episode2
担任の目だけを見つめて一時間目は終わった。
マスクで口元を隠したアカネが手を振りながら近づいてくる。少し上下するマスクが何かをアカネが言っていることを物語る。
「おはよう」か「久しぶり」か。はたまた全く違う言葉か。
私には判別がつかない。
どうしよう。
アカネはとうとう私の席の前まで来た。
何か言わないと。
アカネは空いていた私の前の席に座る。マスクが動いているので何かを喋っている。
『聞こえないの?』『可哀そう』
過去の声が急に戻ってきた。
違う。違う。アカネはそんなこと言ってない。
言ってない?
いや、言っているのかもしれない。
少なくともアカネは何も返してこない私を不審に思っているはずだ。
アカネの怪訝そうな目が私をとらえていた。
ぞわっと鳥肌が立った。
体温が一気に下がる。
私はアカネがした怪訝そうな目を知っている。
難聴になった私との距離感を図りかねている昔の友達と同じ目だ。その友達はその目をした後、他の子の元へ行き、私にはもう話しかけてこなくなった。
一旦、アカネから離れないと。
嫌な記憶が私の心を占領してしまう前に。
勢いよく私は教室を駆け出した。それしか方法が思いつかなかった。
気づかれたくない。アカネに『可哀そう』『面倒くさい』って思われたくない。
どうせ、アカネは私に追いつけない。足の速さでは私に軍配が上がるからだ。
そろそろチャイムがなる時間だ。真面目なアカネは私を追いかけることをやめて教室に戻るだろう。
チャイム音は私には聞こえない。私は言い訳を心の中で唱える。授業をサボることへの罪悪感を抱きながらも教室から離れた。
特に行先はなかった。誰もこない一人になれる場所ならどこでもいい。
歩みを進めると徐々に屋上に近づいていることに気が付いた。屋上は常に施錠されている。屋上に続く階段には誰もこないはずだ。
腕時計を見ると2時間目が始まったところだった。授業をさぼるなんて初めてだ。
いつも必死だった。
私が少しでも集中力を欠こうものなら一気に授業に置いていかれる。私は口の動きを見ない限り相手が何を言っているのかわからない。教師の話を聞きながらノートをとるといった高度なことは私にはできない。授業中に教師の話を頭に叩き込み、授業後アカネにノートを見せてもらう。これが私のルーティーンだった。
アカネは「どうして真面目に授業聞いてんのにノートとらないのよ」と不思議がりながらも笑ってくれていた。
しかし、これからもアカネはコミュニケーションをとるのに手間のかかる私にノートを見せてくれるのだろうか?
私がチームスポーツをしようものならチームメイトに迷惑がかかる。スポーツは大好きだったが、体育の授業では下手なフリをした。成績のために個人種目は頑張ったものの、チームスポーツの際は協調性がないよう思わせるため自分勝手に動いた。チームメイトが私を信頼しないように仕向けた。
アカネは「普段はめっちゃ人のこと見ているのにスポーツになると突然協調性なくなるの不思議すぎるんだけど」と苦笑いしながらもそれ以上は何も言わなかった。
しかし、本当の理由を知ったらどんな気持ちになるだろうか?
アカネが楽しそうに話してくれた絵の上手なお母さんの話。近所の人見知りの少年の話。
アカネともう楽しく話すことはできないのだろうか。
階段を上がる。目の前に扉があった。扉はどうせ施錠されている。
私が扉を背にして座りこもうとした時だった。急にバランスが崩れ、思わず目をつぶる。背中に衝撃が走ることを予感したものの痛みはない。おそるおそる目を開けると私をのぞきこむ男と目が合った。
『だいじょうぶ?』
男の口が動く。
振り返ると施錠されているはずの扉があいている。そして目があった男はマスクをしていなかった。
リュックを背負った彼のネクタイは私のリボンと同じ青色。どうやら同い年のようだ。
「どうしてマスクをしていないの?」
授業中に何しているの?どうやって屋上の扉を開けたの?
もっと色々聞くことはあったはずなのにマスクを着けていない理由をまず尋ねずにはいられなかった。
政府が言った。
「不要不急の外出は控えてください。外出の際はマスクを着けてください」
学校からも通達があった。
「生徒や教師の感染を防ぐためご登校の際はマスク必着でお願いします」
それだというのに彼はマスクをしていなかった。
彼は少し戸惑った様子を見せながらも答えた。
『みんながつけていたらおれひとりがつけていなくてもかわらないから』
うん。
「確かに。そうかも」
私はこころ躍った。
私は彼を連れて屋上に出た。彼は強引に手を引いた私を見て驚いた顔をしていた。
無人島だと思っていたところに人が急に現れた。そんな気分だった。
「私、リノ。君は?」
『コハク』
彼は私をじっと見つめたまま名乗った。私を観察しているようだ。制服は着崩さず、メイクも最低限の私は一見真面目で授業をさぼるような人間には見えないからだろう。
「コハク。リュックのファスナー閉まってないよ」
コハクのリュックのファスナーが全開なのが気になっていた。
私に指摘されたコハクがファスナーを閉めるためリュックを下すとリュックから中身が転がり落ちた。
国語や英語の教科書がバラバラと散らばる。
コハクは慌てて拾い始める。私も手伝おうと英語の教科書に手をのばしたら下から薄い本が出てきた。
「これ……」
私が声を漏らした瞬間、バッとコハクが私の手から本をさらった。
ちらりと見えたのは3匹のウサギのイラストが柔らかいタッチで描かれた絵本。装丁を見た感じ出版されているものではない。こどもが作ったにしては出来すぎているのでおそらく大人が趣味でつくったものだろう。
「これ、お手製の絵本だよね。誰にもらったの?」
年季のある表紙から彼はきっと毎日持ち歩いているのだろうと予想できた。きっと大切な人からの贈り物だろう。
『せんせい』
先生。彼のかつての担任だろうか。それとも恩師か。
「良い先生だね」
『べつに。はなさないし』
卒業式にクラスのみんなに担任がメッセージ入りの色紙を渡したりすることもあるらしいが色紙の代わりに絵本を渡すタイプの教師だったのか。
「それ、私も読んでみてもいい?」
彼を想って描かれたであろう物語に興味が沸いた。
私に茶化す気がないと悟った彼は素直に私に絵本を渡してくれる。
私はコハクからウサギのイラストが描かれた絵本を受け取った。
日本史の教科書よりもサイズが大きくて薄い絵本は見た目に反して少し重たかった。
真っ白なうさぎの中に一人だけいる灰色のうさぎ。灰色のうさぎは自分だけが他のうさぎと色が違うことを気にして、どうにか白うさぎに擬態しようと色々な方法を試みます。たんぽぽの真っ白な綿をかぶってみたり、白色の絵具で全身を白に塗ってみたりしました。しかし、どれも上手くいきません。そんな時に真っ白なうさぎに紛れて茶色のうさぎがいることに気がつきます。ずっと土と同化して気が付かなかったのです。茶色のうさぎも自分だけが色が違うことを気にしてわざと動かず土に同化していました。2匹は仲良くなります。そして2匹であらためて見ていみると白うさぎ達もしっぽが黒かったりみんな個性があることに気が付きます。そして勇気をもって話しかけると白うさぎ達は色なんて全く気にしていませんでした。それどころか、2匹と仲良くしたいと思っていたのです。それから2匹は体の色など全く気にせずみんなと楽しく遊ぶようになりました。
話の内容は思ったより良かったというか私に刺さった。
私はコハクに絵本を返した。
「良い絵本だね。なんか感動しちゃった」
ただひとつ私には気になる点があった。
「ねぇ、コハク。ここ見て」
私は1ページの灰色のうさぎを指さす。
灰色のうさぎの手は顔の下、普通なら書かれない場所にある。
「先生めっちゃ絵が上手いなって思ったんだけど、うさぎの手、おかしくない?コハクは感じなかった?」
気づけ!
私は願った。
うさぎには指が5本ある。絵の上手さによって多少緩和されているものの違和感は満載だ。
うさぎは指文字をしているのだ。
「なかよくなろうよ」
うさぎはそう伝えていた。
この物語を読み始めた時はコハクも難聴なのかと思った。しかしコハクはマスクをして話している私と会話ができている。つまり彼は間違いなく健聴者だ。
じゃあ、誰のための手話なのか。先ほど彼は絵本をもらった教師のことを「はなさないけど」と言った。つまり彼はこの絵本をくれた教師とは話していない。いや、話せないのではないだろうか。手話を知らない限り健聴者はろう者と話せない。
この絵本は教師からコハクへのプレゼント。言い換えれば教師がコハクに伝えたかったこと。
つまり
『それはこのえほんをもらったときから、ずっとかんじていたんだ。でもせんせいにきいてもおしえてくれなくて』
「手で何かを表すっていったら手話とかしか思いつかないや。でも手話って手の動きが大事なんだよね?」
私は自らがろう者であることがばれないように指文字であることを知らないフリをしながらコハクを誘導していく。
『ちょっとしらべてみるか』
コハクがスマホをポケットから取り出した。
『ゆびもじってやつなのかな』
「指文字でなんて書いてある?」
『えっと……』
全て読めるが私はあえてわからないふりをしてコハクがスマホで検索しているのを眺めていた。
一通り手話の解読を終えたコハクが顔を上げる。
そして発されたコハクからのひとことに私は耳を、いや、目を疑った。
『リノって、くちのうごきよんでいる?』
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