chopinの手帳 8

 けいこと私の出会いは、高校の入学式のことだった。東京の高校に進学した私は、右も左もわからなくて、友達ができるのか、ちゃんと生活できるのか不安だった。でも、桜の舞い散る並木の下で、私に声をかけてくれたのがけいこだった。

 ――ねえ。一緒に行こうよ。 

それはまるで、十年来の友達のような親しさで。

――う、うん。

 

私は、差し出されたその手を取ったのだ。

 

 それから長い付き合いの中で、けいこの両親は亡くなっていることを知った。夫婦はすでに離婚していたようで、けいこは父方に引き取られていたようだ。でも、会社経営者だったお父さんは、多額の借金を抱えて、首を括って自殺してしまった。

 それからけいこは、母方に引き取られることになったのだけれど、母方の親族はお母さんだけで、しかも病気がちなため、満足にけいこの学費を出すこともできなかった。でも、けいこのお母さんは、自分に前夫より多額の生命保険がかけられているのを知っていた。だから、あの桜の木の下で、首を括って死ぬことで、娘に多額の遺産を残した。いつの日か自立する日まで、困ることがないように。

 けいこは母の死にさすがに落ち込んでしまったけれど、持ち前の明るさで立ち直り高校へ進学することとなった。

 そして、私と出会ったのだ。

 けいこは、お金には不自由していなかったけれど、お母さんが死んだ理由を知りたがっていた。だから、私は、あのとき、桜の木の下で自動筆記をしたのだ。

 お母さんが、けいこのことを愛していたということを伝えたかった。でも、私が書くことのできた筆記は、今と変わらない、あの内容だった。

 私は、けいこに自動筆記の内容を見せまいとした。でも、ダメだった。一面に埋め尽くされた『ゆるさない』の文字を見たけいこは、荒れに荒れた。けいこはきっと、お母さんの優しい言葉が聴きたかった。でも、彼女の望みは叶わなかった。そして私はけいこと疎遠になり、けいこは、大きな桜の木の下を通りかかる度、憎しみを込めた表情で睨み付けるようになった。

 ――あのとき、私は間違っていたのだろうか。自動筆記などせず、桜の木の下の彼女に気づかない振りをしていればよかったのだろうか。あるいは、自動筆記のことなどけいこに伝えず、秘密を抱えたままいられたら。そうすれば、今も友達同士でいられただろうか。


 けれど、それは、たらればの話だ。


 もうすっかり日も暮れて、あたりは闇に包まれていた。街灯のないこの桜並木では、十三夜の月から漏れ出でた明かりだけが唯一の光源のように思われた。

 ひらり、と、舞い落ちる花びらの軌跡をなぞり、私は空を振り仰ぐ。そこには、花びらのひとひらも落ちたとも思えぬ満開の桜が、見晴るかす彼方に広がっているのでした。


 ――思えば、けいこと出会ったのも、桜の満開の頃のこの道だ。波紋の一つもない湖面には、満開の桜が広く深く狂い咲く。


 私は、目を閉じてけいこを待つ。来てくれるだろうか。いまさら私のお願いを、彼女が聞いてくれるとは思えないけれど――


 ふうっと、風が動いた。気配のしたその方向を見遣ると、見慣れた姿、見慣れた制服が目に入る。短く刈り込んだ黒髪。スレンダーな体。白い肌。猫科の動物を思わせるような、鋭い眼差し。けいこが、そこには立っていた。


「……来てくれたのね」


 私は少しだけ安心して、彼女へ向き直った。彼女は厳しい表情で、私を睨みつけている。それは、仕方のないことかもしれない。私が、彼女の美しい世界を、彼女が信じていたものを壊してしまったから。


「いまさら、何の用? しかも、よりにもよってこの場所で……」


 この場所は、彼女のお母さんが、首を括って亡くなった場所。そして、私が彼女のお母さんの自動筆記をした場所。彼女の理想が壊れてしまった場所。――それは確かだ。でも。


「――あなたに、謝りたくて。それから」


 でもきっと、違う解もあったはずなのだ。


「そして、あなたにも、もう一度伝えたいことがあって」


 風が頬を撫でる。私は、長年来の思いを言葉にすると、月下のもと佇む彼女を見遣る。

 彼女は、悲しんでいるだろうか。怒っているだろうか。


「――いまさら、何? あたしに、何を伝えようなんて言うの――?」

「あたしに、また、あんな思いをしろっていうの!?」


 怒りを押し殺すようにして、けいこは言った。それは、確かに当然かもしれない。


「一度だけ、あなたにも言ったよね? あたしは、お母さんのことをほとんど知らないって。お父さんとお母さんは、あたしが小さいころに離婚して、それからあたしは、会社を経営していた父方に引き取られたって。お母さんが、どこかで生きていることは知っていたから、一度お母さんと会ってみたいって、思ってた。

そのうちに、お父さんが借金を苦に自殺して、あたしはお母さんのところに引き取られることになった。お母さんは病弱で、満足に働くことができず、身寄りもいなくて、あたしを養うお金なんてなかった。だからお母さんは、お父さんがお母さんに以前かけていた生命保険を頼って自殺したわ――。あたしの、ために」


 けいこは奥歯を噛み締める。それは悔しさの現れだ。自分が母の死期を早めてしまったかもしれないと思う、贖罪の。


「あたしは、お母さんと、きちんと話したことなんてなかった。お母さんの気持ちを知りたかった。でも、お母さんはそんな間もなく死んでしまったわ。一言、『ゆるして』とだけ、書置きと生命保険証書を残して」


 その書置きを見たとき、けいこは病室から飛び出して、母を探した。そして、この桜並木の下で、首を括って亡くなっている姿を見つけた。

 けいこは、お母さんがなぜ亡くなったのか、それが知りたくて、毎日この並木道を通ることのできる学校を選んだ。毎日この道をたどっていれば、お母さんと話すことができるかもしれないと思ったからだ。そして、私と出会った。私は自動筆記ができたから、その話を聞いたとき、けいこの力になりたいと思った。けいこの願いを少しでもかなえてあげられたら、と。


「あたしは、お母さんの言葉を知りたかった、でも、お母さんは、あんな言葉ばかり思い浮かべて死んでいったんでしょ? お母さんは、あたしを思って死んでいったんじゃない。世界を呪って死んでいったのよ。きっとあたしのことも、そう」


 そう言って、けいこは悲しそうに眼を伏せた。まるでそこにない、『ゆるさない』という言葉が一面に書かれた手帳を見るように。


「それなら、知らなければよかった。自動筆記なんて、頼まなきゃよかった。死んだ人の言葉なんて、知ろうとすべきじゃなかったの。そうすれば、お母さんはあたしの中で、綺麗なままでいられたのに。それなのに、いまさら何に向き合えっていうの? お母さんの言葉を、あたしはもう知っているのに!」


 彼女は叫んだ。それは怒りと悲しみと絶望と、寂しさと。そういったものが入り混じった、深い夜闇のような感情の発露。


「あたしはもう見たくない! この桜並木だって、もう来たくない! 早く卒業して、あたしは辛いことなんて忘れて、自由に一人で生きていくの! お父さんのことも、お母さんのことも、あんな人たちのことは全部忘れて!」


けいこの叫びは、夜闇を割き、木々の奥底の深淵に溶けていく。 


「だから、もう放っておいて!」

 



「それは嘘です。先輩」

 



 闇の中から、声がした。


 木々の奥底の深淵、月下の大樹の袂に、黒縁の眼鏡を外し、緑の黒髪を揺らす彼女が立っている。

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