君の声は聞こえる
虹都れいん
episode1
教室のドアを開けた。
そこはもう私が知っている世界ではなかった。
未知の感染症が世間を賑わせ始めて4ヶ月。政府が慌てて出したであろう緊急事態宣言の緩和が先日発表され、3ヶ月遅れの高校2年生が幕を開けた。
クラス替えのない学校のため例年通り新学期でも変わらない風景が広がっている予定だった。
見渡す限りみんなマスクを着けていて、誰の口元も見えない。
私の友達であるアカネはまだ来ていないようだ。
黒板に張り出された座席表を見て自分の席に座る。
8時30分ぎりぎりにアカネは教室に駆け込んできた。私と目が合うと手を振ってくれた。私が振り返すと教壇にはマスクで口元を隠した男の教師がたっていた。
男の教師は無言のままほとんど動かない。目は笑っている。
私はちらっと周りのクラスメイトの様子をうかがった。
みんな真面目に時より少しうなずきながら教師の方を見ている。
5分ほど経った時、無言のままの教師に向かってクラスメイトは手をたたいた。
……何も聞こえない。
私は突発性難聴を患っている。かれこれ5年ほど人の声が聞こえていない。たまにピーという無機質な機械音が耳の奥でこだまするだけだ。
5年前。小学6年生の夏。
『普通にしゃべれないってこと?』
『手話とか分からないし、いちいち筆談しなきゃいけないとか面倒くさっ』
仲が良かったはずのクラスメイトの言葉。
『可哀そう』
お母さんのママ友がお母さんに言った言葉。その日の夜、お母さんが泣いているのを見た。
「私は可哀そうじゃないし面倒くさくもない。聞こえなくなっても私は耳が聞こえるのと同じように生活できるから」
目を腫らしたお母さんに私は宣言した。
泣いている暇などなかった。理不尽だ、なんて言っていられない。
あんな言葉で私は私を傷つけたくない。
必死に読唇術を学んだ。幸い音は知っていたし動体視力もよかったし習得することが出来た。
中学は地元を離れ、中高一貫の私立に進んだ。私の難聴が知られていない場所で偏見のない学校に行きたかった。
学校ではまず事情を知る教師を口止めした。クラスでは関わる人を厳選し、あえてぼんやりとした不思議ちゃんを演じた。こうすることで多少会話が成り立っていなくても疑問には思われなかった。
またクラス替えもない学校なので一度友達を作れば新たに作る必要がないのもありがたかった。
努力の甲斐あってクラスのみんなは私が難聴だとは夢にも思っていないに違いない。
アカネですら私の難聴に気が付いていないだろう。
ずっと隠し通すつもりだった。友達から『面倒くさい子』、大人から『可哀そうな子』と思われるのは嫌だった。
しかし、マスクが半場強引に強制された世界では読唇術は全くと言っていいほど役に立たない。
聞こえない。わからない。
わずか数か月の間に私は4年かけて必死に作りあげてきたこの世界から拒絶されてしまったのだ。
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