花の夢枕 8

 私は、昔から、人ではないものの夢が見えて。

 本当は、少しだけ、人ではないものの気配を感じることも、見ることだってできた。

 だから、この家のことがとっても大好きで、そこかしこにあった物の怪たちのささやきや、そのひとつひとつを語ったおばあさまの言葉が好きだった。

 でもこの家は新しくなってしまって、そういったものの気配は全くなくなってしまった。

 

 私は、夢の中で、何度も行かないで、と言った。 

 

 突然のことで、両親は妹を連れて留守のようだった。誰もいない家。私は寂しくなって、窓という窓、扉という扉をすべて開けて回った。せめて昔みたいに風通しがよくなってくれれば、遠野の空気がこの家に満ちるだろうか。

 昔、厩と土間があった場所。私の頃にはもう馬は飼っていなかったけれど、昔、先祖が大事にしてきた馬具や、馬用のかまどが昔は確かにそこにはあった。もう馬なんていなかったのに、いつも絶やさずかまどには火が入っていて、絶やすことなくお湯が沸いていて。寒い日は、それで暖をとったりもしたっけな。

 黒塗りの廊下があった場所は、もうきれいなフローリングだ。人が歩くたびにぎしぎしと鳴る、危なっかしい廊下だったけれど、でもそれは人以外のものが通ってもぎしぎしと鳴る。私は、その音を聞きながら、今は何が通ったんだろうなんて、想像しながら、眠りに落ちるのが好きだった。目が覚めたら枕元に、どこから摘んだとも思えない花が一輪、いたずらに置いてあったりして。

 廊下を抜け、昔蚕を飼っていた蚕の間を抜けると奥座敷だ。日の光が差す窓のないこの部屋は、座敷童様のお気に入りの場所だった。夢の中でかくれんぼをしたりすると、大抵最後はここに隠れていたし、夢でなくてもこの部屋の中で動く冷たい冥府の温度が、座敷童様がどこにいらっしゃるのか、何をしているのか、私に伝えてくれていた。でも、今ではその蚕の間も奥座敷もなくなって、広い一続きの客間になっている。

 昔の名残なんて、居間の中心に残された、囲炉裏ぐらいか。

 昔はこの囲炉裏の火も絶やされることがなく、私はこの小さな部屋で火を囲んで、おばあさまの語りを聞いた。座敷童、河童、オシラサマ、山神、雪女、サムトの婆。他にももっとたくさんの、不思議な遠野の話に、私はいつだって心を躍らせていた。でも、その囲炉裏はもう役目を終えたようにそこにあるだけで、ずいぶんの間火さえ入れられていないように見えた。

 私は、どうしようもなく泣きたくなった。私の大切なものは、本当になくなってしまったのだ。そのどうしようもない絶望感と、寂寥感が、私の中を駆け抜けるのを感じた。

 ――唐突に来る凄絶な眠気。ナルコレプシーの症状だ。感情が高まるとどうしても眠くなってしまう。ああ、でもこれでいいのかもしれない。どういった形だって、私の大事なものと夢の中で会えるなら。起きていたって、考えるのは夢の中のことばかりだ。それなら、夢だけ見続けて、その夢から抜け出せなくなっても、その夢の中で生きていけばいい。そもそも現実と夢なんて、そんなに大差なんてなくって、私には、そっちのほうがきっとあっているのだから。


 ――こっちにおいで、と。


 夢の中で、あの子は言っていたっけ。それなら、それもいいじゃないか。


 ――りん。


 その時だった。

 聞き覚えのある鈴音が私の鼓膜を貫き、脳裏に響いた。それはかつて、夢の中でいつも響いていた、懐かしい懐かしい鈴毬の音。

 その鈴の音は、家中に波紋を作ると、開け放った窓からあまねく風を呼び、家中をめぐり、高く伸びた天井へ舞い上がっていく。その風の舞い上がる袂、高く伸びた天井の下には、黒髪を揺らして、黒縁の眼鏡を外し、冷烈な眼差しを湛えたこよりちゃんが立っている――。

 ――それは、そう。

 りん、と遠くで鈴の音がする。

 風に乗った、桜の花びらが、ひとひら。またひとひら。幾千も舞い踊るように。それは。

 

 ――それは、夢の、目覚め。



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