夜の写真 4

「西之先輩……」

 翌日部室に行くと、初めに来ていたのは西之先輩だった。打合せ机に腰かけて、何かしらの本を読んでいる。源氏物語だ。

 しおりを挟んで本を閉じる際、今読んでいる章のタイトルが飛び込んできた。


 源氏物語 葵 第三段


 与謝野晶子訳の源氏物語だ。古典を訳したものも読むんだと、少し感心してしまった。

 本題はそれではない。気を取り直す。

 

「――西之先輩。一つ質問があります」

「何だい砂川部員。何なりと申し上げ給え」


 西之先輩は、手元の本を軽くもてあそびながら答えた。いつもと変わらない、表情で。

「西之先輩が陸上部に行かなくなったのは、西之先輩と競っていた西之先輩の、先輩が、インターハイ前に事故にあったからだって本当ですか?」

 単刀直入に、私は尋ねた。他にも情報を集めておきたかったけど、私には同じ学年に、あんずちゃんぐらいしか親しくしている友達はいない。ユメコ先輩に訊くのもはばかられたので、とにかく本人に直接聞いてみることにしたのだ。西之先輩なら、正直に答えてくれるだろうという、期待があったのもある。

「日下部からでも聞いたんだね。発端は昨日の話か……。なるほど」

 私の言動から、何かを確かめるように、西之先輩は言った。確かに西之先輩は賢いから、これくらいのことは悟ってくる。

「その先輩は、去年のインターハイの直前の交通事故に遭って以来、まだ意識が戻っていないんだって聞きました。西之先輩が陸上部に行かなくなったのは、それからだって。西之先輩は、本当はとっくの昔に怪我ななんて治ってしまっているのに、その先輩がいなくなってしまったから走るのをやめてしまったんだって」

 あんずちゃんが聞いた噂では、おおむねそのような感じだった。西之先輩はボーイッシュで、お世辞抜きで同じ女子でもかっこいいと思ってしまう。故に、私たちの学年にも彼女のファンみたいな女子はたくさんいて、そこからの情報なのだそうだ。

「西之先輩、その先輩がいなくなったから、走らなくなってしまったんですか? 他に何か理由があるんですか?」

 問い詰めるような口調になってしまっていたように思う。普段は何か話を振っても、綺麗にやり込められてしまうのに、今日の西之先輩はひどく言葉少なだった。

「――そうだね。概ねそういった理由だ。もうあたしは、走る気なんてないんだよ」

 西之先輩はそう言って、軽く笑った。

「あ――。まさか砂川にばれるとは思わなかったな――。先輩、ちょっと後輩のことを見くびっていたよ。でもさ、そういうわけだから、あたしはもう走る気なんてないんだ。目標としてた先輩が、いなくなっちまったわけだからね」

 まるで、もう終わったことであるかのように、言った。

「西之先輩は、小学校のころからずっと陸上を続けていて、そんなにすぐに諦めてしまうような人間じゃないって聞いてます。本当は誰よりも走りたいんじゃないんじゃないかって」

「それは、他人の評価だろ? 本当のあたしは、そんなこと思っちゃいないし、そんな高尚な人間じゃないよ。目標としてた先輩がいなくなっちまったぐらいで、陸上への熱も冷めちまって、美術文芸部で時間潰してるくだらない人間だよ。そういう人間だからさ、もう陸上のことには触れず、放っておいて欲しいんだよ」

 軽い笑いを浮かべたままで、西之先輩は言った。本当にそう? 本当にそうなら、そんな笑い方を――する? 

「でも、西之先輩。高校での大会は、もうインターハイで最後なんですよ? 地区大会だってもうすぐなんでしょう?」

「いいんだ。あたしはもう諦めているから。もうこれ以上はやめてくれよ。なんか、あたしがほんとにみじめになっちゃうじゃないか」

「いいえ。やめません。西之先輩に、走ってほしいって、西之先輩の先輩だって、きっとそう――」


「砂川」


 途端、低く冷えた西之先輩の言葉に、私の背筋はぞくりと凍った。大声でさえないけれど、今までのひょうひょうとした口調からは想像もできない、重く、切り裂くような声色。これは――怒り? 

「あんたさ、ちょっと死者の言葉が話せるからって、調子に乗ってるんじゃない? それ、本当に先輩の思いなの? 聲寄せでもして先輩に聞いたのか? 違うよね? 先輩の言葉を、あんたが勝手に決めるなよ」

「あたしの持つ念写ソートグラフィーの力は、あんたやユメコ、ことね先輩に比べるととても弱い。あたしにはね、見えないんだよ。幽霊や怪異が。ことね先輩は、霊視のできる人が一緒にいれば、そのうち自然と見えるようになることもある、って言ってたから、あたしはこの部活にいるけどさ。でもまだそうはなってないし、これからもそうなるとは限らない。あたしはあんたたちとは違う。できないことだらけの人間だよ。でもね。だからあたしの大切な人の気持ちをわかったふりしてあんたたちなんかに語って欲しくはないね。あんたのその言葉は、死者の墓を暴く行為と等しいことだ」

 先ほどまでの軽い笑みを浮かべた表情とは打って変わって、西之先輩のまなざしは鋭く、怒りに、満ちている、そこには、今まで私が見たこともない西之先輩の姿があった。まるで、獰猛な、猫科の肉食獣のような、強い敵意と、怒りだった。

 私は。

「この話題は、これでおしまいだ。

 もし、みんなの前でまた言ってくるようなら、あたしはあんたを絶対に許さない」

 強い口調で、彼女はそう言った。

 その後、みんなかが来てからの西之先輩はいつもと全く変わりがないように見えたけれど。私はどうしようもなくなって、部活を早退してしまったのだった。


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