chopinの手帳 7
その場所にたどり着いた頃には、もう空は夕暮れに染まっていた。
それは今朝、赤い服の女性を見た、あの井之頭公園公園の湖のほとりにある桜の下だ。
予想通り、その桜の袂に一人柳沢先輩は立っていた。「chopin」と印字された手帳を手に、心ここにあらず、まるで、自分の精神などどこかに行ってしまったかのように、一心に手帳を見つめ、ペンを動かしている。あれが柳沢先輩の自動筆記だ。
私は彼女の交信を邪魔しないように、背後に回り手帳を覗き込んだ。手帳には、一面に同じ言葉が記されている。
ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない――
何度も何度も、同じ言葉が綴られている。
それでも諦めず、一心不乱に、柳沢先輩は、ペンを動かしている。
それでも。
私は――。
「やめましょう。先輩」
私は、そっと先輩の手の甲を握り、ひとりでに走る筆を止めた。少しまた、同じ言葉を書こうとした後に、先輩の自動筆記は止まった。
「砂川……さん……?」
「……先輩は、ずるい」
私は、言葉を綴るのが、苦手だ。言葉なんて、嫌いだ。
だから先輩に対してだって、こんな暴言を吐いてしまうのだ。
「桜庭先輩に何かを伝えたいっていうのなら、まずは柳沢先輩がもっと正直になるべきじゃないですか? 私を利用して、本当に桜庭先輩が分かってくれるようなことが伝えられると思っているんですか……?」
「……砂川さん」
「先輩。先輩は、桜庭先輩と無二の親友だったんですよね?
そして、時間もあと一週間しかないんですよね?
なら、何かっこつけてるんですか? 背に腹はかえられないんでしょう?
その証拠に、先輩はそうやって、彼女の言葉を書き連ねているじゃないですか。
桜庭さんに伝える言葉を書き留めたくて!」
柳沢先輩の、肩が震えていた。そうだ。先輩の表情は見えないけれど、きっと、最初から――。
「先輩」
周囲は真っ赤な夕焼けだった。まるで燃えるような赤。それは――そう。彼女が着ていた服の色のよう。
「お願いが、あります」
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