第2話

「……川谷さん、初恋はいつですか?」

 心臓が微かに心拍数を上げていく。

「うーん、小4か、小5の時……かな? なんで、そんなこと聞くの?」

「気になったからです」

「ふーん。じゃあ、そういう君はー?」

「え!? え、えっとー、そ、それは……」

「さーん、にぃー、いーちー、ぜぇー」

「わ、わ、わ、わ、わわわ分かりません! そ、その、ま、まだなので……」

「いきなり子供らしくなったね」

「……大人にはまだ成れてないけど、子供ではないつもりです」

「そーゆーところが、子供なんだっつーの」

 川谷さんは、僕とそこまで歳が離れていないのに(10もなかったはず……)、僕よりも何倍も、いや、何十倍も、物事に対する知識とか、理解とか、教養とかがある人だ。それはつまり、彼女は大人である、ということなんだろう。けど、僕が初めて川谷さんと会った時は、彼女は、まだ新米の看護師だったらしい。それでも、職に就いている社会人なんだから、僕からすれば、人生における先輩・お姉さんにあたるわけだ。僕たちが使い古しているあの病室に初めて来た時も、川谷さんは、とても印象的な女性ひとだった。

「君は、何かしらの理由で、この病室に患者として居る訳だけど、この病室の壁も空間も、君を廃人として隔離・束縛しているものではないし、君自身も、自分や誰かに気を遣ったり、病人という形や意味に囚われたりする必要なんてない。病院は悲しみに暮れる場所じゃないの。君は君らしく、日々を過ごしていけば良いんだよ」

 少し挨拶した後に、そう言ってくれたことを、僕は今でもよく憶えている。

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 啓一君は、初めて会った時から、現在いまに至るまで、色々と変化してきている、と思う。そして、それには、私にも一因があるんだと思う。患者衣に初めて袖を通して、病室のベッドに横になっていた時の啓一君は、ご両親とさえ話し辛そうな雰囲気で、他者を恐れる繊細な生き物みたいだった。けれど、私が担当し始めてから、啓一君は、人間らしく、他者に目を向け始めて、好奇心に満ちた実直な少年になったような気がする。そうであるが故に、奇行に走ることも増えたけど……。まぁ、それはそれで、良いんじゃないかな、と私は思う。君が、ありのままの感情で、ありのままの事を求めている姿を、ありのままに私に見せてくれれば、私もありのままでいられるし、そういうありのままの日々を過ごしていたいって、私はいつも願ってるんだよ、啓一君。

「ねーねーねー、なんで私に初恋のことなんか聞いたのー?」

「そ、それはー、そ、その……」

「あれれれれれ? 他人ひとに聞いたくせに、自分は答えられないのかなぁ???」

「す、すみません……。え、えっと、その、人を好きになるのが、どういうことなのか知りたかったのと、も、もっと言えば、誰かを好きになっ……て、みたかったから、です……」

「ヒューヒューヒュー! ふんふん、なるほどねー。いやー、良いねー。まぁ、そういう時期だしねー(笑)」

「か、からかってますよね? 絶対」

「あ、拗ねてるよね? 絶対」

「はい、拗ねてます」

「うん、私もからかっちゃった。ごめんねぇー。あ、じゃあねー、人を好きになる……まぁ、つまり、恋をするってことについてだけどー」

「は、はい」

 その姿を毎日毎日眺めていると、この子はいつしか好奇心に毒されてしまうのではないかと不安になる。知るべきこと、知ってはならないこと、知りたくなかったこと、知って欲しかったこと……、君は一体どれを求めているのだろうか。いや、でも、この疑念も、彼からすれば、知らないことなのか……。

「はっきり言って、クソ! あーあー、恋なんかしなけりゃ良かったなぁー。そうすれば、あんなに傷付かずにいられたのにって、昔はよく思ってたしねー」

「え、えーーー! な、なんか、こう、もっと、ロマンチックなこと言うのかと思ってましたよ……」

「アハハ、ごめんごめん、期待させちゃって。でも、実際そうなんだ。『恋が成就する』なんて、ほんの一握りの人たちだけで、あとの人は、恋をした代償に、身も心も擦り減っちゃうの。確かに、好きな人のこと想ってる時は、すごく幸せな気分だし、自分が想像してなかったぐらいに、自分を動かしてくれるよ? そこは、恋の素晴らしいとこなんだと思う。けどね、それだけで満足なはずなのに、大抵の人は、その人の側にずっと居たいって、思い始めちゃうの。ただのワガママだよね、もう、それは。いくら頑張ったって、好きなあの人には、本当の言葉や気持ちは伝わらないし、あの人は自分なんかに興味ないから、どうせ無謀だって分かっていても、夢見て、歩み寄ろうとして、結局傷付いて、それでも、やっぱり好きなままなの……。そんな悲しくてつらい事の繰り返しなんて、嫌じゃない? だから、私も学校にいた頃は、好きな人はいたけど、恋人なんて出来やしなかったし、大人になった今でも、恋人はいないし、欲しいとも思わない。友達に、彼氏とか、夫とか、子供とかが出来たって聞くだけで、今は充分かな。ごめんね、情けない私の話なんかしちゃって。啓一君が、今後、恋をして、大切な人に出会って、幸せになるのかも知れないのに、嫌なことばっか言っちゃって。夢とか希望とかは、持っていた方が良いのにね……」

 ヤバい。啓一君の前で、久しぶりに泣きそうになっちゃった。危ない、危ない……。だけど、涙は涙腺に押し込めても、顔色は陰気なままだったから、それは、すぐ彼に伝わってしまった。

「けど、僕は、川谷さんは、素敵な女性だと思います」

「……え?」

「最初は、チャラそうな女性ひとだなぁって思ってましたけど、川谷さんとの会話は、いつも僕に新しいものを与えてくれて、それはとても面白いってことに気が付いたし、大人として僕に見せてくれる余裕さには、いつも憧れています。なので、僕は、川谷さんのせいで、傷付いたりしません。今の話も、とっても為になりました。ありがとうございます。だから、いつもみたいに、これからも、僕のわがままに付き合って下さい。お願いします」

 言葉が詰まって、顔が赤くなっていった。そ、そんなこと言わないでよぉ、もう……。良い男になってきてるじゃん。

「……そんなの当たり前だよ。私は、君の担当の看護師なんだからね」

 と、反論して、彼の頭を優しく撫でた。

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