第9話 たっくんじゃなくて構わないらしいですから

 はじめてのたっくんがいる新しい家での生活はなにかと新鮮で、広い家にワクワクしたり、たっくんに引っ越し作業中ちょっかいをかけて楽しんだりしたが、たっくんの入った後の湯舟になんとなくドキドキしつつ入ってから、部屋に戻ってベッドに戻ると、いつもの発作が来た。


 それは自分の胸に突然大きな闇が現れたような感じだ。

 自分の心臓が無くなって闇に消えたかのようだった。

 心臓とはすなわちハートだ。

 それはわたしには、わたしのハート、あるいは魂のようなものがどこかに失われてしまったかのように感じられた。


 寂しい……

 寂しい寂しい寂しい……


 なにせ自分自身のハートが闇に置き換わってしまっているのだ。


 わたしには、いかなる安心も、いかなる共感も、いかなる愛も、永遠に与えられないものであるかのように感じられた。


 わたしはこの闇の世界で、一人孤独でした。


 それが辛くて、辛くて、辛すぎて、しょうがなかった。


 どうしてこんな穴が胸に空いているのだろう。


 そう思い返すと、わたしの心に、触れてはいけないものに触れたときのビリっとした黒い電流が走る。


 それ以上はダメ。


 それを思い出すと、わたしはバラバラになってしまう。


 そう思い、わたしは無意識に思考を止め、ただ、元の寂しい闇に集中する。


 それは黒い電流の痛みよりはましかもしれないが、辛くて辛くてどうしようもない事に変わりはなかった。


 そうして最初に脳裏をよぎったのは、海斗くんの絵だった。


 海斗くんの絵はどれも、個性的で、生き生きとしていて、熱情が籠もっていて、変わっていて、どれ一つとしてありきたりなものはなかった。

 いったいどれほどの修練を積めば、いったいどれほどの才能に恵まれれば、あれだけの絵が描けるようになるのだろう。


 それがなまじ自分との差分として想像できてしまうだけに、わたしはかつての自分との違いを痛いほど感じて、心が闇に沈んでいって、それが心臓にある闇に沈んでいくような心地よさがあって、わたしは「ふひひ……」と暗く笑う。


 特に海斗くんの絵で心が惹きつけられたのは、桜の絵だ。


 その絵は一見、丘の頂上で桜が咲いている、それだけの絵であるかのようにも思える。


 だがその絵の特徴は、桜を上空から描いている事だ。


 天空の視点から、桜を小さめに中央に斜めに見下ろす形で描きつつ、そこから草原が広がり、画面の端の所で森に合流している風景が描かれているのだ。


 わたしが凄いと思ったのは、2点ある。


 まず、中央に小さめに描かれた桜の木が、なんだかまるで雄叫びをあげる狼かなにかであるかのように、生き生きと生きて叫んでいるように感じられるのだ。


 この躍動感をこの小さめに描かれたサイズで表現するのは、並大抵の業ではない。

 はっきり言って、異常だ。

 これだけでも、朝森海斗は天才であると言えるだろう。


 そしてもう一つ凄いと思ったのは、タイトルだ。


 その絵には、「独り、叫ぶ」とタイトルがつけられていた。


 自分の描いた桜がなんであるのか、何を表現しているのかを完璧に理解して、あの少年はこの絵を描いたのだ。


 小さめに描かれた桜も、そこから広がる孤独の闇のような草原も、遠く離れた所に囲んでいる桜とは色が違う木々も、全て計算づくで配置されて、表現したいテーマを真っ直ぐに表現しているのだ。

 それが超絶技巧とでもいうべき、精緻なタッチの油絵で表現された日には、わたしはただただ惹きこまれる事しか出来なかった。


 その絵を脳裏に浮かべると、わたしは複雑な気持ちでいっぱいになった。


 絵から逃げているだけの自分。


 眩しい才能。


 その才能が表現した、孤独。


 寂しい。


 寂しい。


 寂しい。


 だんだん思考がぐちゃぐちゃになって、何を考えているのかもわからなくなって、それらが全て胸の位置に存在する闇に吸い込まれていくかのような感覚がした。


 残ったのは、ただの虚無。


 わたしとは空っぽであるという自覚。


 そう、わたしには何もないのだ。


 わたしのものであるという何か、わたしの美点であると言える何かなんて、男の子好きのするこの顔とか身体くらいしか存在しないだろう。


 そしてそんなものは、元々欲しかったものでもない。


 わたしが欲しかったのは、この闇を埋める何かだ。


 埋めてほしいのだ。


 だって、埋めてくれないと、辛くて、辛くて、泣いちゃいそうで、涙が出てきて、それでも辛くて、辛くて、辛くて……


 うう……


 ううう……


 ううううううううううッ……!


 あまりにその発作がきつくて、辛くて、わたしはしばらく微動だに出来なかった。


 やがてそれが治まると、今度脳裏に浮かんだのはたっくんの顔だった。


 ああ……


 その奥の奥まで見通す目だ……


 その目が、痛くて、怖くて、心地いいのだ……


 それは矛盾するような感覚に見えるかもしれないが……


 わたしの中では、それらは全て同時に成立しうる概念だった。


 むしろ、痛みこそが、怖さこそが、心地いいのだろうか?


 いや、心地よさはそれだけではない。


 たっくんの目には、何かがある。


 もしかしたら、わたしに何かをもたらしてくれるのではないかという……


 そう、儚い希望のようなものが、たしかに感じられる。


 そうなのだ。


 希望なのだ。


 たっくんが希望なのだ。


 たっくんだけが希望なのだ。


 わたしを救ってくれるのはたっくんしかいない。


 そんな妄想に取りつかれたわたしは、気付けばベッドを出て、部屋の扉を開けて、隣のたっくんの部屋に向かった。


 この部屋を選んだ時、わたしはたっくんの隣である以外の理由を一切考慮していなかった。


 それはたっくんで遊びやすいからだと思っていたが……


 もしかすると、わたしは単に、たっくんに縋っていたのかもしれない。


 コンコン、と部屋の扉がノックする。


 心臓がドキドキとする。


 そして、許可されないのが怖くて、わたしは勝手に部屋へと入っていく。


「こんばんは、たっくん。なんか寝れなくて、遊びにきちゃいました」


 それを見たたっくんは、なんだか慌ててスマートフォンを布団の中へと隠す。


「あれ、なんだか怪しいご様子ですね? スマートフォンをわざわざ布団の中に隠すなんて。ちょっと見せてくださいよ」


「い、いやだ!」


 たっくん、可愛いなぁ。そんなの奪ってくれって言ってるようなものじゃないですか。


 楽しくなってしまったわたしは、それと同時、すでにあれだけ辛かった寂しさを忘れている事に気づいていなかったのです。


「へぇ? たっくんの分際でわたしに逆らうんですね? そういう事を言うなら……」


「ちょ、待って……! マジでダメだって!」


「えへへ、ゲットです~♪ どれどれ~」


 わたしがウキウキでスマートフォンの画面を起動すると、そこに映っていたのは、わたしのセクシーな自撮り画像でした。


 エッチな何かかなとは予想してましたが、まさかわたしだったとは。


 正直そこまでだとは予想していなかったわたしは、結構戸惑っていました。


 たっくんは、背後で凄く陰鬱なオーラを発しているようです。


 ここはわたしが喜ばないと、いけないところですよね?


「ふふ、ふふふふふ、なるほど~♪ なんか嬉しいなぁ♪ あの時の写真、こんなに後生大事にまだ持っててくれたんですね? それもこんな暗い部屋で夜に一人で眺めて……いったい何をしようとしていたんでしょうね~?」


 たっくんを振り返ると、たっくんはこの世の終わりでも来たかのような表情をしていて、笑いそうになってしまった。たっくんは楽しいなぁ。


「しかし、この写真がいいんですね? 他にも何枚か顔写真とか胸を強調した写真とか送ったと思うんですけど……なんだかたっくんの性癖が見えた感じがして、楽しいですね?」


「たっくん、可愛いです……可愛いなぁ……でもでも、せっかくなら写真より実物の方が嬉しいんじゃないですか?」


 わたしはもっとたっくんで遊んであげようと、ごそごそと布団の下でパジャマのズボンを脱いで、それをたっくんの顔に放り投げます。


「はぁ!?」


「ば、馬鹿か五花は! なんで、ズボン、脱いで!?」


「いやぁ、たっくんなら喜んでくれるかなって思いまして。とってもいい反応が見れて、良かったですよ」


 たっくんを冷静に観察すると、たっくんはなんだか血走った興奮した目で、わたしの下半身の方をじっと見つめていました。


 それはたっくんが明らかに理性を失って、本能のままわたしを犯したいと思っている証。


 ああ、たっくんが獣になっています……


 それはたっくんという存在を私の魅力が支配した瞬間で……


 それがわたしはたまらなく快感なのでした。


「い、五花……その……僕は……」


 弱々しいたっくんの声が、本当に限界なんだなって感じで、愛しくて、可愛くて、どうしようもないくらい抱きしめたくなっちゃいます。


 でもでも、我慢我慢。我慢させればさせるほど、快感の味は大きくなるのですから。


「……たっくん、だめですよ? わたしたちは付き合っているわけでもなければ、今や他人ですらない、たった二人の兄妹じゃないですか。それをいったいどうしたいと思ってそんな言葉を出しているんですか? ねぇ、はっきり言ってみてくださいよ?」


 わたしは言葉で、たっくんを煽り、馬鹿にして、尊厳を傷つけていく。


「う、うう……だって、それは五花があまりにも……」


「わたしはただお兄ちゃんに甘えているだけですよ? それで、ちょっとした可愛い悪戯をしているだけです。なにもやましい事なんてありませんよ? それともお兄ちゃんは、わたしにこうやってすり寄られただけであさましく興奮しちゃうような、いけないお兄ちゃんなんですか?」

 

 そう言いながら、たっくんの足に、わたしの露出した足を絡めていくと、たっくんは目がとろんとして、混乱して、わけがわからなくなっているようでした。


「ううう……僕は……僕は……」


「くそ! 僕は逃げる!」


 たっくんはそう叫びながらがばりと起き上がり、そのまま飛び上がって部屋の外へと逃げ出してしまいました。


「あはは! あはははは! 飛んじゃいました! あはははは!」


 わたしは驚きのあまり先に笑いが来てしまいましたが、追いかけた方が面白そうだと、パジャマのズボンを一応素早く履いて追いかけていきます。


 たっくんは長い廊下を走ってトイレまで逃げ出すと、鍵を閉めようとしますが……


 すんでの所で、そのトイレの扉に足が差し込みます。

 徒競走は私の方がだいぶ速いんですよね。


「ダメですよたっくん。可愛い妹をおいて、一人で気持ちよくなろうなんて……」


 たっくんの身体に自分の身体を絡めて、わたしはたっくんを連行します。


「はーい、お部屋に帰りましょうねー」


 部屋に戻る途中、しばし会話に空白が生まれました。


 十数秒の無言の時を経て、たっくんの部屋まで到着します。


 そのとき、わたしの心には、再び寂しさが生まれていました。

 

 心臓に小さな闇が生まれて、それが広がっていこうとしていました。


 部屋に入ろうとしたとき、たっくんの部屋の扉に、イラストが貼られているのが目につきました。


 さっきは全然注目しなかったけど、この絵は……よく見ると……


「これ、さっきもちらっと見ましたけど、なんだかよく見ると、無性に寂しくなる絵ですね」


 たっくんの貼ったイラストは、幻想的な夜の丘の頂上で、狼の耳を生やした少女が、一人で雄たけびを上げている様子を描いたものだった。


 わたしは、その絵が、海斗くんの描いた桜の絵にそっくりである事にすぐに気づきました。


 狼と、桜、描いたものは違っても、そこに通底するテーマ、表現したいものは同じです。


 これは、海斗くんの絵を見て、影響を受けた一作なのでしょうか?


 しかしその絵の狼少女の雄たけびを上げるポーズは、強く伝えたい何かを伝えてくるかのようで、そしてその表情に浮かんでいたものは……


(わたしだ……)


 この少女は、わたしだ、とはっきり思いました。


 それくらい、少女に表現された孤独にはリアリティがあり、そのディテールはわたしの心の闇からくる魂の叫びを表現しているかのようにしか思えませんでした。


(それがなんで、こんな綺麗なの……)


 わたしはその絵に魅入られて、穴が空くほどその絵の少女の叫ぶ姿を見つめ続けます。


「すごいですね……わたしはこういうイラストみたいなのは描いた事がないんですけど……なんていうか、差し迫ったものを感じる絵です……たっくんが描いたんですよね……?」


 それはわたしが感じていた荒れ狂う激情からすれば、かなり控え目な表現でしたが……


「そうだよ」


「なんだか、まるでわたしを見てるみたいな感じがします……」


 わたしはまるでその絵に恋でもしてしまったかのように、熱に浮かされた目で、その絵を眺め続けました。


 そんなわたしに、突然爆弾が投げ込まれました。


「五花は、寂しいの?」


 わたしは、あまりにわたしを理解している一言だと思いました。


 それよりわたしが言ってほしい一言なんて、他に無かったからです。


「……どうして……どうしてたっくんは……」


 わたしは混乱と衝撃と喜びの中で、もがくように何かを掴もうとします。


「いやだ、こんなのわたしじゃない……」


 それがまるで自分ではないかのようで、わたしはそれがとっても嫌だと感じました。


「大丈夫?」


「……大丈夫です。わたしは大丈夫。大丈夫なんです……」


 わたしは自分に言い聞かせるように、そう大丈夫だと言い続けました。


 そんなわたしを、なんだか不安そうな目で見つめたたっくんは、


「五花、部屋でちょっと落ち着いて話そうよ。あ、今度は服は着ててね」


 なんて優しい一言をいってくれました。


「ふふ、たっくんもそういうユーモアがあるんですね。それ、ちょっと好きかもです」


 わたしはたっくんの言葉が素直におかしくて、ちょっとだけ心が落ち着いて、元気になるのを感じて、たっくんはなんだか暖かいなと、そう思ったのでした。





 部屋に入ったわたしは、たっくんのベッドに座りながら、目の前に見つめるたっくんを見つめて、そのまま沈黙していました。


 そうしているうちに、自分がなぜこんな事をしているのか分からなくなったような気持ちになって、


「……えっと、なんでこんな風に話をしようってなったんでしたっけ?」


 そんな言葉が口をついて出ました。


「まあ、その、僕が『五花は、寂しいの?』って聞いて、五花が変な風になって、僕が心配になったからだけど……」


 そうだよね。そうなんだよね。


「……うん……そうですね……ぶっちゃけると、そうなんです……」


「そう?」


 たっくんが穏やかに聞いてくれたので、わたしはそのまま話し続ける事が出来ます。


「えっとですね。たっくんの部屋を訪れたのは、寝れなかったからって言ったじゃないですか? これ驚かないで聞いてほしいんですけど……わたし、寂しいから、寝れなかったんです。寂しいだけで、まったく寝れなくなってたんですよ。このわたしが。笑っちゃうでしょう?」


 優しいたっくんは、一回頷いて、そのまま黙って聞いてくれます。


「わたし、無性に寂しくてしょうがなくなる発作みたいなのが、ちょこちょこ起きちゃうんです。馬鹿みたいですよね? こんな悪い事ばっかりやってるクズなのに、いっちょまえに寂しいんですよ? 本当、笑っちゃいます……」


 そう言ってしまうと、なんだか楽になった気がした。

 

 誰にも話せなかった悩みを、初めて話せたのがたっくんで良かった。


「五花……五花は確かに悪い奴だし、見方によってはクズかもしれない」


 そう言われたのは、正直言って、ショックだった。


「そうですよね。本当、そうなんですよ」


 たっくんにだけは、わたしを、わたしの本当の姿を、受け入れてほしかったから……


 でも、それに続くたっくんの言葉は、驚くべきものでした。


「でも、例えば五花が寝れなくなるほど寂しくて、それに本当に苦しんでるんだとしたら、僕はそんな五花をなんとかしてあげたいと思うんだ」


 わたしは本当に驚きました。


 あれだけ酷い事をしたわたしに、そんな事を言ってくれるなんて。


 わたしはもはや、強がる事しか出来ません。


「いきなり何を……今更口説いてるつもりですか? だとしたら……」


「そうじゃない」


 ですがそんなわたしの予想を遥かに上回る行動を、たっくんはとります。


 たっくんは、わたしにそっと近づくと、あろうことかわたしの唇にそっと自分の人差し指を押し当てて、しーっ、というハンドジェスチャーを行ったのでした。


 わたしは、驚いて、驚きすぎて、目を見開いて興奮してしまいます。


「五花には、こんな酷い事ばかりされてる僕でも、思わず救って見せたいと思ってしまうくらいの、何かがあるんだ」


 たっくんの予想外の言動は続きます。何かがある、と言われた瞬間、わたしは胸の奥に育とうとしていた闇が、たっくんの暖かな光で、埋められ始めるのを確かに感じました。


「それがなんなのかは、僕も未熟だから分からない。でもさ、とにかく僕は、五花を放っておけないと、そう感じてるんだ」


「たっくん……」


 わたしは嬉しくて、嬉しくて、でもそれが上手く表現できなくて、相変わらず胸の闇は残っていて、その結果として弱々しそうな声でたっくんに縋る事しか出来ませんでした。


 たっくんは、そんなわたしを、なんだか大切な物でも見るかのような目で見つめながら、こういいました。


「だから、五花は一人なんかじゃない。少なくとも、僕は今日から五花のお兄ちゃんではあるわけだし。妹が寂しくて寝れない時は、兄の部屋に入って、寂しさを紛らわしても、いいと思うんだ。僕の事を、頼ってくれよ。それで寂しさがどれくらい消えるかは、分からないけどさ」


「……」


 わたしは、たっくんのそれらの言葉を、脳内で反芻した。


 何度も、何度も反芻した。


 反芻するたびに、胸の闇に、光が差した。


 嬉しかった。


 嬉しくて、たまらなかった。


「わたし、たっくんの妹になれて良かったです……たっくんは、優しいですね。本当に、優しい……なのにそんなたっくんを、わたしは……わたしは、酷いことを……今まで散々……」


 だけど嬉しいの裏返しで、わたしは今まで自分がそんなたっくんにしてきた事を思い返して、どんどん惨めな気持ちになっていきます。


 たっくんはすごい。


 すごい人間だ。


 わたしは他人を同じ人間として感じた事すらほとんどなかったが。


 たっくんは、わたしよりすごい人間かもしれない。


「たっくん。わたしに言いたい事とかないですか? あったらここで言って、すっきりしてほしいです。わたし、今まで他人の事、同じ人間として認めた事なかったんですけど、たっくんの事、今初めて認めちゃってるみたいなんです。だから、たっくんにだけは、対等な人間として認めてほしいです。そんな感じに、なってます。だから、なんでもいう事を聞く覚悟で、これを言っています」


 わたしは少しでも真剣さを伝えようと、たっくんの左手を両手で握り、そう思いの丈を吐き出す。


「五花の事、教えてほしいかな。もう遅いし、今度でもいいけど。一緒の家で暮らすわけだし、お互いの事、もっと深く知ってもいいと思うんだ」


 たっくんは、そんなわたしの左手を、両手で握り返して、そういってくれた。完璧だった。あまりに予想外な完璧さに、わたしは心の底から驚いた。


「……そんなのしかないのですか? もっと、浮気した事を土下座して謝れ、とか、俺のたぎりにたぎった性欲を一回でいいから発散させろ、とかそういうのをぶつけてくる感じを想像していたんですけど……」


 わたしがそんな馬鹿な妄想を話すと、たっくんは呆れた様子で、こういった。


「そりゃ、そういう感情もゼロとは言わないけどさ……僕はこれでも、五花の事、好きだったんだぞ? それもめちゃくちゃ、超がつくくらい好きだったんだ」


 ドキリとした。

 ものすごく、ドキリとした。


「男は本当に好きな女の子を前にすると、何よりもまず、笑ってほしいものなんだよ」


 そしてその瞬間――


 ――わたしは恋に落ちてしまった。


 身体が、震える。

 

 顔が、熱くなる。


 言葉がうまく、出てこない。

 

 なんだこれ……


 いったい、なんだこれ……

 

「うう、ううう、ううううう……! そんなのでたらめだって! そんなのバカみたいだって! そういってやりたいのに……!」


 わたしは、気付けば泣いていた。


 嬉しすぎて、泣いていた。


「どうしてこんなに嬉しいんですか! どうしてこんなに嬉しい事を、言えるんですか! わたしは! こんなの、でたらめにきまってるのに! どうして……! こんなに……」


 わたしはひっく、ひっくとしゃくりあげて大泣きしてしまった。


 感情がぐちゃぐちゃになって、これ以上ないくらいめちゃくちゃになって、本当にわけがわからなかった。


「五花。とりあえずさ。もう浮気なんてやめよう。付き合う男は一人にするんだ。それは僕じゃなくて構わない。でもその一人を、ちゃんと大事に、大事にして、愛を与えるんだ。そうすれば、必ずその男が、特大の愛を返してくれる。その愛が、五花のその寂しさを埋めてくれる」


 そんなわたしに、たっくんはわたしという存在を塗り替えるような言葉を放ちます。


 それは新興宗教の洗脳儀式より鮮烈に、わたしの心を塗り替えましたが……


 一言だけ……


 一言だけ、絶対に許せない言葉が混ざってもいました……


「ひっく! うええ! うえええええええ! どうしてたっくんは! たっくんが! たっくんがあああああああ!」


 わたしの言葉はもうめちゃくちゃです。


 言いたかったのは、わたしはたっくんがいいのに、という事でした。


 どうして……


 どうして「それは僕じゃなくて構わない」なんて言っちゃうの……?


 馬鹿なの……?


 本当に構わないのかな……


 そうだよね、わたしとは二度と付き合わないって言ってたもんね……


 それはわたしの心に更なる混乱をもたらします。


 もうぐちゃぐちゃのめちゃくちゃのどろっどろです。


 気づけば、泣き疲れて部屋に帰って寝たのか、翌日になっていて……


 ふと、浮気は本当にくだらないなと思いました。


 たっくん以外、くだらない……


 放課後、一人を残して、全ての男に別れるとメールを送り、電話がかかってきたのをあしらい、諦めさせ、それらが全て済んでから家に帰りました。


 残す一人は、海斗くん以外考えられませんでした。


 だって、たっくんの親友だから。そして、彼の絵は、無性に気になるから。


「……付き合ってる男は一人にしました。なんか、浮気とかダサいなってふと思いましたし。でもそれはたっくんじゃないですからね。たっくんじゃなくて構わないらしいですから」


 たっくんの驚く顔は、結構痛快でした。


 同時に、たっくんが少しでも馬鹿なセリフを後悔してくれているといいなと、そんな楽し気な妄想を抱きながら、わたしはふん、っとそっぽを向いてみせたのでした。

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