夜の写真 8

 まったく、夜中に先輩を呼び出すとは、なんて後輩たちだと思う。

 別に行かなくったってよかったんだけど、無視すると事態が悪化する可能性もあるし、まあ仕方ない。

 しかも、よくわからない服装指定までして。

 もう春とはいえ、夜気は冷える。あたしは、ジャージの襟元を合わせた。

 

 葉桜の桜並木を、あたしは軽いジョグで学校へと向かう。

 この道は、吉原先輩とよく走った道だ。朝早く起きて、トレーニングに出かけると、いつも先輩が先にいた。

 今はもう、いなくなってしまったけれど。

 あたしは今でも、この道を走り続けている。


 後輩からの呼び出し場所は、学校のトラックだった。

 もう今日の部活は終わって、学校には誰もいない。

 寮生もいるから、学校の敷地自体には入ることができるけど、夜の学校に忍び込むのは、少し勇気がいるものでもある。

 夜の学校の門を潜る。トラックは、ここから校舎の裏手である。人気のない中庭を通り抜け、校舎の脇を通るとき。ふと見上げれば、月が上るまでまだ時間があるからか、満天の星明りだ。学校の灯りはすべからく消えていたから、この夜闇を照らすのは、星明りだけなのだと知る。

 あたしは、校舎の脇を抜けた。そうすれば、すぐに呼び出し場所だ。

 星明りに照らされた、高校のトラック。広々とした、殺風景な夜闇の中に。


 眼鏡を外した砂川こよりが、ラインカーを携え立っている。


 その脇には、篠原くろえがいて、地面にはラインカーでなんだか複雑な図形が描かれていた。それは見ようによっては魔法陣のようにも見える。

「よ。砂川。話って何だ? こんな夜中に先輩を呼び出してだね――」

 あたしはスタンドからトラックへと降り、砂川へと近づいた。砂川は射貫くような視線で、あたしを見つめている。

「大したことではないです。西之先輩には、陸上部に戻ってもらいます。ただし、インターハイが終わるまでっていう期限付きで」

 そんなことを、しゃあしゃあと言ってのけた。

 ほんと、なんて生意気な。

「それは無理な注文だ。あたしは――」

「ことね先輩から聞きました。吉原先輩の生霊のこと」

 遮るように、砂川は言った。

 ふわ、と静かな風が吹く。

「ですので、吉原先輩の生霊と、西之先輩が四〇〇メートルで勝負して、西之先輩が勝ったなら、晴れて西之先輩を自由にしていただき、思う存分陸上をやっていただきたいと思います」

 とんでもないことを、砂川は言った。

「待てよ。そんなこと勝手に決めるんじゃねえよ。第一、どうやって吉原先輩と走るのさ。そんなことできるなら、とっくの昔に――」

 そういって、あたしははっとした。

「ほら。先輩、やっぱり走りたいんじゃないですか。私、先輩が美術文芸部に来ながら、ほんとは一人でトレーニングしてるって、話、聞きましたよ。それに、勝負の算段ならご心配なく。くろえちゃんは、降霊術ができるそうです。なので、吉原先輩の生霊を、降ろして、もらいました――」

 ざく、ざく、と。しかし静かに、砂川は魔法陣の中心へと歩いていく。歩くたびにふわりと揺れる彼女の髪に触れた風が、さらに冷え切った、絶対零度の温度をもって、あたしの頬をかすめていった。

 これは――。

「仮にそこに吉原先輩がいたとして、どうやって勝敗をつけるんだよ。あたしには、いるかどうかだってわからな――」

 足音がやんだ。魔法陣の中心に、砂川は立っている。

「御託はもういいです。私には吉原先輩が見えるから、審判は私がやりますよ。どうせ見えないんなら、体で語りましょう。そんなことより――」

 星明りに照らされた魔法陣は、暗黒のトラックに青白く燃えるように浮かび上がってきた。まるでその円の中から溢れ出したかのように、絶対的な冷気を持った風が砂川の髪をふわりと揺らし、そして、ゆっくりと振り返る。黄泉の空気を携えた、冷烈な群青の眼光。


『やりましょう。西之さん』


 それは、吉原先輩の聲だった。

 ぞくりとした。


 吉原先輩がそういうんなら、あたしは断ることなんてできない。

 ここに来るまでに、ウォームアップは済んでいる。あたしは、ジャージを脱いで、言われた通り着て来た、陸上のユニフォーム姿になる。少し寒いはずなのに、何故だろう。胸が、熱い。

 あたしは、四〇〇メートルトラックの、スタート位置に移動する。

 一レーンは、あたし、二レーンが先輩だ。七メートル二〇センチほど前方が、先輩のスタートライン。スターティングブロックは取り外されてしまっているから、器具なしでのスタートとなる。

 あたしは、七メートル二〇センチ先のラインを見た。今、あそこに先輩がいる。あたしは、吉原先輩の姿をイメージする。

 ああ。そうだ。

 陸上部に行かなくなってからも、ずっとトレーニングは続けていた。ずっと吉原先輩をイメージしながら、走り続けてきた。

 見えなくったって、吉原先輩の走りは、あたしの脳に焼き付いている。

 真剣勝負ができるのは、おそらくもう今しかない。

 あたしは、ふうっと息をついた。

 それなら、やるしかないじゃないか。

「位置について」

 あたしは、スタート位置から、吉原先輩の姿を見つめ、

「用意」

 クラウチングスタートの態勢をとると、夜の空気を胸いっぱいに吸い込み、そして


 静寂。


 ぱあん、という号砲の音とともに、吸い込んだ空気を地面に伝え、力とともにけり出した。フライングもなく、我ながら悪くないスタートだ。吉原先輩がスタートでミスをすることはない。確実なスタートを切ってくる。あたしは風を切りながら、前を走る吉原先輩の背中を見た。

 ペースを乱されるな。

 吉原先輩の立ち上がりの加速は全国屈指だった。ここで冷静さを失って合わせると、中盤から後半への体力を限りなく削り取られてしまう。大丈夫、頭は夜闇のように冷たく冷静だ。吉原先輩の姿は視界にとらえている。大丈夫、離されてない。

 一〇〇メートルを過ぎたころ。ここから、あたしのスピードは乗ってくる。先行する吉原先輩との距離少しだけ、少しだけ縮まっていく。序盤の我慢が功を奏したのだ。

 呼吸の乱れと、フォームの乱れを整える。

 

 ――大丈夫。行ける。


 二〇〇メートルを過ぎ、コーナーに入る。ここから約一二〇メートル、遠心力とともに加速して、先輩を捉えることができたなら。

 後半型のあたしが、先輩を追い詰めるにはこれしかない。バクバク、と心臓が波打つ。体中の酸素が雑巾を絞るようになくなって、呼吸が荒れる。でも、顎を上げるな。フォームを乱すな。先輩の背中まで、あと一メートル。先輩は、速い。でも。

 三二〇メートル地点、直線の始まりで、あたしは先輩に並んだ。

 並んだのは一瞬だ。

 コーナーでの加速そのままに、あたしは先輩を抜き去った。


 この三二〇メートルあたりからが、本当に一番つらいところだ。心臓は意味の分からないリズムで激しく脈動し、もう爆発しそうだった。

 このまま行けば、勝てる。

 でも、ここで先輩に勝ってしまったら……?  

 先輩は、本当にいなくなってしまうのだ。

 それでも。

 それでも、これが最初で最後だというのなら。

 涙で視界が滲んだけれど、構っている暇なんてなった。幸い鼻水は出ない。呼吸には影響はない。スピードは最後まで絶対に落とさない。

 もはや意地だった。涙でぐしょぐしょに頬を濡らしながら、あたしは走り続けた。

 先輩の姿はもうない。残り五〇メートルを過ぎた、その時だった。

 あたしのすぐ後ろから、突風が駆け抜けていくのを感じた。

 あたしの背筋が、一瞬にして凍った。抜き去ったはずの先輩が、半歩後ろにいる。これは、先輩が本気のときに見せる、伝家の宝刀の末脚だ。吉原先輩は残り五〇メートルで、ありえない最後の伸びを見せる。

 

 すぐ隣を見れば、しなやかな吉原先輩の肩。

 あたしを置いて、走り去ってしまう。

 あたしの体力は、もう限界だ。

 焦りはフォームの乱れを生む。先輩がもう半歩前に出る。

 駄目だ。先輩の加速についていけない。


 その時だった。


「西之先輩! がんばれええええっ!!」

 

 声がした。砂川の声だ。

 声のしたほうを見ると、泣きそうな顔の砂川が、あたしを必死なまなざしで見ていた。 

 なんだおまえ、そんな顔するんじゃないよ。


「あかりちゃん、がんばってー!!」

「西之、負けるな!」

「もう少しよ~あかりちゃん!」

「先輩! 頑張るネ!」

「がんばってくださああああい!」


 今度はスタンドや、方々から声がした。

 姿をとらえることはできないけれど、そんなことは問題じゃない。

 そんなこと、されたらさ。

 頬を、つうっと、大粒の涙が伝った。

 あたしは、最後の息を深く吸った。

 絶対に、負けられないじゃないか。

 

 吉原先輩の末脚に、あたしは追いすがる。

 あたしのあらん限りの力を絞って、もう一度、もう一度だけ加速する。

 半歩前にいた先輩が、あたしと並び、そして、

 

 先輩が、少し笑ったように見えた。

 先輩は、そこから、さらにもう一段加速して。

 あたしよりも一歩先に、吹きすさぶ突風のように彼岸の空気を引き連れて、ゴールラインを駆け抜けた。

 

「やっぱり、先輩は、速いや」


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