其之一 王族果てる

 五行ごぎょう思想は古代王朝「」の創始者であるが発案したものだとされる。

 万物は木・火・土・金・水という五つの元素により成り立ち、存在するとするものである。後に戦国時代の斉の陰陽家・騶衍すうえんが五行思想と陰陽思想を統合して、天地、宇宙、世の中のあらゆる原理がこの五元素の循環によって成り立っていると説いた。

 この観念を〝陰陽五行説〟という。

 秦漢の時代になると、この五行循環の順序を巡って二通りの理論が生まれた。

 一つは〝五行相克そうこく説〟といい、元素の優劣によって循環を示したものである。

 木は土上に育つので土に勝ち、土は水を染み込ませて取り込むので水に勝ち、水は火を消すので火に勝ち、火は金を溶かすので金に勝ち、金属は木を切り倒すので木に勝つという考え方で、 その循環は木→金→火→水→土→木……となる。

 もう一つは〝五行相生そうしょう説〟といい、これは元素の生成順を循環に当てはめたものだ。

 木が燃えて火が生まれ、灰は土となり、土中に金属を生じ、やがて水が湧きだし、木を育てるという考え方で、木→火→土→金→水→木……の循環になる。

 そして、いつしか五行の循環は王朝の栄衰にまで関与すると考えられるようになり、漢王朝は火徳であるという認識が一般的であった。また、これら五元素にはそれぞれ色や方位などが割り当てられ、学説の深みが増すとともに解釈が難解になっていった。

黄土こうど青木せいぼく白金はっきん赤火せっか黒水こくすいか……』

 曹操そうそうは都の曹家の屋敷に戻って、また書物を読みあさっていた。今度は五行説関係の本である。

『青木珠と黒水珠を王甫おうほが持っている……』

 それは、一時的な協力関係にある政敵・曹節そうせつから得た情報である。

『王甫・王吉おうきつの術は恐らく青木珠の力によるものだ。王甫も五行説のことを研究していて王吉をよこしたのだろう。相克説が真理なら、天運は向こうにあったはず。だが、オレは勝った……』

 五仙珠に天運をもたらす神秘の力があるのだとすれば、しょうでの顛末てんまつを単なる勝敗の結果として片付けるには納得がいかなくなる。相生説では説明がつかないし、相克説には矛盾むじゅんする。明確な理由が欲しかった。

 王甫も悟っていないであろう勝利の理由。曹操は黄土珠を見ながら、昼夜考えた。

『勝敗を決するに、何か他の要素があるのか。あるいは、全く関係ないのか……』

 この答えに辿たどり着かない限り、王甫との決戦に臨んで勝てるかどうかの確証を得られない。

 王智・王吉を殺し、長安では王甫の一党を捕えてある。王甫を追い込んだ状況ではあるが、最終的な天佑がどちらに味方するか分からない。相手は二つの仙珠をようしている。確実に王甫を滅ぼすには、仙珠の持つ人智を超えた力の秘密とその原理について理解を深め、少しでも多くの運を引き寄せるために動かなければならない。

 それができるかどうかで勝敗が決まるような気がする。曹操の鋭敏な直感がそう訴えるのだ。

 屋敷には惇と淵の夏侯兄弟がいて、常に曹操を守っていた。実は従兄弟いとこであるが、夏侯淵かこうえん夏侯惇かこうとんを〝惇兄とんにい〟と呼んで、兄弟のような仲である。

大長秋だいちょうしゅう様の墓を掘り返したのか。そいつはひどい」

 夏侯惇は弟の報告に眉をひそめながらも、愉快そうに聞いていた。

「私はあの後、傷を負うわ、王吉殺しの下手人として拘束されるわ、散々でしたよ……。まぁ、確かにったのは自分ですから、それには文句はないですがね……」

 夏侯淵は王吉の死体をさらした後、はい県尉けんいの兵に逮捕されてしまった。負傷していたが、戦って逃げきることぐらいはできた。だが、王吉とは関係のない兵士たちを殺すわけにはいかず、それ以上騒ぎを大きくしないためにおとなしく拘束されたのだ。

 それを知った曹操がすぐに助け出して、再び己の力となってもらうために洛陽に連れてきた。

「惇兄の方は王甫の弟を殺ったそうですね」

「殺ったのは俺じゃないがな。百鬼の化け物野郎に妙な術ときた。世の中どうなってる?」

「譙でも王吉が妖術を使いました。仙珠という宝珠が関係しているようですが……」

「大兄に付いていくなら、これが当たり前になるかもな。覚悟がいるぞ。王吉と王智おうちが死んだとなれば、王甫が黙ってはいないだろう」

「相手が誰だろうと、怖くはありません」

 夏侯淵が平然と言った。武勇の自信と曹操への絶対的信頼。

「ああ、普通に生きるよりは余程刺激的だな」

 夏侯惇も曹操のために命を捨てる覚悟は決めてある。夏侯兄弟の豪勇は王甫と対峙するのに、大きな力だ。相手の妖術と同じくらい、いや、それ以上に頼りになる力だ。ただ、知恵や知識で曹操とまともに話せるのは一族にもいない。それが思索の大海原を延々と一人旅させる。誰もいない部屋で思考を天地宇宙に巡らせる曹操。

『神仙のことわりか……? あの于吉うきつという方士なら、分かるのか?』

 それは世の中の真理を追究するようなものだった。所詮しょせん、人が解けるような問題ではないのかもしれない。それでも、理解しようとするその姿勢が不思議な導きをもたらす。

 黒気の龍と闘った時、方士か誰か分からないが、声が聞こえたのを思い出した。

 曹操はふと剣を抜いてみた。妖術を破った霊剣、倚天いてんの剣。それが、また白い気を発してかすかに光った。

「……分かったぞ」

 曹操が剣を振って、その剣先を黄土珠に向けた。


 曹操は橋玄きょうげんに招かれて、その屋敷をおとなっていた。この時、橋玄は「三公」の太尉たいいの職に就いていて、居を洛陽に構えていた。

 官職のトップの地位にありながら、質素倹約を良しとする橋玄の屋敷は城内にではなく、太学たいがく近くの城外にあった。飾り気の一切ない部屋には、他にも盧植ろしょく馬日磾ばじつていそろっていた。王甫を破滅させるプランを最終確認するためだ。

 四人がささやかではあるが、一足早い祝宴をあげていた。

「――――そなたこそ混乱の今の世を救える人物だ」

 橋玄はかつて、そう曹操の俊才を評した。それがこのように見事に身を結び、感慨深さもひとしおだった。酒を満たしたさかずきを上げて、屋敷の主・橋玄が音頭おんどを取る。

「最初にそなたを評した儂も鼻が高い。曹孟徳そうもうとくの鬼謀に乾杯」

 四人が口々に乾杯と言って、その酒を飲み干す。

智侯ちこうも無事救出されたと言うし、めでたい酒じゃ」

 曹操から蔡邕さいようを無事王智の魔手から救い出したと聞いて、盧植も馬日磾も喜んだものだ。

「百鬼事件の時から、そなたの才能に群を抜いたものを感じておったが、さすがじゃの」

「私の力だけではありません。玄徳げんとくもよくやってくれました」

 それは弟子思いの盧植の酒を一層旨くさせる一言だった。

「あやつは一目見た時から何か他の者とは違うものを感じたもんじゃ。困ったことに、勉学はおろそかじゃったが……」

 酒の入った盧植の歓談がしばらく続き、それが一段落したところで、

「……これで予言の文句も残されたところ、あと一つとなりました」

 計画の中心となって動いた曹操が話を切り出した。

「王智の悪行の証拠を鄧幷州とうへいしゅうがまとめています。王智が鮮卑討伐軍の敗因を作ったことがおおやけになれば、陛下とてこれを許すわけにはいきますまい。これは最大の決め手です。沛相の王吉の虐殺ぶりは有名ですから、これもまた大きな一打となるでしょう。京兆尹けいちょういんでは王甫の一党が不法蓄財で拘留中です。この三つをすぐにでも、同時告発します」

「そうかそうか。いよいよ総仕上げじゃな。鬼の仕置きが見物じゃ」

 盧植が太腿ふとももを叩いて言った。この場合の鬼とは、敵と見なした者には情け容赦ない、酷史こくり陽球ようきゅうのことである。

「曹節には王甫を弁護しない約束を取り付けてあります。王甫はもう逃げられません」

「ようやく王族を除くことができるか」

 馬日磾がその万全たる計画を聞いて、安堵あんどするように言った。

「その前にあと一波乱ありそうです」

「どういうことか?」

 橋玄が尋ねた。

「王甫は追い詰められたことを感付いているはず。残された道は一か八かのけに出ることです」

「その賭けとは?」

「これです」

 曹操がふところから伝説の宝珠を出した。

「それは……」

「五仙珠の一つ、黄土珠です。どこで手に入れたかは言えませんが……」

 橋玄、盧植、馬日磾がそれぞれ目を見開いて、それを凝視ぎょうしした。

 淡く発光していた地下墓地の時とは違い、黄砂のようなくすんだ黄土色おうどいろの陰気が砂嵐のようにたまの内部で激しく舞っている。何か危機が迫っているのを訴えているようにも見える。

「五行説というのがあります。黄色が示す方角というのは……」

「中央か」

 五行説を知る馬日磾が言い、ある可能性に気付いた。

「洛陽はまさに国の中心。ここで黄土珠を奪い、その天運が味方したら、どうなるか分からないということか」

「ええ。王甫もそう考えているでしょう。都に戻って以来、常に私の動向を探っています。この会談も外で監視されていますよ」

 洛陽城内で事を起こすには目立ち過ぎる。橋玄の屋敷は城外にある上、私兵もいない。事を図るとしたら、都合つごうがいい。この時をみすみす逃がしはしないだろう。

「儂の屋敷には護衛がおらん。押し入ってきたら、どうするのだ?」

 質素倹約に努める橋玄が自分の屋敷の警備の弱さを指摘した。

「捕らえて四つ目の決め手と致します」

 夏侯兄弟が堂外を見張っている。曹操を呼ぶ声が聞こえた。

「狙いはこれと私の命でしょうが、皆様方は念のため、奥に下がっていてください」

 曹操が杯の酒を飲み干し、黄土珠をふところに入れて立ち上がった。

「そなた、今日の事態を予見していたのか?」

 橋玄が驚いた風に尋ねた。

「宦官の孫だからでしょうか、宦者の考えていることがよく分かるようです。宦者というものは陰気を内に含み、陰湿を好み、陰謀を講じて動くことを習性としています。人知れず、事をそうとするなら、今日を置いて他はありません。……全く好まれざる客ですが、王族最後の悪あがきです。相手をしてやるのも悪くないでしょう。まぁ、うたげの余興くらいに思ってください」

 曹操は泰然自若たいぜんじじゃくとして言い放つと、杯を置いて立ち上がった。


 夏侯惇が槍を片手に、白昼堂々押し入ってきた百人ほどの闖入者ちんにゅうしゃを前に余裕綽々しゃくしゃくだった。いずれも民間人に偽装して橋玄邸の周囲に待機していた王甫の傭兵である。

「普通の人間なら、少し拍子ひょうし抜けだな」

 化け物相手の戦いに慣れ過ぎていて、ただそれだけ言って、敵兵が襲いかかってくるというのに、槍を構えようともしない。夏侯惇の前に辿り着くまでに、五人が矢を浴びて倒れた。

 夏侯淵が弓から剣に持ち替える。それに合わせるように、夏侯惇もようやく首を回し、槍の柄を地面にトントンと打ち付けて、戦闘態勢に入った。夏侯淵が剣を振るって、押し寄せる敵を容赦なく斬って捨てる。夏侯惇も傭兵たちを豪快に突き伏せ、この豪勇の兄弟を相手にしては、百人程度の傭兵では数分も持たなかった。

 曹操はそれを尻目に屋敷の前庭へ歩み出て、傭兵たちが全滅したのを見て叫んだ。

「王甫よ、お前の命運はここにあるぞ。これが欲しければ、こそこそせずに出て来い!」

 曹操が黄土珠を片手に示した。崖っぷちに立たされた濁流の首魁は、最後まで欲深さを見せて、ついに姿を現した。

 門から入ってきたのは、悪しき老臭ろうしゅうを漂わせる腐者ふしゃ。王甫。陳蕃ちんばん竇武とうぶを殺し、散々に世を乱し、自己の欲望実現のみに生きることに終始した悪の権化ごんげ

元譲げんじょう妙才みょうさい、手を出すなよ」

 曹操が夏侯兄弟に命じた。それを陰険な目つきで傭兵の全滅を見届けた王甫は養子の王萌おうぼうともなってゆっくりと曹操の前へ姿を現した。

 王萌は父の権勢をバックに永楽少府えいらくしょうふ(皇太后の宮廷雑務を行う)の職にある。前庭の中央で曹操と王甫親子が対峙する。

「……よくも私をここまで追い詰めてくれた。おとなしくそれを寄こさねば、子々孫々ししそんそん後悔することになるぞ」

 冷笑を浮かべて言う王甫にはまだ勝算があった。だから、曹操の前に姿を見せたのだ。

 宮中の時とは状況が違う。あの時はどういうわけか術が通用しなかった。しかし。

 黄土珠と青木珠。その力関係は自分の青木珠に優勢なはずなのだ。天運はまだ自分にある。王吉は手元に青木珠がなく、その術の霊力が不十分だったのだろう。

 曹操はこの仙珠の力関係を知らないに違いない。自分が不利だとも悟らずに、黄土珠を携えて、大宦官の自分に楯突こうとしている――――。

「ここで自決して、あの世で竇将軍や陳太傅たいふびると言うなら、三族を滅ぼすだけで済ませてやる」

 陳逸ちんいつの救出以来清流派の側に立つ曹操は、王甫の最後の恫喝どうかつなど一切聞く耳を持たず、逆に恫喝の口舌で誅殺を加えようとした。

 宮中での出来事が思い出される。王吉と王智を殺しておきながら、なお、その態度は不遜を極めるのか。愚かな男だと思いながらも、王甫の内なる怒りが頂点に達する。

「どこまでも、この私を愚弄ぐろうしおって!」

 王甫が蛇のような目つきをして、体から発せられた陰気が伸び、幾多の蛇を形作った。それがそれぞれ曹操に毒牙をいたが、どれもが曹操の剣に斬り払われて消えていった。

「いったい、なぜじゃ?」

 王甫は術が破られて自失した王吉のように、頭を混乱させた。自分の術が通用しない。長年かけて築き上げた地位。万全であったはずの地位がたった一人の男によって破綻はたんしようとしている。天運は自分の頭上にあったはずなのに……。

「死にゆくお前が知る必要はない」

 曹操の理解は王甫の上を行っていた。

 五仙珠の力関係は何も五行相克説だけで説明できるものではないのだ。相生説では土から金が生じる。つまり、黄土珠が白金に力を与えたのは、五行相生の効果なのだ。霊力を失っていた倚天の剣は黄土珠を得た瞬間に、その力を取り戻した。

 そして、曹操は気付いた。この倚天の剣が白金珠の力を帯びた霊剣であることを。

 相克説では、白金珠は青木珠に勝つ。相克説・相生説その両方で説かれる力関係が作用するということなのだ。王甫はそれに気付いていない。

 だが、相手は老獪ろうかい狡猾こうかつな王甫だけに、一筋縄ではいかなかった。まだ陰湿な奥の手を残していた。

飛燕ひえん!」

 王萌に名を呼ばれた黒装束くろしょうぞくの男が幼い少女を抱えて、屋敷の奥の高楼に一跳躍で飛び乗った。そして、短刀をその首筋に押し当てる。

「百鬼の奴か!」

 曹操は黒装束の男の俊敏な動きとその跳躍力で、それが以前取り逃がした百鬼の男だと気付いた。曹操が王甫を激しくにらみつけた。王甫のもう一人の養子、死んだ王吉はかつて洛陽東部尉とうぶいの職にあり、父の意向を受けて、この百鬼の男をわざと取り逃がしたのだ。

 今、それがこのような卑劣な事態を引き起こす。王甫は得意の陰湿な手段で、形勢を逆転しようとした。

卑怯ひきょうじゃぞ!」

 憤激する盧植のかたわらで、怒りで肩を震わす橋玄の姿が曹操の視界に入った。

『橋公のご息女か……』     

 曹操はそれを察した。人質の少女は橋玄の孫娘だった。同時に夏侯淵に目配めくばせをした。夏侯淵が誰にも気付かれぬよう、屋敷の裏へ消える。夏侯惇はじりじりと王甫と王萌の脇へと回り込む。

「腐者は考え方がとことん腐っているな」

 曹操が王甫の卑劣さをあざけりの言葉でもって斬り捨てた。

「何とでも言うがよいわ。人質を殺されたくなければ、その仙珠をこちらによこせ」

 しかし、王甫はなりふり構わず、目的を達するつもりだ。王萌が受け取ろうと近寄る。

「孟徳よ、決して渡すでないぞ」

 答えたのは、人質の親である橋玄本人だった。

「天下の大事と私の小事では比ぶるまでもない。一子の命を以って国賊を許すでない」

 孫娘の哀れな姿に顔を背け、悲鳴に耳を塞ぎ、義を見据える。その先に曹操がいた。自分がこの世を救う者と評価したその男に命運を託す。これが運命なのだ。

 曹操をにらみつけるかのようなその双眸そうぼうは悲痛で充血しながらも、その言は重く、力強く、威厳に満ちていた。

 橋玄は若い頃から悪を憎み、長年要職を務めて、悪事を行った者は貴賓きひんであろうと権力者であろうと容赦なく弾劾し、厳罰で臨んだ。孫娘が人質に取られるこのに及んでも、その人格はいささかも揺らぐことなく、毅然とした態度で天下に規範を示した。

 王甫の卑劣な手段は清流の厳格者、橋玄には通じなかった。

「分かりました」

 曹操はその意をんで、簡潔に、冷徹に答えた。

 この事態を長引かせて、橋玄と娘を苦しめるより、すぐに終わらせてやるのが仁義だ。すばしこいのが取りの百鬼の男は愚かにも人質を抱えて留まったままだ。曹操は無言で剣先を高楼に陣取る百鬼の男に向けた。

 ヒュン!

 屋敷の影から放たれた鋭い矢が風を切り、百鬼の男の肩口を捉えた。

 後ろにのけぞった拍子に百鬼の男が娘を放し、そのはずみで少女は高楼の高みから落下した。それは橋玄の目にスローモーションのように映った。愛する孫娘の死。

……それは訪れなかった。第二射で放たれた矢が、地面に叩きつけられる寸前の少女の着物を貫き、そのまま背後の柱に突き刺さった。体重の軽い女児であったことが幸いした。

 少女の体は地面に打ち付けられることなく、宙ぶらりんになって、命を拾った。

 夏侯淵が駆け寄って、その子を抱き下ろす。

「どうにも天運があるようだ」

 曹操の言葉は橋玄に向けられたものか、王甫に向けられたものか。それとも、自分に言い聞かせたものか。そして、高楼を指していた剣先をゆっくりと王甫の間抜け面へと下ろす。お前の悪運もこれまでだ。

「ばかな!」

 王甫はまた陰気の蛇を生み出して抵抗を試みたが、倚天の剣がそれをことごとく斬り捨てて、曹操の足が一歩また一歩と王甫に近付く。

「うぐ……」

「父上……」

 曹操の冷徹な目に慈悲の色はどこにもなかった。王甫親子がたじろぐ。

「どうなるか試したことはないが……!」

 追い詰められた王甫が最後の手段に出た。青木珠だけでなく、黒水珠も取り出す。

 青木珠が駄目ならば、黒水珠の妖術で対抗しようというのだ。

『……!』

 曹操がそれを危ぶむ。水は木に力を与える。

「妙才!」

 意を受けた夏侯淵が放った矢が王甫の左腕を射抜いた。黒水珠がその手から零れ落ちる。それを拾ったのは王甫でも曹操でもなく、素早い百鬼の男だった。天運がその男に思わぬ形で転がり込む。

「よこせ!」

 王甫が叫んだ。が、百鬼の男はそれを無視して、何を思ったか黒水珠をふところにしまった。

「きさま、裏切るのか!」

「裏切ったのはお前の方だ」

 百鬼の男が初めて言葉を発した。それは王甫に対する反逆の言葉だった。

 夏侯淵がまた矢を放ったが、それは俊敏な動きでかわされた。そして、百鬼の男は圧倒的な跳躍力を見せて、壁の向こうへ逃げ去って行った。

……またもや逃がしたか。曹操はくちびるを噛みながらも、王甫に振り返った。

「命が惜しかったら、お前の持っている仙珠を渡せ」

 曹操が王甫の喉元に剣を突き付けて言った。王甫が敗北を悟って、震える手でそれを差し出した。夏侯惇がそれを奪い取る。ちょうどその時、屋敷の外に一部隊が到着した。司隷校尉しれいこうい陽球ようきゅうに率いられた兵団だ。

「これで、お前の悪運は尽きたな」

 曹操が悪党人生の終わりを冷淡に告げた。王甫と王萌ががくりとこうべを垂れた。長年君臨した清流の大敵を曹操はその知謀と胆力によって打ち破った。

 孫を無事に取り戻し、その顛末を見た橋玄が唸って、また曹操を評価する一言を言った。

「まさに超世の傑物けつぶつなり」

 

 曹操が命を奪うことはなかったものの、暴虐を図った王甫・王萌は司隷校尉・陽球に捕縛されて連行された。理由はどうであれ、太尉の屋敷を襲撃したのだから、言い逃れはできない。そのままただちに投獄されて、陽球自らの尋問を受けた。いや、尋問ではなく、拷問ごうもんに近い。

「――――もし、この陽球が司隷とならば、王甫・曹節を赦すことは断じてないぞ」

 先にそう豪語していた陽球は念願叶って、司隷校尉となり、王甫を捕えたのだ。

 それが曹操のはかりごとで、清流派たちの援助があって実現したものとはつゆ知らず、酷史の陽球はその本分を発揮して、有言実行、すい(竹のむち)で憎き王甫親子を散々に打ちすえた。

「国賊め、何とか言ってみろ!」

 苦痛にたまりかねた王萌が言う。王甫はもう息も絶え絶えだ。

「……我等親子はまさにちゅうに伏すべきかもしれないが、もう少し老父に手加減してくれてもいいではないか」

 陽球はそれを聞いて、顔を真っ赤にして王萌の顔面を蹴り飛ばした。

「お前ら一族の罪状は数えきれないぐらいで、それをあがなうのには死でさえ生ぬるいというのに、容赦しろとは、この期に及んで何様のつもりか!」

 幷州から王智の、沛国から王吉の、京兆から王翹おうぎょうの罪状がそれぞれ届けられた。

 自分で何か言えと言ったのに、陽球は土を王甫親子の口に押し込んでそれを塞ぐと、さらに力を込めて二人を打ちすえた。口元に狂気の笑みを浮かべて。立場が違うだけで、そのしょうは王吉と似たりよったりだ。

 悪党の末路は悲惨なものと相場は決まっている。二人は陽球によって箠殺すいさつされて果てた。

 しかし、それだけで満足しないのが陽球である。王甫のしかばねを洛陽の夏門かもんはりつけにしてるし、〝逆臣王甫〟と札を立てた。大いに民衆に王甫誅殺をアピールしたのだ。王甫一族の横暴は天下の知るところであったため、それを見た者は喝采かっさいして喜んだ。陽球は自分が褒め称えられているようで気持ちいい。さらに王甫の一党に追求の手を伸ばす。そして、これに引っ掛かったのが段熲だんけいである。

 段熲は兵を率いれば、天下に名だたる名将であったが、保身に走って王甫に近付いたためにわざわいを引き寄せてしまった。身の処し方を誤った者の結末もまた哀れである。段熲は投獄されたが、王甫のように拷問死するのを嫌って、服毒自殺した。

 調子に乗った陽球は次なるターゲットに狙いを定め、今度は曹節の番だと息巻いた。

 曹操に協力してライバルの王甫を葬り去った曹節であったが、陽球に危機感を感じて、皇帝に進言した。

「陽球はもとより暴虐のです。このまま司隷校尉として置いておけば、無闇に多くの人間を殺してしまいます」

 この結果、陽球は衛尉えいいに遷された。かつて蔡邕の叔父・蔡質さいしつが務めていた宮中護衛の任である。ともあれ、王族が滅びたことで、対立関係にあった宋氏そうしやそれに連座した曹氏の罪は晴れた。同時に恩赦が発令され、蔡邕の罪も消滅したのだった。

 時に、光和こうわ二(一七九)年、四月のことであった。

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