第5話

 啓一君は、変わり果てた姿になっていた。いつもの病室には、無数の見慣れない医療機器が置いてあって、啓一君も全身それらに管で繋がれていた。聞けば、学校の最上階の窓から、不注意で転落してしまったのだと、本人は言っているらしい。けれど、皆、自殺未遂を疑っていた。

 勿論、その事実と疑いには唖然とした。けれど、私は、何より、「そんなことする子じゃない」と言い返せない自分が、悔しくてしょうがなかった。啓一君が自殺するような理由が、何処かにあるかも知れない、という不安が、いつまでも消えなかった。もし、あの子が、そのような苦悩を抱えていたのなら、それに気付けていなかった自分が、余りにも情けない。そして、そういう自分になるのが怖い。あの子の癒しになってあげられなかった私は、一体、どれだけ、彼の苦しみを見過ごしてしまったのだろう……。そんな惨めで無力な私に、私は耐えられなかった。

 一体、今の私は何をするべきなのか。それすら分からず、病室に入ってからも、私は、床に立たされたままだった。啓一君は、黒と白が混じったような不安定な眼で、私を見つめていた。「死んだ魚のような目」なんて、粗悪な言葉は使いたくなかった。

「……け、啓一君、どう……、な、何があったの……?」

 あ、しまった。何も考えられない内に、彼にとって、聞かれ飽きた、無意味なことしか口から絞り出せなかった。けれど、そんなことお構いなしに、私の口から放たれた放射性物質によって、彼の中では、既に内部被曝が起こっていた。

 私の愚問の後から、啓一君の表情には、衝撃と悲愴の色が現れ始めて、啓一君は、ベッドの右斜め下へと視線を移しながら、顔を俯けた。

「そ、それは、え、えっと……」

 声色だけでも、彼は、以前と違って弱々しく、顔色は、過ちを咎められた子供のようで、何だか今の私と似ているような気がしてならなかった。だけど、私だって、余計なことだけ言っといて、今じゃ言葉が詰まって、全然口が動かない。

 結果、病室は静寂に返って、私たちという存在も、その世界の中へと溶けていき、世界の外側、窓の外の情景には、痛哭の雨が降り注いでいた。

 誰も何もしようとしていなかった。

「わ、私たち、す、すごく心配してるん……だよ? け、啓一君のこと……」

 必死に言葉を紡ぐ。

「だ、だから、その……」

 啓一君を疑いたくない。

「け、啓一君はさ……」

 そんな私も見たくない。

「え、えっとね……」

 啓一君は俯いたままで、苦しそうな感じだった。

「……ほ、本当に、窓から落ちちゃっただけなの……? な、何か、他に理由があるんじゃないの……?」

 言葉を吐き出す時は、いつも不安になる。自分の言葉が、一体どれだけの人たちを呪ってきたのか。あれで、私は、どれだけ、他人ひとに注意されて、ぶたれて、嫌われて、どれだけ自分が嫌になったことか。私の意思に反して、口から出た言葉は、誰かを傷付ける。それなのに、私は、誰かと関わりたくて、誰かに笑って欲しくて、誰かに愛されたくて……、言葉を永遠に誰かへと撃っている。言葉がつっかえて、言葉で誰かを傷付けて、誰かの言葉に苦しめられて、私はそうやって生きてゆくことしか出来ないのに、今だって、啓一君に対して、言葉を紡ごうとしている。

「あなたはまだ反省していなかったの?」

「啓一君を傷付けたいの?」

「誰かに褒められたいの?」

「啓一君のことが好きなの?」

 やめて。お願いだから、もうやめて……。

「そうやって、またワタシから逃げるの?」

「誰にも構ってもらえないくせに」

「誰とも馴れ合えないくせに」

「自分の言葉で相手も自分も傷付けてばっか」

「結局、あなたはワタシでしかない。ねぇ、そうでしょ?」


 その言葉を啓一君に放ってから、私は、もう、何も考えられなくなった。

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「……ほ、本当に、窓から落ちちゃっただけなの……? な、何か、他に理由があるんじゃないの……?」

 川谷さんは、その質問をしてから、パレット上の絵の具を乱暴に混ぜたような表情をして、何者かに問い詰められているみたいに黙り込んでしまった。

 黙ってたら、何も分からない。

 そんなことは分かってるけれど、今、僕たちは、黙っている方が落ち着いていられるし、お互いがどういう気持ちでいるか分かる気がする。

 でも、それと同時に、僕は、今のところ、何も出来ていない。川谷さんに対して、何一つ応えられていない。川谷さんは、僕のことを心配してくれている。だから、ずっと僕に話しかけてくれている。それなのに、僕は、まだ何も答えられていない。

 けど、本当のことを、川谷さんに話して良いんだろうか?

 ずっと、隠してた。「秘密にしていた」なんて、優しい言葉は使えない。こんなこと、川谷さんに言ったら、きっと彼女は悲しむし、僕だって、言ってしまったら、押し潰されてしまいそうで、泣き出すに違いない。それも判った上で、川谷さんに全てを打ち明けることは、僕がするには余りにも無慈悲だ。僕は、本当に、川谷さんに甘え過ぎなのかも知れない。川谷さんの、余裕ぶった、大人な雰囲気の、あの優しさが、いつの間にか、僕の居場所のようなものになっていた。としたら、一層、自分が嫌になる。川谷さんにも頼らず、ああいうことをして、自分は、やっぱり弱い存在なんだと思い知らされる。

「そ、それは・・・・・・」

 もっと、強く、強くならないと……。

 じゃなきゃ、きっと、僕は、川谷さんのことを好きでいられる資格すらない。

 そうやって、僕は、言葉を吐き出していった。

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