第2話 蟹の夢


私は蟹であった。

何を言っているのか。

自分でもおかしく思う。

小さいときから、自分を蟹だと認識するときが多くあった。


それは5歳の時家族で海に行き、岩礁を見た時に思ったのだ。

「ああ、これはだ」

眼の前を隠れるように移動する生き物。

意外に赤くない黒がかった赤と言った見た目のハサミを持ち、ひそひそと逃げる生き物。

あれは僕だ。僕に違いない。

小さい頃の自分に確信を抱かせた。

だって、はメスの蟹に抱きつき精子をかけいれ繁殖したのだ。

子供を見たことはないが、きっとどこかでうまくやっているのだろう。

そう思った。

5歳の私は蟹の交尾どころか、生き物がどうやって繁殖するのかも知らなかったのに、確かに交尾した思い出があった。

親に離したら、母親は明らかに嫌悪し、父親は困ったように笑い、その後動物の繁殖方法について色々と教えてくれた。

きっと母のことは父がうまく説得したのだろう。

「学習のいい機会になった」

とそう母は飲み下し、それ以来触れることはなかった。


私はきっと悟い子だったのだ。

だから、母の顔を思い出し、しばらく誰かにその事を口にしたりすることはなかった。

ある日、彼女ができた。17歳の夏だった。

「そんなことができるなど羨ましい」

友に言われ、そして脳の奥から誰かが、怨念のように囁いてくるような感触を持ちながら私は最初の性交というものをした。

簡単だった。

蟹であったときと同じ、そうなれば猛る棒を、しかるべく場所にいれる。

父が見せてくれたいろいろな動物の交尾と大差はなかった。


「これが羨ましいのか」

私は自身の好意なのか、性欲なのか判別のつかないものに突き動かされそれをした。

だが、

なんだか、本能的な陶酔が少なく、味気なかった。

蟹の交尾はこう、コンソメ味のポテトの底の濃い原液の粉を延々欲求に従って舐めているような感覚で、人間のそれは、コンソメ味とはこういうもので、ポテトはこう優しく扱いのですよ。と言われてマニュアルを見ながらするようなつまらなさがあった。


だから、相手に申し訳無さを感じ、

「別れよう」と口にした。

そして理由もしっかり先程のように口にした。

普通にこんなことを言う私は不気味であり、異常であり、それによって学校生活も酷く困難になる気がしたが、せめて本当のことを口にすることが誠意であるように思われた。

「ははは。なにそれ」

彼女は笑った。バカにもしなかった。

「それでもいいよ。君はなんだか、しっかり稼いできそうだし」

打算なのか。彼女なりの優しさなのか。それとも単に物好きなのか。

さっぱりわからなかったが、彼女とはそのまま付き合い25歳の時に結婚をした。


子供も生まれ、孫も生まれ、ひ孫が生まれ、ついに私が死にそうになった時聞いてみた。

「私となんでいっしょにいてくれたのか」

彼女の顔は久しく見なかったあの17歳の顔をして言った。

「あんな面白そうなことをいう人とは二度と出会えないと思ったのよ」

そうか。と私は目を瞑った。


私は生きている間あの時よりずっと、蟹になりたかった。

どうしても私はのだ。

小さな時にそう、脳を焼かれ不可逆になった私は不幸であったのか。

前世の蟹をそこに繋がる先祖の蟹を幸せだったのか。

この頓狂な人生でも幸せであったのか。


ある夏、ドキュメント作品を見た。

戦争で特攻隊になり、ギリギリのところでと語る老人の話を聞いた。

「友は、隊士は、あの時は本望だったでしょう。だけれど、そのまま生きて、こんなに豊かな生活の、その可能性を知っていたら、どうおもっていたのでしょう。その答えはもう、ありません」


私は死んでいればよかった。などと時折思っていたことを恥じたと同時に、の殺生与奪の権利はどこにあったのだろうか。

私は蟹である時、生きたいと思っていなかった。

蟹にそんな頭はない。

「食いたい」

「怖い」

たまに「交尾したい」

これだけだった。


私はどこかで選べたのだろうか。

例えば時代が時代で特攻を命じられたなら、私は彼女をおいて特攻しただろうか。

「わからない」

結局時代が違いすぎて、状況が違いすぎて、比べる土俵にたっていない。

こんな変な妄想を抱き、から逃れる選択肢がなかった私はどうすればよかったのだろうか。


できるだけ、仕事をした。

できるだけ、子育てをした。

できるだけ、孫の面倒をみて。

できるだけ、妻を愛した。

その頭の大半をという変な思考に支配されていても。


これがだったり、と言われたのにおめおめと逃げてきたり、そういったものだったら、どう違ったのだろう。

だから笑い話なんだろう。

でもずっと、頭の中で響き渡り苛むもの。

それを拒む選択肢がないもの。

それらはどう違うのだろう。

なんの違いがあるのだろう。

その答えをずっと求めていた気がする。


…でも、ああ。

時間がない。

それは残念で。

とてもありがたく思える。


もう、うんざりだ。

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