02-3.
「大丈夫だよ、七海。君は一人ではないから」
伊織には七海の涙を拭うことはできない。
昔のように抱っこをしてあげることはできない。
「心配はいらないよ。なにがあっても、上手くいくから」
それでも、せめて思い出だけは綺麗な姿のままでありたかった。
「……本当に、おじちゃんなの?」
七海の声が震えていた。
「おじちゃん、わたしは、優斗のことが可愛いの。可愛い孫なの」
偽物である可能性を疑っていないのだろう。
このご時世、都合の良い嘘で人々の心に付け入れる詐欺師は少なくない。特に人ならざる者となった家族を騙り、金銭を巧みに奪う事件は毎日のように引き起こされている。
「でも、怖くて。……おじちゃんみたいにいなくなったら、どうしようって」
……そうか、この子の心には傷が残ったままだったのか。
それは七海の両親である美香子たちが癒す努力をしたのか、わからない。少なくとも母親の美香子は七海の心の傷にまで気を配ることは難しかっただろう。
美香子も心の傷を癒しきれていない。
兄弟の中でも特に可愛がっていた弟が景色に解け込むように目の前で消えてしまった体験は、美香子の心に大きな傷を残したことだろう。
両親に責められたこともあるだろう。
兄弟に責められたこともあるだろう。
人の身ではどうすることもできなかった事実に心を痛めたことだろう。
それでも、母親として娘の心の傷に気づくべきだった。
……人の心など薄れたと思っていたが。
それは同情だろうか。それとも罪悪感だろうか。
……そういうわけでもないようだ。
人として歩んだ年月よりも、鬼として歩み始めた年月の方が長い。
これから先も終わりの見えない年月を歩み続けていくだろう。
「それで、母さんが、おじちゃんに言ってくれるって……。わかってたのに。おじちゃんなら、しっかりと教えてくれるって、知ってたのに。ごめんなさい、ごめんなさいっ」
七海の目から大粒の涙が零れ落ちる。
七十代になった七海には幼い頃の面影はあまりない。
「おじちゃんっ」
伊織が可愛がっていた幼い頃の七海は成長して立派な女性になった。
それでも、心のどこかでは幼い頃に起きた事件に対する罪悪感と恐怖感を抱いたままだったのだろう。
それが心の傷となり、今も七海を苦しめている。
「おじちゃん、助けてよ。このままだと優斗がいなくなっちゃう」
泣き崩れる七海の頭を撫ぜる美香子も同意見なのだろう。
孫やひ孫よりも、娘を優先したのだろう。
そこには美香子の母親としての顔を見た気がした。
「……家族と相談をしろ」
それが解決策ではないことは知っていた。
「俺がいなくなってから、八十年近くは経っているだろう?」
正確な年月は忘れつつある。
そもそも人とあやかしでは流れる月日の感じ方さえも異なる。時の流れを感じさせない彼岸にいるとあっという間に数年という年月が経過していることも、決して珍しいことではない。
「時代は大きく変わった。あの頃とは違う。貴重な戦力として国に捧げることを強制させられるような時代でもないだろう」
伊織が彼岸の住人となったのは戦時中だった。国民には勝利が間近のようなことを報道しつつ、現実は大きく異なっているような時代だった。
時には異国に足を踏みいれ、大きな力を振るう。
国を守る為にあるのだと教えられた通りに生きてきた。そんな苛烈な日々の息抜きと称して与えられた休暇中に起きた事故のようなものだった。
「それでも、どうしようもないのならば、一度だけならば会ってみてもいい」
涙が零れ続けている七海に対して同情をしたのだろうか。
顔を合わせたところで解決策が見つかるわけではない。それどころか、彼岸を生きる鬼と引き合わせたことにより事態が悪化する可能性さえもあるだろう。
「いいか。七海、俺は人になれねえんだ」
人として生を受け、あやかしに転じる者はいる。
しかし、あやかしが人に成ることはない。
「俺と同じような道を歩ませるわけにはいかねえだろ」
意味がない行動だと知っていた。
機械越しでも姿を視ることができない七海と対面しても、彼女は伊織の姿を視ることはできない。狐に化かされるような体験をさせることもさえもできず、住所を教えたところで七海が辿り着ける可能性も極めて低い。
提案した言葉は意味のないものだった。
機械越しでなければ声を届けることもできない。それさえも年月と共に変わってしまう可能性がある。
……どうしようもないな。
縁を結べば状況が変わる可能性もある。
しかし、それは七海の運命さえも捻じ曲げしまうかもしれない。
「それじゃあな。良い答えを導き出せることを期待している」
一方的に通話を切る。
これ以上、会話を続けていると言わなくてもいいことまで口に出してしまいそうだった。
再び着信を知らせる画面になった携帯電話を机に置き、そのまま、放置をする。
……化け物に期待をしてくれるなよ。
天井を見上げるように上を向き、目を閉じる。
今では滅多なことでは思い出すことが無くなった日々に対する感情は薄れたものの、消えてなくなったわけではない。
……二度と人の真似事はできねえんだよ。
暴走が引き起きなければ、伊織はあやかしにはならなかったかもしれない。
少なくとも美香子や七海の心に傷を負わせるような別れ方にはならなかっただろう。家族の心に傷を残し、友を傷つけ、部下に力を暴走させる恐怖心を抱かせることとなった出来事を恨む。
「……ありえねえな」
過去を改変することはできない。
運命を捻じ曲げることはできない。
それは都合の良い妄想だということは知っている。
……縁を結んだことによる影響か?
伊織は目を開けた。
そして、姿勢を戻し携帯電話を見下ろす。
着信を知らせる音にも慣れてしまった。それは美香子の命が終わるまでの期間限定の音だということを理解しているつもりなのだが、その時が来れば受け入れられないものかもしれない。
……人間だと信じていた愚かなあやかしが生み出した嘘の塊だ。
いずれ、人の身を保てなくなると知っていれば、死を選んだだろうか。
生まれた時から人間とはかけ離れた生き物だったと知っていれば、伊織は何もかも諦めることができたのだろうか。
……人間を巻き込むべきじゃない話だ。
八百万の神々は、条件が重なれば人間の前に姿を見せることができるが、伊織のようなあやかしに部類される彼らは、異能力や特殊な事情を抱えている人々の前でなければ姿を認識されることはない。
それは孤独との戦いだった。
辿り着いた場所は過酷な環境だ。
幸運なことに、伊織は妖怪たちが支配をしている裏社会の中でも同種族の鬼が仕切っている自警団に入ることができた。
それは居場所を得る代わりに暴力に満ちた日々だった。
それでも、伊織は居場所に拘った。いずれ、家族の元に帰る為だった。
「……最悪だな」
携帯電話の電源を落とす。
伊織に電話をかけてくる物好きは美香子くらいだろう。他にも数名、電話帳には名を連ねている人間はいるものの、皆、天寿を全うして旅立っている。
あやかしが恐れられているのは驚異的な身体能力だけではない。
先の見えない長い寿命と変わらない外見、なにより、種族によっては人間を主食する者もいる。
伊織は人間を主食にしなくても生きていけるが、同族が人間を襲い、異能対策本部に所属をする異能力者によって命を奪われた場面に遭遇をしている。人間への不信感を抱くようになったのはその出来事が切っ掛けだろう。
それさえも何十年と昔の話だ。
今では滅多なことでは人ならざる力を振りかざす人間を見かけなくなった。恐らく、平和な世の中になったことにより数を減らしたのだろう。
……成り損ないか。それとも自覚なしか。
人間を守る為に戦う異能力者の存在は嫌になるほどに知っている。
彼らが正義の味方と自負しているのも知っている。
……境界線にいるだけの話だ。それを自覚してないだけだ。
本来ならば、神々やあやかしだけが持っている不可思議な力を人間の身で扱い続ければ生きたまま彼岸へと落ちることになる。
そうすれば人間の姿を保てなくなり、あやかしになる。
そうして力の本質を知ることになる。
それまでの道のりは人によって異なる。
それを知っているからこそ、伊織は美香子の言葉を否定も肯定もしなかった。
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