エピローグ
あれから一週間ほどが過ぎ、桜は満開の盛りを過ぎて散り際を迎えていた。窓から降り注ぐ朝の光はきらきらして少しまぶしい。
お兄ちゃんは、今日は少し早く出かけてしまったため、私は一人で朝食を食べる。制服に着替えて、眼鏡をかけて、これで準備は万端だ。私は玄関のドアを開ける。占いでは十一位だったけど、今日はいい日になりますように。
今日の学校は一段と騒がしい。卒業式の日だからだ。先輩たちは人生の門出に立ち、また新しいステージへと昇っていく。私たちは、すこし寂しいけれど、それを見送るしかない。それは、きっと必要なことなのだ。
私は、そっと窓の外を見た。
校庭は桜の花びらで、一面の花吹雪である。
「こよりちゃん、大丈夫?」
心配そうに、あんずちゃんが、私に声をかけてくる。私は、大丈夫、と少し笑って返す。でも、もう少し、もう少しだけそっとしておいて欲しかった。あのとき感じた熱が、もう少し私の体温に近くなるまでは。
私には、見送る先輩なんていないから。私はそっと校舎を後にした。そんな私を心配して、あんずちゃんは一緒に帰ろうと言ってくれた。私は断ったけれど、どうしても引き下がらなかった彼女と一緒に帰途についている。井之頭公園の湖のほとり、桜並木のあの道だ。
少し前、あんなことがあったなんてまるで嘘だったかのように、そこには赤い服の女はいなかった。あの聲寄せの後、彼女は跡形もなく消えてしまったから。それは仕方のないことだ。だって彼女の未練はきっとなくなってしまって、大事な娘、桜庭先輩に届いたのだから。
私は、そっと胸に手を当てた。聲にならない彼女のこころは、もっとたくさんあったのに。私は、何ができただろうか。
「あ、いたいた。やっぱりここを通ると思ったよ」
あの大きな桜の木のそばを通り過ぎようとしたとき、知った声に呼び止められた。ショートカットのスポーティな風貌。西之先輩が、私に軽く手を振った。
「あんたにさ、書いてもらいたいものがあって。あんたがいなきゃ、これは完成しないからさ」
西之先輩は、そう言って、二枚の色紙を取り出した。『柳沢先輩へ』『桜庭先輩へ』たくさんのカラフルな文字やイラストに彩られた色紙の端には二枚とも、地味な鉛筆で丸に囲まれた一角があった。
『予約席 一年 砂川』
私に、これを書けというのか。
「きっと、二人とも喜ぶと思うんだ。あんたに書いてもらえたら」
予約席の鉛筆書きを消しゴムで消して、西之先輩はそっとそれを手渡してくる。私は戸惑いながらそれを受け取って、恥ずかしながらあたふたした。それを見て、あんずちゃんはくすっと笑った。
「こよりちゃん、よかった。桜庭先輩や、柳沢先輩と、仲良くなれたんだ」
それはそうかもしれないが、私はあまりこういうことをしたことがないから、一体何て書けばいいのか。
書きたい言葉は沢山あるのに、いざ文字に起こそうと思うと、全く思い浮かばない。ああ、うん、こういう私はどうすればいいんだ。こういうときにすらすらと、たくさん書けるひとたちが羨ましい。
数分逡巡して、私なりに熟考に熟考を重ねて、一つの言葉を思いついた。つまらないことだけど、私には、これが精一杯――。
「あ。いたいた! おーい! 砂川さーん!」
背後から声をかけられて、可能な限り目一杯気を遣って書いた色紙を取り落としそうになった。
「桜庭先輩、柳沢先輩……!」
私は、ずれた眼鏡をばれないようにくっと直した。二人と話すのは、あの日以来――か。
桜庭先輩には以前のような影もなく、表情も明るい。まるで何かを吹っ切ったよう。柳沢先輩も、以前の寂し気な笑顔ではなくて、心からの、笑顔。
何より、二人一緒にいてくれることが、一番うれしい。二人は親友に戻れたんだ。
「砂川さんに、お礼が言いたくて。それから、これを渡したくて――」
そう言って、柳沢先輩が取り出したのは、「chopin」と記されたあの手帳だった。死者の言葉がたくさん綴られた、あの手帳。その手帳に、一つだけかわいらしい付箋がついている。
私は、そっとそのページを開いた。
ああなんだ。伝えたいことはみんな一緒じゃないか。
そこには、柳沢先輩の、桜庭先輩の、西之先輩の、そして、彼女の文字で、こう記されていた。
――ありがとう、と。
死者の、言葉だ。
死者の言葉を語ることはできるのは、生きている私たちだけだ。死者の言葉は時に曲解されて、利用されて、本当に伝えたかったことなんて、覆い隠されてしまうかもしれない。それは、言葉の数が増えれば増えるほど、そう。
でも、本当に伝えたい人にだけでも、彼女たちの本当の聲が届いたのなら、きっと死者は笑ってくれるだろう。
私の中の熱が、すうっと風に攫われていくのを感じた。少し寂しいけれど、もう少しだけ、あの熱を覚えていたいと思ったけれど、私はその風をそっと見送った。
それから、西之先輩からの勧めで、一緒に写真を撮った。一面の桜が舞い散る中、シャッターが切られる間際、桜の花びらが、ブレザーの肩にそっと触れた気がした。
柳沢先輩、桜庭先輩、西之先輩、あんずちゃん、私と。そして。きっと、不思議な写真が撮れているはず。でも、みんな笑顔なはずだ。
笑いあって、みんなと別れた後、私はあんずちゃんと二人になった。
「――ねえ。あんずちゃん、私ね」
ああきっと、それなら、もしかしたら、楽しいことが沢山待っているかもしれないなんて、そういう期待をしてしまう。
「――私、部活に、入ろうと思うんだ」
私がそう言うと、あんずちゃんは、嬉しそうに笑った。
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