花の夢枕 2
「……ということがあったわけです」
「あはは。なんだそれ、ユメコが寝てただけじゃないか」
私が部室の打ち合わせスペースで呆けていると、西之あかり先輩が現れ何事かとココアを入れてくれた。私はそれを飲んで、やっとこちらに引き戻されたような気がする。
「どうもこうもありません。なんですかあの可愛い生物は……!」
遠野ユメコ先輩。何度か会ったことはあるのだが、いつもの眠そうな表情しか見たことがなかった。けれど、あんなふうに静かに寝ている姿は反則だ。私が人生生きてきて会ったことないクラスの可愛い生物だった。
「砂川……あんたまさか、その気ありな子ですか」
西之先輩がゴミを見るような目で私を見てくる。
「ち、違います! ただ、横顔見て可愛いなって思っただけで!」
まさかの角度からの攻撃に、私はずれた眼鏡をくいと掛け直す。
「別に隠さなくったっていいんだぞ。砂川が男子と喋ってるところを見たことがある奴はいなかったし、女子が好きだったって、あたしは別に」
「男子と話すのはちょっと怖いだけで関係ありません! 先輩こそ柳沢先輩と仲良しじゃないですか!」
「いやいや、別にあたしは柳沢先輩とそういう仲なわけじゃ。柳沢先輩卒業しちゃうし、桜庭先輩と一緒の大学に行くし……」
「そこで桜庭先輩にジェラシー燃やしてるように見せかけてるほうが、よっぽどだと思いますよ……?」
私はため息をついた。西之先輩はいい人なのだけれど、どうしてもこう掴みどころのないところがある。――そういえば。
「西之先輩、陸上部と兼部してるんですよね? そっちのほうは行かなくてもいいんですか?」
確か西之先輩は陸上部にも入っていたはず。柳沢先輩との付き合いでこの美術文芸部にも入ったのだそうだけれど、本業はあっちなのだと聞いている。
「ん? ああ。あたしは今オフだからいいんだよ」
オフ。そういうものだろうか。私はスポーツをしたことがないいまいちピンと来ない。
「それにしても、砂川は熱心だね。ここんとこ毎日早いじゃないか」
「そんなことは。ただ、私は一年間帰宅部でしたし、四月に新一年生が入ってくると思うと今のままでは不安ですし……」
正直なところ、私は本がすごく好きかというとそういうわけでもない。ごく普通の内向的な女子高生だ。とはいえきっと入ってくる一年生は本好きだらけなはずなので、そこのところの知識はつけておきたいところなのである。
「というわけで、私はどういった本を読めばよいでしょうか西之先輩」
コト、とココアのカップを置いて、西之先輩に問いかけた。とはいえ、西之先輩が何か本を読んでいるところ、私はあまり見たことがないんだけれど……。
「うーん。そういうのは柳沢先輩とかに聞いたほうがいい気はするんだけど、そうだなあ」
西之先輩はポリポリと頭をかきながら立ち上がると、本棚を物色し始めた。そして、二~三分考え込むと、突然一冊の本を取り出した。
「まあ、ユメコと仲良くなりたいんなら、この本とかお勧めかも」
西之先輩が手渡してきたのは、古びた薄い、一冊の文庫本――。『遠野物語』。
「たぶんそのうち授業で習うと思うけど、柳田國男っていう民俗学者が書いた本。東北の妖怪の話が満載されている」
「そんな本読んで、なんでユメコ先輩と仲良くなれるんですか。ていうかその動機不純じゃありません?」
地元にもたくさん妖怪の話はあったから、いまさらかという気はしたけれど、とはいえこの薄さなら確かに入りにはよさそうだ。ぶつくさ言いながらも、私はその本を受け取ることにした。
「……ふあぁ。よく寝たぁ。あ、二人とも、おはよう」
そうこうしているうちに、眠り姫――。ユメコ先輩が、書架の奥から姿を現した。銀色の長い睫毛を重たそうに瞬かせながら、ふらふらと打合せ机へ近づいてくる。
「ユメコ、あんたまた今日もまたひどく眠そうだな。眠気覚ましに何か飲むか?」
「ありがとうあかりちゃん。ふあぁ。じゃあ、起き抜けにあまーい練乳ミルクセーキお願いします~」
「はいはいわかった。甘い練乳ミルクセーキね」
小さな口を掌で覆って欠伸をするユメコ先輩の目の前に西之先輩が置いたのは、湯気の立つホットコーヒーだった。確か一応冷蔵庫には練乳は入っていたような気もするけれど。
「わ~ありがとう。あかりちゃんは優しいねえ。いただきまーす」
しかしそんなことさえ見えていないのか、ユメコ先輩は香り立つ珈琲を口に運んだ。一口、二口、しばし静止していたけれど、みるみるユメコ先輩の表情が涙目になっていく。
「なにこれミルクセーキじゃない~。苦い~苦いわぁ。毒を盛られたわぁ~」
「ブラックコーヒー濃縮率二倍でエスプレッソ気味に入れてみました。あんたはそれでも飲んでシャキッとしたほうがいいわよ」
「ひどいわあかりちゃん、私がその黒い毒豆の飲み物を飲めないの知ってるのに~」
「スターバックスコーヒーのフラペチーノとかカフェモカならいつも普通に飲んでるじゃん。それぐらいいけるだろ」
「違うの~。あれは甘味があるからなのよぅ。ご慈悲を~。せめて砂糖とミルクを頂戴な」
「駄目だ。それじゃああんたが眠気に勝てない」
スティックシュガーを求めてもだえるユメコ先輩に、西之先輩は冷たく言い放った。
「そんな~。本場でもエスプレッソは砂糖をたんまり入れて一気に飲み干すものなのにぃ」
「珈琲詳しいじゃん。ていうかあんた、そんなにぐうすか寝ていたら後輩の手本にもならないでしょ。せっかく二人も新入部員が入ってくれたっていうのに」
「う……それは」
バツが悪そうに、ユメコ先輩は私を見た。二倍濃縮率珈琲をちびちびやりながら。その度に涙目になりながら。いや、けして無理して飲まなくったっていいんですよ?
「ごめんなさい。こよりちゃん、不甲斐ない先輩を許して……」
いや、不甲斐ないも何も、先輩が寝てることはいつものことですし。
「は、春は眠くなっちゃいますから、仕方ないんじゃないでしょうか……?」
とはいえそう正直には言えないので、私は適当にお茶を濁した。
「ありがとう。こよりちゃん優しいのねぇ。先輩感激だわ」
目尻に涙をためながら、ユメコ先輩は言った。その涙は私の言葉かそれとも珈琲の苦みによるものか。
「砂川、ユメコを甘やかすとロクな大人にならないぞ?」
厳しい口調で西之先輩は言った。まあ確かに、ユメコ先輩は甘やかすと本人のためにはならない気はするが……。
「それに、ユメコ、最近本当にどうしたんだ? あんたが眠たがりなのはいつものことだけど、最近頓にひどいじゃないか。授業中もほとんど起きてないし。もしかして、ひどくなってる?」
西之先輩の瞳がちょっときつめに細められたような気がしたけど、気のせいだろうか。まあ真面目な西之先輩のことだ。ユメコ先輩と西之先輩は同じクラスだ。だから授業態度も知っているのだろう
「そうねぇ。こよりちゃんの言う通り、春だからかしら。最近、眠くて眠くて仕方なくって……」
そう言って、ユメコ先輩は一つ欠伸をした。
「大丈夫、赤点は今季ほとんどないわ」
「だから、ある時点で駄目だって言ってんじゃん」
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