第7話

 何も考えていなかった。ずっと天井の隙間やシミを眺めていた。寂しさだけが、未だに心の内壁に貼り付いていた。外で大雨が降っていたことすら、さっき気付いた。

 荒々しく、大きな音を立てて、病室のドアが開かれた。引き戸がスライドするレールの部分に、誰かが立っていた。気付けば、それは川谷さんだった。無意識に上半身が起き上がり、僕は川谷さんを見つめた。

 川谷さんは、紺色のレインコートを着ていて、コートの至る所から雨水が垂れていた。フードは何故か被ったままで、右手には何か持っていたけど、よく見えなかった。

「……ど、どうしたんですか? 川谷さん……」

 ここ数日、川谷さんとは会ってすらいなかった。だから、なんて声をかければ良いのか、僕には分からなかった。

「け、啓一君……」

 声を聞くと、川谷さんは泣いていた。部屋が暗かったのとフードのせいで、顔の様子はよく見えなかった。

「わ、私ね……、け、啓一君の……、ご両親がいるお家に行ってね……、そ、それで……」

 川谷さんは、数秒間口を閉ざして、そして、

「二人とも、刺してきちゃった……」

 と言った。

 それと同時に、川谷さんが右手に持っていた物が床に落ちた。見ると、血の色に染まったナイフだった。

 その瞬間、僕の中のあらゆるものが、考えられないほどのスピードで変化していった。川谷さんが、あの二人を殺したという事実は、僕にとって余りにも衝撃的だった。けれど、「憎悪」みたいな感情は少しもなかった。殺された親の死に悲しんで、親を殺した奴を憎む、なんてことは、僕の中では、あり得ないことだった。親と呼べるような記憶がなかった分、親と思わなくなっていたのかも知れない。そうか、あいつら、もう死んだんだ……。川谷さんが、殺してくれたんだ……。憎悪の代わりに、心の中に、とある気持ちがふつふつと湧き上がってきた。同時に涙腺からも液体がじわじわと溢れてきた。やがて、何も意識せずに、僕は、川谷さんに微笑みながら、「あ、ありがとう……」と口にしていた。

 そうすると、その言葉を受けて、川谷さんも、再び、らしくもなく、ポツポツと涙を床に落とした。そして、レインコートのフードをようやく外して、僕の方に近寄ると、倒れかかるようにして、初めて、僕のことを抱き締めてくれた。

 雨の雫が体に当たって冷たいのと、レインコートから漂う血の匂いと、川谷さんの髪と肌から匂う、フラつくような良い香りと、二人分の頼りない体温とが、混ざり合ったその空間は、異常なほど心地良くて、僕は、今なら「死んでも良い」だなんて思ってしまった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、啓一君……。ごめんなさい、ごめんなさい……」

 川谷さんは、声を震わせながら、ずっと謝っていた。

「良いんです、良いんです、川谷さん……。ありがとう、ございます……。きっと、これで良いんです。これで、良いんです……」

 僕も涙を情けないぐらい流しながら、川谷さんと僕自身を肯定し続けた。もしかしたら、一人の息子を持つ親二人を殺した川谷さんも、その親からの虐待に耐えられず自殺しようとした僕も、この大きな世界からすれば、その中に住む小さな罪人に過ぎないのかも知れない。

 けれども、好きな女性ひとに抱き締められる感覚は、こういうものなのかと、その衝撃を通り越して、僕はとても幸福な気分だった。きっと、僕も、川谷さんも、自分の中に、癒えない傷を抱えている。一つのハグだけじゃ、全部拭い切れないことは分かっているけど、やっぱり安心する。正直、未だに、僕は、これからの人生の生き方が見えてこない。だけど、それを探そうとする僕の目を、その大きな両手で隠してくる川谷さんがいると、もう何だか、それだけで良いような気がしてきた。帰る場所がなくても、川谷さんが側にいるだけで、安心してしまう。こんな身体になった僕が元通りに治って、やがて大人になるまでの時間も、僕の両親を殺した川谷さんがいずれ罰を受けて、いつか許されるまでの時間も、想像も出来ないほどに長いけれど、今、僕たちは、自分に対して、相手に対して、涙を流すことだけで精一杯だった。それだけで、充分だった。

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