chopinの手帳 9
闇を切り裂くような言葉の奔流に流されて、桜の花びらは夜闇に舞い上がり、またその一房に戻っていってしまうかのよう。
私は紡がれたひとつひとつを受け止めながら、そっと目を閉じ、月明かりの温もりと、奥山の冷気を感じている。
それは、黄泉の深くから来る、死者たちの体温そのものだ。
月と奥山の温度差は、風となって私の髪と体をやさしく包む。風には言葉が満ちていて、私はその一つ一つに指先に触れる。その一つ一つが、あの人を形作っていく。
私の肩に、そっと触れるものがある。それは、触覚的な感覚ではなく、流れ込む言葉を通して伝わってくるイメージだ。黄泉より来る赤い服の女性。彼女の指先はひどく冷たく、私の体温も彼女のそれに侵されてしまいそう。これはあのときと同じ――深い冷気の中にしまい込んだ、ひとひらの熱。
あとは、その熱に身を任せるだけでよい。
『ゆるさない』
紡がれ出でたのは、その言葉だ。それは、私の声ではなく、桜庭先輩のお母さんの聲。
『ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない――』
夜闇に流れた彼女の聲は、桜の花びらに乗って、深淵とした大地に降り積もっていく。ひとひら、またひとひらと。
「おかあ、さん――?」
桜庭先輩が、驚いたように私を見た。桜庭先輩のお母さんの聲。でも、その聲の奥底の、深い深い水底に揺蕩う熱を、どうしたら伝えられるだろう。
『ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない――』
私にその答えを指し示すことはできない。だからせめてもに、そのたくさんの言葉の流れを止めることがないように。私はあちらの世界とのつながりとなる。
聲はどこまでも溢れ出て、降り積り、降り積り、水たまりを作っていく。降り積った言葉は、桜の花びらの海のよう。でもどうしたら。彼女の心を、どうしたら伝えられるのだろう。
――そうじゃない。
『ゆるさない、ゆるさない、ゆるさな、い……』
花弁が落ちるように。私は、水たまりにいくつかの波紋が広がるのに気づいた。気づけば赤い服の彼女の指先から侵入した熱は、身体をめぐり涙腺を伝い、頬を伝ってしずくとなって零れ落ちていた。言の葉の海に幾つもの波紋は生まれて、黄泉の大地は濡れていく。
――ああそうだ。
なんて言葉にしていいかなんて、きっと本人にだってわからない
彼女の聲が流れ混んでくる。病弱のため、夫の実家と不仲となり、離婚せざるを得なかったこと。桜庭先輩と会えない日、悪化する病状。裏切った実家。一人の世界。困窮。夫の死、娘に会えるようになったのに、満足に育てるお金もなく、そして、告げられた死期。
ゆるさないという言葉は、この世を呪う言葉だ。彼女の不幸、手に入れては離れていく幸せ、そして、やっと戻ってきた娘を育てられない事実と、自分の死期。
彼女は、確かに世界を呪っていた。許さない。この世界を呪って呪って呪い尽くして、でも無欲なままで、彼女は亡くなった。
――でも。
『ゆるさない、ゆるさない……ぜったい、ゆるさ……な……い……』
でも、それなら、なぜこんなにも涙が溢れるのだろう。
心の中を、思った通り、言葉通りに聲に出せる人なんて、ほんの一握りだ。発せられた言葉は独り歩きして、誰かに届いたとしてもその人がどう感じるかなんてわからない。それなら、どうやって心を伝えればいいのだろう。
その聲は、祈りに似ていた。聲は溢れて、深い深い深淵の水たまりを作った。その水たまりの波紋の上に、彼女と、桜庭先輩は立っていた。桜庭先輩も泣いていた。――ああなんだ。ちゃんと伝わっていたじゃないか。
「……ごめんなさい。お母さん。ごめ……ごめんなさい……。お母さん、私、本当は」
本当は、私の視界は涙に滲んでいて、正確な風景なんて、ほとんどわからなかった。でも、桜は降り積って、風は舞い踊っていて、波紋はとめどなく続いて、そこには見つめあう二人がいる。それは、最後の花びらだ。それは、祈りの言葉だった。
『ゆるさない。ゆる……さない』
それなら、少しだけ、正直になったっていいじゃないか。
許せないのは、この世界だ。許せないのは、自分自身だ。でも、そんな世界で一つだけ、願いが叶うとするならば。せめて。
こんな許せないことばっかりの、不幸しかない世の中で。でも、娘のあなただけは――
『……赦して』
ひとひらの風。
赤の衣が翻って、桜の花びらが視界をかき消した。その風は一瞬にして温度を連れ去り、奥山へ、そして月明かりの向こうへ運び去ってしまう。少し名残惜しい気がしたけれど、私はそっと手を放す。風は、どこまでもあの熱を連れ去って。
舞い散る花びらが収まったそのあと、そこには、泣きじゃくる桜庭先輩と、その体をぎゅっと抱きしめる柳沢先輩がいたのである。私は彼岸の熱を惜しむように花びらの一房が落ちたとも知れない、満開の桜を見上げていた。
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