第8話

 人を殺したことなんて、そりゃあ、今までの人生で一度もなかったし、それとは正反対の存在である病院に勤めている自分が、こういう事をしでかしたなんて、もう、神様も、誰も、私を許してくれない。

 私は、啓一君のお父さんとお母さんを刺した。これに間違いはありません。

 啓一君の家に着くと、私は、まず、インターホンを強く押した。すぐにドアが開いた。会ったことのある、啓一君のお母さんだった。彼女と目が合った瞬間、私は、玄関に素早く入り込んで、お母さんのお腹に、力任せに刃を差し込んだ。必然的に、ナイフを握っていた両手と、レインコートの袖口付近は、フィクションで見るかのような、赤くギラギラした色で染まった。自分が思っていたよりも、その光景は余りにも気持ち悪くて、私が怯えて反射的にナイフを抜くと、余計に手が滑って、刃は左に数cmスライドしてから、お母さんの身体を離れた。それと同時に、傷口から飛び出した血飛沫が、だらしなく私の頬にかかった。お母さんは血をダラダラと流しながら、汚れた玄関床にバタンと倒れた。お母さんはドアを開けてから、一言も喋らなかったし、倒れている今も、何も言わない。恐らく、もう生きていないんだと思う。

 初めて、他人ひとを殺してしまった。感覚は、よく分からない。けど、そうこう考えている内に、玄関に繋がる廊下に、お父さんが立っていることに気が付いた。

「何してるんだ、お前!」

 衝撃を受けた顔をした後に、妻が刺されたことをようやく理解して、その表情が怒りと憎しみで満ちていくのが、私にも分かった。

 私は、さっきよりも感情を込めて、突進するかのように走り出した。綺麗な一直線で、お父さんの腹の肉に、お母さんの血液で染まったナイフを突き刺さした。この時に関しては、ナイフを出してはまた入れるを何度か繰り返した。いわゆる、めった刺し。意外と呆気なく、そいつは無反応になった。暴力を振る父親の面影は、最期まで、何処にも見当たらなかった。

 脈を測ると、やはり、どちらも亡くなっていた。そりゃ、そうか……。こうして、二人連続で殺害した看護師に、私はなった。

 洗面所で両手の汚れを落として、替えの靴に履き替え、ナイフは右手に持ったまま、私はその家を出た。後は、この土砂降りの雨が、レインコートの汚れを、すぐに洗い流してくれる。

 ただゆっくりと、病院に向かって、歩いていく。殺したのに、良くも悪くも、実感が湧かない。冷静になったはずの今でも、この後のことがぼやけて、よく考えられない。いや、それから無意識に逃げているだけかも知れない。一歩ずつ一歩ずつ、足を進める度に、軽いめまいのようなものが私を襲った。気分は、いつの間にか最悪になっていた。

 私は、啓一君を傷付けていたお父さんも、見て見ぬふりをしていたお母さんも、許せなかった。親子である以上、関係は切り離せない。啓一君は、自殺しようと思うまで、苦しめられていた訳だし、そうならなかったとしても、お父さんからの暴力の末に、殺されていたかも知れない。親であったとしても、啓一君にとって、二人の存在は余りにも危険だ。だから、もう、後は、二人を殺すしかない……。

 何も出来ていなかった私に、出来ることは、これしか思い付かない。そんなことは間違いだなんて、何処かの誰かは言うだろう。人を殺して良い理由なんてない。そんなことは、看護師として、医療に従事する者として、一番分かっていなくちゃいけないし、今もそう思ってる。だけど、啓一君を永遠に苦しめているあの二人が、私にはどうしても許せなかった。いなくなれば良いと、啓一君から話を聞いた後、何度も思った。その時も、さっきも、衝動的で感情的なものしか、私は持ち合わせていなかった。遂には、理性も道徳も捨ててしまった。だって、人殺したんだもん……。さて、これから、私は、どうやって過ごしていけば良いんだろう……。考えても、考えても、何も浮かばない。もう、今の私には、本当に何も出来ない。

 病院に着いた。雨のおかげで、誰も、私が殺人犯だなんて気付かない。不思議と、不安が募る。他人とすれ違う度に、体が自動的に震える。心では受け入れたはずが、身体ではまだ受け入れられていなかった。だけど、私は、真っ先に、あの部屋に行かないといけない。私がしたことを、事実を、ありのままに、啓一君に話さないといけない……。

 啓一君に事を伝えると、感謝された。震えた声で、「ありがとう」と、一言だけだった。

 当の私は、一瞬驚いたけれど、次第に涙がボロボロと溢れてきて、またもや本能に従った結果なのか、いつの間にか、啓一君を抱き締めていた。恋人に抱き締められたこともないのに、そうしてしまった。誰かとハグをしたことなんて、遥か昔に、お母さんにされた時ぐらいだったかも。ていうか、いきなり抱き締めたりなんかして、変に思われなかったかな……。

 啓一君のためにと思って、二人を殺したはずなのに、ハグしながら、私は、啓一君に「ごめんなさい」としか言えなかった。その言葉をずっと繰り返していた。それぐらい、私はまだ頼りなかった。啓一君から、親という嫌な存在を消し去ったとしても、結局、私は、変わることのない「私」だった。成長し切ってない、責任感のない、失恋しかしてない、空気の読めない、誰にも明かせない、私自身だった。だけど、色々と考えている内に、私にとって、啓一君という存在が、すごく大きくなっているってこともよく分かった。恋とも言えない、愛には足らない、そんな感情が、啓一君に対して、私の中に既に出来ていた。ただ一つ言えるのは、彼と一緒に居たいってことだけだった。そうした実感が、私に啓一君をより強く抱き締めさせた。もう、啓一君から離れられないかも知れない。

 本当に、これから、どうしようか……。どう抗ったって、私はいずれ警察のお世話になってしまう。2人の人間を殺したことに変わりはない。罰は、いずれ必ずやって来るし、それから逃れようとも思わない。けど、そんなことよりも、私は、また懲りずに、啓一君を独りにしてしまう。それしか、頭にない。これからのこと、これまでのことを、ずっと考えていれば、何かが起こるんじゃないかって期待するけれど、答えは、未だにやって来ない。でも、それでも、私は啓一君を守りたい。今まで、彼の気持ちに気付けてなかった私が、そんなことを思う資格なんてないかも知れない(実際、ないんだろうけど……)。それぐらい分かってる。言われなくても、分かってる。けど、このまま、自虐の沼に浸かり続けるのは、嫌だった。だから、今は、ありのままの「私」で、出来る限りのことを、あの子にしようと思う。結果的に何も出来なくても、それで良い。こんな私でも、彼は、私を認めてくれたんだ。そんな彼を、もう、不幸にしたくない。

 特筆するような人生ではなかったかも知れない。だけど、啓一君との記憶だけは、私の人生の一部分にして全てだった気がする。ふふ、大袈裟かな。

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