第2話 ワンモアタイム

 カトラが振り向くとそこには歪んだ立方体の船室があった。辺と辺は交わっているが、歪んでいて垂直ではない。木の板が剥がれ落ち、中の暗闇が漏れ出ていた。


「あの部屋は何?」


 この船に生きている人間はカトラ以外にいない。カトラは船に問いかけたのだ。


「キャプテン、これは悍ましくって悲しい部屋です」


 カトラは目を丸くした。悲しい部屋。その響きがどうにも気になった。服の裾を一度握り、口を結んでその船室に近づいた。


 ドアの取手に手をかける。すると取手は脆くも外れてしまう。しばらく黙ったあと、彼女はおずおずと口を開く。


「ごめんなさい。痛い?」


「平気です。人間で言うと髪の毛抜けたくらいですよ」


 ビネアホエール号はあっけらかんと答える。しかしすぐに重々しい口調でカトラに言葉をかけた。


「その扉を開けるつもりですか?」


「え、うん……だめ?」


 扉の奥から特段嫌な雰囲気はしない。カビの匂いがするくらいだ。カトラは取手が嵌め込まれていた穴に手を突っ込んで扉を開けた。


 中は真っ暗だった。蜘蛛の糸が一番明るいものだった。だんだんとカトラの目が慣れてくると、奥ベンチが置かれており、そこに人影があるのがわかった。


 朽ち果てた肉体。肉は全体の四割ほどしかついていない。体の表面積の半分以上は骨だった。


 その肉体は片方残った目をぐるりと動かしてカトラを見つめた。そして口を開こうとしたが、顎を久方ぶりに動かしたのでそのまま外れてしまう。


 カトラは口から言葉が出なかった。ビネアホエール号が言わんとしていたことがわかった気がした。目の前の朽ちかけた肉体はどう足掻いても目をそらしたくなる。


 朽ちた肉体は手を動かそうとする。顎を拾わんとしているのだ。しかし顎を持つや否や今度は腕が落ちた。


「……待って。私が拾う」


 一歩踏み出すと木の床が軋んだ。二歩目は床を踏み抜いた。しかしそれを気にせずカトラは朽ちた肉体の座るベンチまで辿り着いた。


 肉体の足元に転がる顎をそっと拾い上げ、懐から針と青い糸を取り出した。


 カトラは縫い物が得意だ。故郷の村でよく習っていた。指貫をはめて、彼女は朽ちた肉体の顎をその顔に縫い付け始めた。


 針を刺すたびに柔らかい感触だったり、パリっとした感触が針越しに伝わってきた。布とは全く違う感覚に戸惑いながらもカトラは肉体の持ち主の顎を裁縫にて復元することに成功する。


「おお、お嬢ちゃん。ありがとう」


「声帯は無事なんだ」


「なんとかな……俺のことが怖くはないのかい?」


 肉体はカトラに問うた。彼女からすれば四割肉の残った肉体を見るのは初めてだ。半分以上骨の状態。普通の少年少女ならば恐怖の対象だ。カトラとて齢十四の少女。目の前の肉体に怯えていないわけではない。


「怖い……けど治したい、治さなくちゃいけないって思う」


 肉体は顎を動かした。筋肉が剥がれているのでカトラから感情を推しはかることはできない。ただなんとなく思った。彼は笑った、と。


「優しいんだな。嬢ちゃん」


 肯定された。ただカトラはそれをどうしても否定したかった。否定するべきだと感じた。髪を振り乱し、ぶんぶんと首を振る。脳がシャッフルされるような感覚に陥りながら、カトラは首を振り続ける。その勢いは溢れかけていた涙が流れ出るのには十分すぎた。朽ちた肉体の男はガサリと音を立てて首を傾げる。


「違う、違う違う違う!優しくない。私はひどいやつだ」


「……というと?」


「村を見捨てた。そりゃ、宝石が手に入る未来が見えなかったからだけど……夢のためにみんなを見殺しにした!」


 カトラが絶叫し、項垂れると視界に青い髪が垂れ下がる。自分の村が襲撃された時点で、彼女の夢はほぼ絶たれていた。だから海の方へと走ったのだ。彼女が宝石、光沢、輝きを愛しているのは間違いない。しかし平穏と愛情と仲間と天秤にかけるとなると話が変わってくる。


「私はみんなと一緒に捕まるべきだったかもしれない。薬指以外も撃ち抜かれるのが正解だったかもしれない。私だけ……夢に逃げた」


 湿り気のある声でそう宣うカトラ。朽ちた肉体は顎に手を当て、少し考えるようにした。


「この船、ビネアホエール号は五十年前に沈んだ。船団からはぐれてな。はぐれたのはだ。嬢ちゃんが逃げたのを失敗だとするなら……やることは二つ。逃げ切るかリカバリーだ」


 カトラは目を丸くする。話が見えない。しかし不思議と聞き入っていた。天井に絡みついた海藻がべちゃっと音を立てて落ちたのも気にならなかった。


「リカバリーをオススメする。生きてた頃は六十超えてたオジサンからのアドバイスだな。


「リカバリーってなに……?」


「知らない。やっちまったもんは仕方ねぇという話だ。村や仲間に想いを馳せるのも結構だが……後ろ髪を引かれすぎるのもな」


「気にするななんて……できない」


「じゃあ背負うのがいいと思う。よりも方が心持ちが変わってくる。さぁ、嬢ちゃん、やっちまった!嬢ちゃんは大失敗した!どうするか!」

 

 カトラはグッと口を結んだ。肌を擦り付けて涙を拭い、髪をかき上げた。


「逃げたのは失敗……!もうどうしようもない……村のことは背負ってく。絶対忘れない。私は宝石を目指す。今残ってるやるべきことはソレだから」


 朽ちた男は一本だけ残った歯を見せて笑う。メキメキと音を立てながら、肉片を落としながら彼は立ち上がった。そしてよろよろと赤子のように不安定な歩みを見せると、カトラに近づいた。


「俺もこの船も一回沈んだ。失敗だ。資材も大砲も行方知れず。嬢ちゃんに一枚噛もうかな」


「わかった。いいよ。私はカトラ」


「俺は……なんだっけ?まぁ、いい。好きに呼んでくれ」


 カトラはじっと男を見た。ボロ切れから除く朽ちた肉と露出した骨。残った肉体は四割ほどだ。


「ヨンワリ。ヨンワリって呼ぶね」


「ははは、イカれたネーミングセンスだ。頼むぜ、キャプテン」


 

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