其之二 玄武坤禅
広い
五岳や各地の名山、名湖などパワー・スポットの間には〝
また、それらの龍脈上に建設された都市・
「――――おそらく風水に達した者が進言したのであろうな」
蔡邕はそうも語った。
幷州東部を流れる最大河川は
そして、晋陽も蔡邕一家が一時的に
当代随一と
ちょうど蔡邕は郭泰を
五原での流刑生活では音楽を
「よかったですね、
「うむ、十回忌に良い報告ができた。
「恩赦があったとはいえ、安心はできません。
王允が忠告に蔡邕が
「旅をするのにもよい季節になってきた。時期も近付いてきたことだし、そろそろ
蔡邕が出発を決断して、一行が再び歩みを南へ向けた。王允がまた一行を先導した。汾水沿いを下り、新緑に包まれた深い山中を横切って河水に出る。その内に地響きのような音が聞こえてきた。それは
「あれは三里(約一.二キロメートル)先の河水の音だ」
劉備や
一行はそのまま音が発せられる方へ進み、ようやく
壺口。別名を〝
河岸に突き出て
「
蔡邕が独り言のように言った。北瀆とは北の河川のことで、それは河水(黄河)を意味する。しかし、その祭殿は神器が行方不明になって久しく、人の管理を離れて長い間放置されていたせいで、まるで廃墟のような印象だった。
蔡邕が何かを言った。しかし、その声は滝の轟音に勝てず、かき消されてしまった。劉備が耳を近づけて尋ねた。
「玄徳、下まで行って河水を汲んできてはくれまいか」
「
蔡邕の言いつけで劉備と
「もう護衛の必要はなくなった。君の武勇でいろいろと助かった。
劉備が河水の水を小さな革袋に汲む間、長生は傷口を洗って、回復具合を確かめている。
「かすり傷です。ご覧のとおり、傷も塞がりました。もうその必要はありません」
長生が太い腕に受けた大きな傷跡を見せて言った。
「それに、まだ半年契約期間が残っています。お尋ね者の私は当分故郷に戻れませんし、すでに両親もなく、行く宛てもありませんから、このままあなたに御一緒したい」
「分かった。君と一緒なら、何をするにしても心強い。これからもよろしく頼む」
「こちらこそ。信義の
長い月日を共に過ごし、五原では命を賭けて戦った。すでに劉備と関羽は固い信義で結ばれている。河水のほとりで友となった二人は再び崖を上って、蔡邕に革袋を渡した。
「ご苦労だったな」
それを受け取った蔡邕は祭壇の上に置いた
「先生、書く物が何もありませんが……」
劉備が顔を近付けて蔡邕に忠告したが、その必要はなかった。
「見ておれ」
何を思ったか、蔡邕は打ち捨てられていた祭壇の上で筆を走らせた。
「これは?」
「〝
蔡邕はそう説明した。一種の魔方陣だ。そうして下準備を整えた後、蔡邕は祭壇に筝を置いて精神を統一すると、静かに弦を弾き、音を
蔡家の女子たちは祭殿の外で待っていたが、よちよち歩き回っていた蔡琰は聞こえてきた筝の音に聞き入るように立ち止まると、それに合わせて歌うように声を出す。
「父上と同じように音楽の才能があるのかしら?」
姉の
「天は
蔡邕の奏でる音と発する声が亀書の魔法陣によって、
「乾は大始を
陰陽の気は地と天、こちらの世界とあちらの世界を巡っている。言霊は天へエネルギーを放ち、魔法陣は地へエネルギーを送る。
「
龍脈を流れる膨大な陰気が上空へと解き放たれ、玄武観の上空に
「易なれば知り易く、簡なれば従い易し。玄武よ、末永く漢土を守り
術者の意思を受けた亀は皆が言葉を忘れて見つめる前で空中に飛び上がると、吹き抜けになっている祭殿を飛び出し、ぐんぐん巨大化して伝説の神獣となる。玄武。
それを目撃した皆が息を飲んだ。黒光りする甲羅。巨大な角の生えた頭。手足は鱗で覆われ、鋭い爪が突き出している。それが蛇のような長い尾をぐんと振って宙を泳ぐと、黒き亀の神獣は暗雲を
一瞬の出来事だった。俄には信じられない出来事を目撃して、
「坤禅は終わった。しばらくは玄武の力が漢を守る盾となって、
大きな役目を終えた蔡邕はすっきりしたかのように言った。ややして我を取り戻した劉備が沈黙を埋めるように言った。
「これで晴れて都に戻れますね」
「うむ。
蔡邕は洛陽の、現在の朝廷の状況を身に
「
「お任せください」
孫堅が胸を張って言った。界休に屯留している間、孫堅は江南での出来事を蔡邕に話していた。石碑に触れて幻想を見た体験も。自分が神器の守護者だと言われたことも。それを聞いて、蔡邕は曹操や劉備と同様、孫堅が
壺口で坤禅を終えた後、蔡邕は草書の張兄弟の住む
「その昔、
舟は人門を抜けながら、蔡邕が古代の伝説と三門峡の名の由来を娘と三人の若者に教えるように語った。
「このような伝説には、龍脈の気が関係しておるだろうな。禹は神器と龍脈の陰気を利用して、岩山を割ったのかもしれないな」
玄武の
孫堅は
蔡邕の解説も河水の風に
「玄徳様、どうしたのですか?」
「いえ……」
蔡蓮の問いに劉備はその理由を答えられなかった。蔡蓮との別れが近付いている。それを考えると、劉備の心は鬼門の激流に巻き込まれたかのように激しく揺れるのだ。この半年近くずっと彼女と一緒にいた。あまりおしゃべりな自分ではないが、それでも蔡蓮とはたくさん話したと思う。不幸の中でも、劉備は確かな幸せな時を感じていたのだ。
三門峡を過ぎ、いよいよ洛陽が近くなってきたところで、蔡邕が言った。
「文台よ。江南へ向かう前に都で一月ほど過ごしたいが、良いかな?」
「はい。それは、もちろん構いませんが」
「石経事業は最後までやり遂げたい。あれこそ私の最大の功績となるだろう」
洛陽では蔡邕が流刑に処されてから、石経
この日のために盧植は郊外に屋敷を用意し、蔡邕一行はその屋敷に仮住まいした。
蔡邕はそれから用意されていた無地の石碑の数々に経文を書す日々を送った。
この作業は急ピッチで行われた。濁流派や百鬼が蔡邕の
そして、一月。その作業もついに終わりを迎えた。蔡邕は再び洛陽を去る。帰洛を迎えたのと同じ面々が小平津にそれを見送る。
「江南へ難を避けるのは良いが、唯一心残りなのは、石経の完成を見られないことだな。それも仕方あるまいが」
「都が平穏になった
楊賜が言った。楊賜、
劉備の視線は軽やかに舟に乗り込み、たおやかに座り、優雅に風に髪を
洛陽に逗留する間も、蔡邕が
「さようなら、玄徳様」
大義に生きると決めた。身分も違う。劉備は最後まで自分の気持ちを押し殺して、蔡蓮の別離の言葉に黙って
蔡邕ら一行は再び舟で河水を下り、兗州の泰山郡に向かう予定だ。泰山には清流派の羊氏がおり、亡くなった
「玄徳、いつかまた会おう」
船上の孫堅が別れ際、河岸に立つ劉備に声をかけた。
「お元気で」
劉備が旅立つ孫堅と蔡邕、そして、蔡蓮に手を振った。舟が見えなくなるまで河岸に
「行きましょう」
劉備は頷いて、蔡蓮への密かな思いを断ち切るかのように馬に飛び乗った。
劉備もこのまま洛陽を去り、故郷に帰るつもりである。母とはもう一年以上会っていない。早く会いたいという思いが乗り移って、馬が飛ぶように駆け、
関羽が黙ってそれを追いかけた。すでに両親を失っていた関羽は、このままこの人に従って行ってもいいという気持ちになっていた。
そして、その思いのとおり、以来関羽は劉備にずっと付き従い、苦楽を共にすることになるのだ。それは劉備の不思議な人間的魅力が
蔡邕から譲り受けた洛陽の屋敷で、盧植は遠い地にある弟子の身を案じて呟いた。
「
弟子とは
その罪人とは先に党人の
廷尉とは主に重大犯罪や高級官僚の犯罪を扱い、その裁判と処罰を行う
郭氏は
郭禧はちょうど
まだ流刑になる前、それを惜しんだ蔡邕ら清流派が上奏して、彼らの再登用を求めた。その効果があったのか、この年、郭禧はまた廷尉に復職していたのである。
郭禧は着任すると、早速蔡邕の案件を再審理して無罪と決した。ちなみに、時を同じくして郭禧の子の
明法の郭禧が流刑と判決したのだから、確かに劉基に罪はあったのだろう。護送される太守の世話役として公孫瓉も流刑先の日南郡へ同行すると盧植に報告に来た。
日南郡は今のベトナムで、かつて
昔の問題児がどういう変わりようか。ともかく、それはまさしく義行であり、盧植もその弟子の行為に心打たれるものがあった。
ところが、流刑先の交州日南郡は只今騒乱の真っ最中で、一向に収まる気配がなかったので、一行は道中の荊州
「智侯も赦され、伯珪も助かった。まさに天佑ありじゃ」
「党禁も緩んだことであるしな」
王甫一党が
党錮というのは、党人関係者を生涯官吏に登用しない人事処分である。それが遠縁の者にまで適用されるのは経典に反すると上奏したのだ。
いつもなら、このような上奏は簡単に握り潰されるか、逆に罪に問われるところだが、王甫が殺されたばかりで、濁流派の間では動揺が広がっていて、この時ばかりは自分たちの自衛に忙しかった。その間隙を突いた上奏は皇帝のもとまで届いた。
党錮の全面解除を訴えているわけではない。反対意見もないので、皇帝もこれを認めた。
党人の親族であっても、
その最大功労者の曹操は清流派の面々の前から姿を消していた。
「王甫を除いてから、曹公を見ないな」
「次の
「曹節と親しくしているそうだが、まさか靡いたのではあるまいな?」
「そりゃなかろう。相手の
「神器の方でも進展があったそうだし、楊公が言われるように少しはきれいにできる兆しが見えてきた」
蔡邕が去って以来、盧植の話し相手は
「うむ。玄武を坤禅できたことは大きな進展じゃ」
四神器を坤禅することは国土の四方に安寧をもたらすことに
北方では
そんな時、蔡邕が四神器の一つ、玄武硯を入手し、それを坤禅することに成功したというのだから、漢は九死に一生を得たといっても過言ではなかった。
「北方に加護がもたらされれば、これ以上、鮮卑を憂うことはなくなろう」
北方の幽州出身の盧植の
さらに、〝
陰陽道では〝九〟は特別な数字である。そして、九のうち五が天宝に、四が地宝に割り当てられている。万物を形作る陰陽の神秘の力がこの九つの宝に凝縮されているのだ。
蔡邕の地図にはすでに玄武の文字の横に印が付いている。坤禅が済んだという証である。
「これで
馬日磾が青龍の文字の脇に違う印を付けた。四神器の一つ、
「仙珠は四つの所在が分かった。五年前は全く分からなかったんじゃからな、千里前進したと言えるじゃろう」
五仙珠については、四つに印が付いていた。全ては曹操という男の存在である。
曹操の推理によれば、一つは
もう一つは百鬼の男が持ち去り、残りの二つを曹操自身が所持している。
「仙珠も封乾せねばならぬのではないか?」
〝封乾〟は天を祀ることを意味する。四神器が地宝なら、五仙珠は天宝と言われる。
「智侯でなければ、やり方が分からん。時期も関係あるようじゃしな……」
「ふ~む……。我等の学識はどれほど智侯に及ばぬのだろうな?」
「それこそ、天と地ぐらいじゃろう」
「では、
「それも天と地の差じゃな」
盧植は陽気に笑って言うのだった。
喜んだのも束の間。王甫が誅されてから半年――――陽球が死んだ。
『早まってくれた……』
曹操はその報告を聞いて、目を閉じた。
陽球が
陳球は
「――――宗室のあなたが陛下の危機を支えず、君臣である我々が国家を助け起こさないのであれば、我々は天下に必要ない。この目でこの国が滅びるのを見ることになりますぞ」
歩兵校尉という洛陽守備兵を率いる官にあった劉納も劉郃の決起を促した。
今なら自分が率いる兵を投入できる。劉郃も兄が竇武・陳蕃とともに王甫・曹節に殺されていたので、その恨みを晴らすチャンスだと思い、積極的に賛同した。
ただ、彼らは知らなかった。長年、
彼らは曹節を殺すための策謀を
王甫が誅されて日が浅いこの時期に陽球に近付くことは、自ら曹節の監視網の中に入ることと同じだった。曹節は陽球を危険視して、衛尉に遷してからも、その動向に目を光らせていたのである。隙を見て取り除こうと考えていたところ、獲物が網にかかった。陽球の
まさに、竇武・陳蕃のクーデター失敗が十年の時を経て繰り返された形となった。
王甫を殺して、次は曹節だと公然にアピールしたことが曹節の恨みを買った。
しかし、今回の抗争劇では他の清流派たちに災禍は及ばず、曹操が言ったとおり、陽球がその恨みを引き受けて死んだわけである。
『もう少し役に立って欲しかったが……』
思ったようにはいかないものだ。曹操は新たな策を考えなければならなくなった。
『こいつを手放すか……』
が、その道筋が見えないわけではない。少し時間がいるだけだ。
曹操は手に入れたばかりの王甫の形見に目をやった。
そうやって過ごしているうちに
臧旻は袁逢のもとへ足を運んだ後で曹操邸を
「やっと来たか」
曹操はそう呟いて、書簡に目を通した。曹操が
曹操は王甫を殺すことで清流的行為を
約束どおり、仇に報い、死に花を咲かせられる舞台を用意するために。
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