chopinの手帳 6

 美術文芸部の部室を出ると、そろそろ日も傾いて、夕方へ向かう頃だった。あの後も説得されたのだけれど、私は柳沢先輩の頼みを断った。少し悪いことをしたかなと思う。

――でも。

 私には、私の生き方というものがある。この世ならざる者には極力関わらない。それは、とうの昔に決めたことだ。

 西日の差す廊下を見渡すと、曲り角のあたりに見慣れたツインテールの片方が見えた。あれは――。

「あんずちゃん……」

 私の声に反応して、片方の赤毛のツインテールがびくんと跳ねた。くるりと振り返って、ばつが悪そうに顔を覗かせる。私は安堵するとともに、急に嬉しくなった。心配して、待っていてくれたんだ。

「こ、こよりちゃん! 大丈夫だった!?」

 慌てたようなあんずちゃんの声に、私ははにかむような笑みを浮かべた。友達っていいものだと、本当に思う。

「うん。大丈夫だよ。一緒に帰ろう?」

 私たちは、部活棟を後にして、外に出た。あんずちゃんも今日は料理部が休みなようなので、そのまま一緒に帰ることにした。

「今日は散々だったね。占いでは、一位だったのに」

「そうだね。でもまあ、こういう日もあるよ」

 あんずちゃんは優しい。私の大事な友達だ。こんなときでも、私に気を遣ってくれる。

 そのあんずちゃんは、何か伝えたそうに、もじもじとしている。

「あんずちゃん、どうしたの?」

「あのねこよりちゃん。こんなこと、言ってもしかたないことなのかもしれないけど……」

 あんずちゃんは、意を決したように、話し出した。

「桜庭先輩がね、柳沢先輩の名前、口にしてたでしょ? だからね。私、料理部の先輩に桜庭先輩のことを聞いてみたの。どうしても気になって……」

 桜並木はとうに通り過ぎて、私たちは住宅街を歩いている。

「そしたらね、桜庭先輩と、柳沢先輩は、少し前までは一番の親友だったんだって」

 私は驚いた。柳沢先輩は、そんなこと一言も言っていなかったから。

「でも、桜庭先輩は、柳沢先輩につらく当たるようになったって。先輩も、どうしてそうなったのかは、わからないみたいだったけど……」

「どうして、そんなことになっちゃたのかな」

 なんだか悲しそうに、あんずちゃんは言った。彼女は優しいから。

 

――ああ。だから柳沢先輩は、あんなに悲しそうな顔をしたんだ。

『私は去年、あの女性の言葉を自動筆記したわ』

 そのとき、何かがあった、そして、傷ついてしまったんだ。柳沢先輩も。そして――桜庭先輩も。

『私にはどうしてもできなかったから、時間がなくて――』

 ああ、それなら、きっと柳沢先輩は、きっと――。

 でも、私には関係のないことだ。二人は、たった今日会ったばかりの人たちで、私には、全く、さっぱりこれっぽっちも関係ない。だから、あんずちゃんと帰ろう。大事な友達と。――私は。


 そのとき、ふっと、私の脳裏をあのときの景色がよぎる。


 どこまでも続く群青の、空と海との境界線、分水嶺が見渡す限りに続く果てしない青の世界の中、そこで 私は。

 私は、あのとき。

 大切なものを置いてきた。

 大切な、大切なものだったのに。私は。


「――こよりちゃん?」

 私は――。

「……ごめん。あんずちゃん」

 私は、そんな風に、柳沢先輩と桜庭先輩を、私達に重ねるのは、に嫌だ。


「私、用事を思い出しちゃった。ごめん、先に帰ってて!」


 そう言い放って、私は駆け出していた。もちろん、あの場所へ。


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