばす。


 伊織を見ようともしない女性に声は届かない。けれども、鬼である伊織の手は届く。人ならざる者だからこそ、触れられる。


 ……触れてしまった。


 その手は届いた。


 それは伊織の願いを叶えてくれるだろう。


 しかし、心が痛む。


 声が届かないのならば、それでよかった。その姿を眺めながら、墓参りをするのは伊織の人に対する未練を引き延ばす為の行為でもあった。


 人として生きたかったという思いを持ち続けるのは難しい。


 長い年月の中、人として生きた時間は短いものとなり、それは夢を見ていたかのように眩い思い出となって消えていく。いずれ、はっきりと思い出せなくなる。


 伊織はそれを恐れていた。


 だからこそ、母の未練に手を伸ばせないでいた。


「……母さん」


 伊織は墓の上に座っていた女性の動きが変わったことを見落とさなかった。


 母はゆっくりと伊織に視線を向けた。


 ぼんやりとした顔は次第にはっきりとした顔立ちに変わっていく。その姿は晩年のものではなく、伊織の記憶の中にある母の姿そのものだった。

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