chopinの手帳 4
放課後、西の先輩から言われた通り、私は部活棟へ足を運んだ。あんずちゃんは、一緒に行こうかと言ってくれたけれど今回は断った。もちろん、怖いことは怖い。だけど。
『――でないと、あんたの秘密、お友達にばらすわよ』
と、あのとき、桜の下のベンチで、あんずちゃんに聞こえないようなすれ違いざまに耳元で、冷たくそんなことを言われたのだ。それだけは絶対に困る。あんずちゃんという友達を失うわけにはいかないから、それだけは絶対に避けなければいけない。
――怖いけど。
行かないといけない。この秘密がばれたら、もしかすると、また友達を失うかもしれない。それだけは、絶対に避けなければならないのだ。
くっと、眼鏡の位置を直す。見上げた先には、『美術文芸部』の室名札がある。ここだ。
私は深く息を吸った。中は明かりもついているし、人の気配もする。いつまでも臆していてもしょうがない。私は覚悟を決めて、部室の扉を開け放った。
「失礼しま――」
入ってすぐ、私は息を飲んだ。美術文芸部の中は、一面の本棚で、溢れんばかりの書物が溢れていて、いつのものなのかわからないようなアンティークみたいなものが沢山あって、そしてその奥の、窓際の椅子に、彼女は座っていたのである。
緑の黒髪、と形容するのは、古いだろうか。ストレートの長い髪を人差し指でいじりながら、その人は古い本を読んでいた。高校生にありえないような、今にも消えてしまいそうなはかなさ。整った目鼻立ち。華奢な体。一言で形容するなら、美人である。
今朝、桜の木の下であったはずの人。
私が思わずその美しさに見とれていると、その人はぱたん、と本を閉じ、私に向かって静かに微笑んだ。今にも消えそうな笑み――といえばいいのだろうか。私はやはりその笑みに見とれてしまって、この部屋に入るときの決心さえ、どこかへ行ってしまっていた。
「よくきてくれたわ。あなたが、砂川こよりさんね。あかりちゃんから、話は聞いているわ」
その瞳は奥底まで深く、まるで私の心の中を見渡しているかのように見えた。深く深く、でもどこか悲しみを湛えた濃黒の瞳。
「私は柳沢ことね。三年生よ。この美術文芸部の部長をしているわ」
「そしてあたしは、この部活の部員をしています」
書架の陰から、私をここに招いた張本人――。西之あかり先輩が姿を現わした。はにかみながら、すまなそうな笑みを浮かべ、指で頬を掻いている。あのときの冷たさは――ない。私は怪訝に思った。
「ごめんなさい。あかりちゃんが、怖がらせてしまったみたいで」
「ごめんね。でも、ああ言わないとここに来てくれないって思ったから……」
西之先輩は、舌をぺろりと出してもう一度、ごめんねと小さな声で言った。
「じゃ、じゃあ――」
あれが嘘だったというのなら、私の秘密は――。
「ううん。でも、あんたの秘密を知っているのは本当」
西之先輩は、にこりと笑った。まったく邪気のない、笑みで。そして、一枚の紙を私へと手渡した。これは――写真? 桜の?
「あんた、その写真に見覚えがあるんじゃない?」
白黒の写真だ。モノトーンの景色。白い桜の花びらが風に舞い、一面に降り積もっている。見晴るかす彼方は満開の桜。一目見るだけで、吸い込まれそうな美しい写真だ。
その中央、大きな桜の木の幹に、まるで流れる桜に身を任せるように、一人の女性が写っている。滴るような、ぼさぼさの、黒い長い髪。どこか古めかしく、汚れたような赤い服。赤い――服?
はっと、私は思い返した。そして写真を見返すと、赤い服なんてどこにもない。これは私の記憶だ。今朝の。
額に汗が浮かぶのが分かった。でも、拭ったりしたらばれてしまう。平静を装えるだろいうか。西之先輩に、言わないと。
「わ、私は――」
こんな人は知らない。
「あなたは、この世ならざるものを見ることができるひと」
あらぬ方向から、柳沢先輩は、貫くように私に言った。私の奥底まで見通してしまうような、漆黒の瞳。彼女はきっと、私がそれだけじゃないってことを知っている。
「そしてあなたは、死者の言葉を語ることができる」
やはり、ばれていた。
「砂川、という苗字でピンときたの。あなたの出身地は、たぶん。そして。」
「――やめてください」
確かに、砂川、という名字は珍しい。出身地も特定できるだろう。でも、だったら何だというのか。どうして見ず知らずの今会ったばかりのような人たちに、私の隠し事を暴かれて、しかも国まで話題にされなければいけないのか。
「私は見えるのも、喋れるのも嫌なんです。それを、どうして――」
そうだ。
彼女たちが、今朝の私の言葉を聞いていたとして、でも、それだけじゃあ、私が写真のあの女性を見て、写真のあの女性の言葉を話したなんてわからない。彼女たちにもあの姿を捉える手段があり、そしてあの言葉を知る術がない限りは。
私ははっとして、柳沢先輩を見た。
「驚かせてごめんなさい。私はあなたと同じ。
この世ならざるものを見ることができて――そして、書き留めるができるの」
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