花の夢枕 3
「というようなことがあって、西之先輩がお勧めしてくれたんだ」
私は帰り道、あんずちゃんに西之先輩から手渡された本の話をした。あんずちゃんは読書好きだから、きっとこの本のことも知っているに違いない。
「『遠野物語』だね。私も読んだことがあるよ。岩手県の遠野っていう地方に伝わる民話を佐々木鏡石から柳田國男が聞いて、一冊の本にしたためたの。そこには多彩な妖怪の話の端々から、遠野の人々の習俗や思想、生き方みたいなものが描かれていて、日本の民俗学学のバイブルみたいになっている本なの」
「……く、詳しいね。あんずちゃん……」
こういうことがさらさらと出てくるあたり、なぜ彼女が美術文芸部でなくてまず料理部に入ってしまったのだろうと不思議に感じるけれど、まあ、そんな彼女も今は美術文芸部の部員ではある。
「それにしてもユメコ先輩は、いつも眠そうで大変そう。まあ、寝てる姿は、とってもかわいいんだけど……」
「うん。ユメコ先輩、可愛くて美人だよね。銀色の睫毛なんて特に。でもあんな感じでちょっと天然なところがあるから、告白した男子はわかってもらえなくて悲しい目に合うらしいよ? ――そういえば」
あんずちゃんは、何かに少しだけ逡巡した。私に言いづらいことでもあるのだろうか。
「ううん、何でもない。ユメコ先輩の話、もしかすると授業中寝るのは良くないって怒る人いるかもしれないから、あまりしないほうががいいんじゃないかな。それよりも、私、こよりちゃんが部活に入って、友達も増えてるみたいで嬉しいよ。今日は料理部だったから、美術文芸部行けなかったけど、明日は私も行こうかな」
そう言って、あんずちゃんはにこりと笑った。
「そ、それからね。こよりちゃん」
むしろそれよりも、何か言いたそうなことがあるように、あんずちゃんは言った。
「きょ、今日、料理部でクッキーを作ったんだけど、こよりちゃん、味見してみない?」
「え? いいの? やったー! あんずちゃんのクッキーなら大歓迎だよ~」
思わぬところから、棚から牡丹餅だ。前言撤回あんずちゃんは美術文芸部ではなく、料理部であるべきだと思うよ。
「そ、そう? じゃあ、これと、これ……」
そう言って、あんずちゃんはきれいにラッピングされた市松模様のクッキーの包みを二つ取り出した。一つはピンクのリボン。もう一つはブルーのリボン。何故二つ。
「ちょ、ちょっと作り過ぎちゃったから、もし良かったらお兄さんにも味見してもらえないかなって。りょ、料理はお兄さんの方が上手だとは思うんだけど」
作り過ぎたとはいえ、私が二人前を食べることに何の問題もないけれど、お兄ちゃんにあげたいっていうのなら、まあ。
「わかった。お兄ちゃんに心して食べるように言っとくね」
私は、あんずちゃんのクッキーを手に、正直お兄ちゃんにあげるのはもったいないなぁと思いながら帰路についた。
「お兄ちゃん、ただいま――」
家に帰ると、どうやら今日はお兄ちゃんのほうが先に帰ってきているようだった。ドアを開けた瞬間に、野菜の煮物の香りがふわりと広がる。人参と、ジャガイモと、玉ねぎと――。今日は肉じゃがかカレーかはたまたシチューか。
「おかえり――。ご飯もうすぐできるからな――」
キッチンから、お兄ちゃんがふっと顔を覗かせる。私と同じ黒縁の眼鏡に緑のエプロン。もう少しセンスが悪ければ魚屋に見えないこともない。特にかっこいいわけではない、取り柄が料理と掃除ぐらいの私の兄だ。
「これ、あんずちゃんからお兄ちゃんにだって。料理部で作ったらしいよ」
私はそういって、あんずちゃんから先ほどもらったクッキーを手渡した。ああ、ありがとう、と言って、お兄ちゃんは受け取った。
「そういえば、お前部活に入ったんだって?」
私がリビングでくつろいでいると、お兄ちゃんが声をかけてくる。キッチン付きのワンルームは対面式のため、話をしながら料理ができるのだ。
「うん。美術文芸部に入った」
「へぇ。文芸部か。懐かしいなぁ」
「それでね。いつも眠そうにしてる、美人で可愛い先輩がいるんだ。こんなかわいい生物がこの世にいるのかと思ったよ」
「お前曲がりなりにも女子だろ。女子が女子にときめくなよ」
曲がりなりにもとは失礼な。花をときめく女子高生である。
「でね、その先輩、ほんとにいつも眠そうで、授業中とかにも気づかず眠っちゃうことがあるんだって」
私がそういうと、お兄ちゃんは怪訝な顔をした。
「授業中に眠るのは、感心しないな」
「でも、ユメコ先輩、どうしても眠くって仕方ないんだって。今日も私たちと話をしながら突然寝息を立てちゃって、その顔がすごくかわいくって」
「ん? お前それ――。そのユメコ先輩から何かほかに聞いてないのか?」
他に、とは? お兄ちゃんは顔の半分を手で覆い、眼鏡を抑えている。何か考え事をしているときの表情だ。
「お前、そのことをほかの人に言いふらしたりしていないだろうな……?」
そして、こう喋りだすときは、お兄ちゃんが何かの答えに行きついたときの証だ。
「え。あんずちゃんにはしたけど……。そういえばユメコ先輩の話はこれぐらいにしようって言われたな。西之先輩は酷くなってないか? って言ってた」
やっぱりか、と、お兄ちゃんは一つため息をついた。何かまずいことでもあったのだろうか。
「あんずちゃんには後でお礼をしないといけないな……。それにしても鈍感すぎるのは、お前だ。こより」
お兄ちゃんは、料理の手を止めて、言った。大事なことを話すときの口調だ。
「そのユメコ先輩は、おそらくナルコレプシーという睡眠障害だ。お前まさか、このことで先輩をからかったりしていないだろうな……?」
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