近田の夏

霜月れお

近田の夏

 

 コンロの火にかけた鍋の中で、出汁と油揚げが泡立ち煮えたぎる。

 夏場の台所に立つのは、地獄だと思う。

 大通りから外れた場所のアパートなのにコンチキチンの囃子がいつでもどうぞと聞こえてくる。梅雨の湿気から解放されて、夏の日差しを浴びる人間たちは生命力に溢れ、昼も夜も活動的になるらしい。気持ちよさそうに鼻唄をこぼし、コンチキチンに合いの手を添えている同居人の近田も例外ではないようだ。

「そうだ、本多よ。聞いてくれ」

 狐の近田と狸の僕は、自分の尻尾を追いかけるだけでも楽しい年頃から、賀茂川と高野川に挟まれたデルタ地帯の先端と川の両端を繋ぐ飛び石のあたりを、バッタやらトンボやらを追いかけたりして、一緒に遊んで育った仲だ。今では、同じ大学の経済学部でいなり寿司研究会に所属している。つまりは、腐れ縁というところ。

 夏の近田は、決まって話が長い。僕は鍋の火を消した。

「おい、本多よ。俺の声が聞こえてるか?」

「僕の耳は、これでも良い方だ。大体、この時期は、キミが次に何を言うかなんて想像がついているよ」

 鍋に布巾を被せ、自然と溜め息が漏れ出た。

 いつもの六畳一間にぽつんと置かれている座布団に胡坐をかく。目の前には、ふたり暮らしの祝いと称して、僕と近田で作った木のテーブル。だからなのか、手を掛けると少し傾く。窓際に居た近田も僕に促されて空いてる座布団に腰かけた。

「それより、近田。いなり寿司研究会という大いなる志はどうするんだ?」

 暑さなのか、夏の病のせいか、上気した顔の近田に問いかける。近田と僕の人生は、あの『いなり寿司』の復刻ためにあると言っても過言ではないはずだ。

 あれも夏だったと思う。いつものように近田と遊び回っていて、ふと気が付けば、知らない建物の間に迷い込んでいた。ふたりして狭い路地をひとつひとつ覗く度に、帰れない恐怖が募るばかりで、次第に僕たちの影が闇に飲まれていった。

 がらりと音がして、背後に迫る人間の気配を感じた。まずい狸汁にされてしまうかも。身体の隅々まで恐怖が雷光のごとく駆け巡り、僕も近田も、お互い声を発することもできず、身体が言うことを聞いてくれなかった。なのに、僕の腹はぐーぐー鳴った。

 がらり、がらりと音がして、僕は恐る恐る音のほうを振り返った。目の前にはちょんと載っている三角の茶色いもの。落ち着く匂いに誘惑されて、ぺろりと食べてしまった。

 のちに『いなり寿司』であることを知った僕は、疲れた四肢に染み渡る、爽やかな香りとしっとりとした食感、加えて食後の満足感が今でも忘れられないでいる。

「それはそれ、だ。ちゃんと頭の片隅で考えている」

 近田よ、信用ならんな。本当に考えていたら頭の片隅ではないだろう。

「今日だって、僕はあの時の味を追い求めているのに、どうやらキミは別のヒトを追いかけているようじゃないか。流石に毎年のことだ。言われなくても想像がつくってもんだよ」

 迷子事件のあと僕たちは約束した。僕も近田も事件で食べたいなり寿司が忘れられなくて、人間世界の経済を学び、いなり寿司を研究し、いなり寿司で世界を征するために日夜努力を惜しまない、と。

「俺の話は始まってもいないのに、そう決めつけてくれるな」

 近田の向こう側の青空を、トンボが泳ぐように飛んでいた。

 特に夏の近田は生命力が有り余るのか、恋の熱気で僕を振り回してくる。僕からしたら、夏の恋に侵されている近田を振り回して、鴨川の土手に等間隔に並ぶ恋人たちにぶち当てて、片っ端から近田もろとも川に放り込んでやりたいくらいだ。そうすれば、近田の熱暴走した脳みそだって元に戻るだろう。

「それで、本多に頼みがあるんだ。きっと、いなり寿司研究会の大いなる進歩に繋がるはずなんだ」

 やけに神妙な物言いをする近田に、僕は「うん、それで?」と自然に訊き返してしまった。

「俺らは一生懸命に理想のいなり寿司を目指してきたわけだけど、何かが足りない。そうだろ?」

「まあ、確かにそうだ」

「苦労しているだろ?」

 苦労していなかったら、大学生の心がトキメキで満ちていく夏休みを前に、ひとりぼっちで油揚げの味を試作するなんてことはしない。あぁ、薄日差す狸谷山で微睡むだけの日々が恋しい。近田は、僕の表情でも読み取ったのか返事も待たずに続ける。

「大学の一年生に奈月さんという女性が居てな、彼女が小鳥のように愛らしいんだ。是非とも交流を深めたいと悩んでいる」

「それで?」

「俺が、瑞々しい奈月さんと宵々山に出かけて距離を縮めようと思う。お前も手伝えよ」

「ちょっと待ってくれ、それでは今までと何も変わってないぞ。しかも今日だ! 近田、まったくキミってやつは、狐のくせに!」

 やっぱり、近田を鴨川に投げ込んだほうが良いのかもしれない。去年は、お酒で失敗して文字通り化けの皮が剥がれて逃げ帰ってきた。その前は人混みで女性とはぐれて、翌日にこっぴどく振られていた。近田の夏は、大抵が始まりの終わりだ。

 近田はひょっとこのように口を尖らせ、いつのまにか出した尻尾をゆらりとしている。夏だからって、弛み過ぎだろう。

「かく言うお前さんも、狸のくせに、なにが推しだよ」

「僕の推しとキミのとを比べないでくれ!」

 ぶっちゃけ人間に恋するよりはマシだろう。それに、祭壇に整列している僕の推したちは、キミと違っていつでも僕のことを応援してくれている。

「推しへの愛は永遠だ。一時の熱狂ではないのだよ」

「ふん、わからんな。お前は、もうちょっと夏の儚さを理解した方がいい」

 この浮かれ狐め、黙って伏見の稲荷に叱られてこいよ。

「近田こそ、継続することの大切さを知った方がいい。キミは毎回、違う女性の話だ。それに、その『奈月さん』と『いなり寿司』と何の関係があるんだよ!」

 怒った僕の声、蒸した部屋、コンチキチンの音、遠くの雑踏、近田の声、コンチキチンの音。有り余ったエネルギーで回転速度が上がっていく夏を目の前に、僕の頭から陽炎が立ち上りそうだ。

「そう怒るなよ、本多。俺を信じろ。それに、これから見目香しい彼女と、待ち合わせなんだ」

 夏の近田は止められない。吐く息の生温さとともに、僕の心は湿気にまみれる。

「そうか、僕はまだ作業があるから行かないよ。近田だけ、行ってきてくれ」

 立ち上がるときに手をついたテーブルが、僅かに傾いた。

「本多は、後から合流な」

 そう言って近田は、待ち合わせに出かけて行った。

 作業があるなんて嘘だ。ただ、話を切り上げたかっただけだ。湿った狸は、きっと空気を悪くしてしまうだろう。

 大の字になって寝ころんだ僕は、ひんやりとした畳に身を任せ、目を閉じた。


 コンチキチンの音。

 通りにある山鉾提灯がぼんやりと夕闇を照らしている。歩行者天国から聞こえてくる、浮かれた雑踏の中を歩いている近田の狐らしい笑い声。今にも近田の被る狐の面が取れそうだ。近田と並んで歩く、丹頂の尾のようにふわりと舞う浴衣帯を追いかけながら、僕は宵々山の通りを練り歩く。近田の名前を呼んでも雑踏が邪魔をして、手が届きそうなところまで来ても一方通行が邪魔をした。

 群衆に流されるがまま思い通りにならなくて、早歩きから徐々に小走りになっていた。目の前に居る近田に近づきたくても、直進はできなかったから、仕方なく僕は右に曲がることに従った。さっきまで騒がしかった通りには誰もいなくて、道の真ん中にちょんと三角形の茶色いものが落ちている。え? 不思議に思ってそろりと近づいた。いなり寿司だ。こんなところになんで? 見つけたいなり寿司は、僕の疑問に答える前にどんどん膨らんで、僕の上に飛び乗ってきた。く、苦しい!

「近田、助けてくれ! 狸せんべいにされてしまう!」

 ハッと目を見開いたら、見慣れた染みがある木目の天井が見えて、安堵した。

 いつのまにか窓の外では、蝉の声が夕暮れに降り注いでいる。

 今年の近田はどうやって恋に破れるのだろうか。意地の悪い僕は、宵々山で賑わう通りに出かけることにした。


 さすがに四条通まで来ると、宵々山は熱気と人でごった返している。途中の露店で買った焼きもろこしを齧りながら人の流れに乗り、近田の所在を探す。ぐるりを見回しても、夏の涼を楽しむ家族連れや、真っ赤なリンゴ飴を手にした恋人たちばかりで、どこに近田が混じっているのか見当がつかなかった。ひとりぼっちの僕は、焼きもろこしの皮が歯に詰まった窮屈さに堪らず路地を曲がる。

 ぼんやりと明るい提灯で照らされている町家の通りは朧げで、夏の虫がひっそりと鳴いていた。皆が活力に溢れ、隅から隅まで楽しもうとする夏だからか、僕は虫の鳴く夕暮れの時間をゆったりと歩くのがいい。この通りはうってつけだ。隙間なく続いている町家通りは脇道にそれることなく、大通りに戻ってしまうけど、また戻ってきたらいい。のらりくらり歩いていると、見覚えのある背格好の人。町家通りの角を曲がり、大通りに入っていく近田だった。

「やっと見つけた!」

 僕は小走りで近田が曲がった方に角を曲がり、見覚えのある背中を必死に目で追った。あと二人分、一人分と、人の間を縫うようにして距離を詰めていく。片手に缶ビールを持った近田が何やら両腕を大きく振りまわし、奈月さんと思わしき女性は、近田の話に鈴の音が弾むような声で相槌を打ち、どこから見ても悪くない恋人たちだった。

 なんだ近田、巧くやってるじゃないか。

 僕は歩くスピードを緩めた。

 人の波が束の間途切れて、近田の後ろ姿が上から下まで見えた。その瞬間、打ち水を避けるように僕は小さく飛び跳ねていた。あれ程言ったじゃないか、尻尾を引っ込めておけって!

「まずいぞ、まずいぞ」

 狼狽している僕を余所に、近田と奈月さんは、横断歩道を渡ってしまった。近田っぽい頭頂部がずんずんと通りを進んでいくのが見えて、信号が変わるのを待つ僕は、ひたすら幸運を祈った。

「どうか誰にも気が付かれませんように。近田が狐汁になりませんように」

 近田たちが入っていた先は先斗町界隈だ。鴨川にでも行くのだろうか。僕は人混みをかき分けながら、近田たちが進んだと思われる方向に走っていった。


「やっと追いついたぞ、近田!」

 駆けつけた僕が見たのは、耳も尻尾も全て元に戻っている紛れもない四つ足の狐だった。地面に缶ビールが転がっていて、とくとくと水たまりを作っている。横には、三猿の言わざるポーズをした奈月さんが、地面にぺたりと座ったまま、狐姿の近田を見つめていた。

 もう遅い、遅いかもしれないけど、咄嗟に僕は、奈月さんの背後から彼女の視界を奪った。

「きゃっ」と小さく音を立てた小柄な身体から、ふわりと舞う爽やかな香りが脳内に満ちる。

「本多、すまん。俺、また……やってしまった」

 僕は慌てて、近田に向かって叫ぶ。

「いいから、走れ!」

 狐姿の近田は、四つ足で草むらに飛び込んだ。奈月さんを解放すると同時に狸姿に戻った僕は、直立二足で立ち上がり、呆然とする彼女に向けて一礼する。僕はすぐさま背を向けて、近田の後を追う。彼女の声が聞こえたような気がしたけれど、草をかき分ける音にかき消され、何度か建物の間をすり抜け、彼女からどんどん遠ざかっていった。

 必死に走っている間、なぜか彼女の纏うあの香りと迷子事件のことを、頭の中で繰り返し繰り返し思い出していた。

 程なくして、鴨川沿いに出た。土手に腰を降ろし、ふたりで息を整える。こんな形で鴨川の等間隔に参加することになるなんて神様は理不尽だ。

「はぁはぁ……近田よ。だ、だから……言ったじゃないか」

 人の姿に戻っても、肺の中を熱風が行き来し、心臓は夏祭りの太鼓のように踊っている。加えて全身から汗が流れ出て止まらない。

「それよりも本多、何か思い出すことは無いのか?」

 それなりの距離を全速力で駆けてきたのに、近田はちっとも乱れてなくて、涼の風に吹かれていた。近田の期待するような瞳が納涼床の提灯に照らされて輝く。

「何かって、いったい何をだよ?」

 脳裏に奈月さんの小さな声と鼻に残った懐かしい匂いが蘇る。

「お前はおめでたいヤツだな。迷子事件のいなり寿司は、丁寧に皿に載せてあったんだ。お前、覚えてないのか?」

 近田にそう言われると、皿に載せてあったように思えてきた。だけど、人間が僕の背後から迫ってきてて、恐怖で振り返るなんてできなかったんだ。今でも思い返すたびに全身の毛根が逆立ちする。

「お前の背後には俺たちと同じ歳くらいの人間がいて、いなり寿司をふたつ置いて去っていった。本多よ、少しは思い出してきたか? お前は人の話を最後まで聞いたほうがいい」

「もしかして、キミが見つけたという奈月さんは……」

「彼女から漂う、あの懐かしい匂い。一瞬だけど、嗅いだだろ? きっと何か関係しているはずだ。これで少しは信じる気になったか?」

 奈月さんの鼻に残る懐かしい香りが、思い出のいなり寿司の香りに思えてくる。

「わかったよ、キミがどうして彼女を推すのか。奈月さんの香りは、迷子事件のいなり寿司の匂いだ」

 近田よ。今回はキミの言うことを信じるよ。

 もしかしたら、夏が魅せる希望的観測かもしれない。けど、声に出すと急に真実味を帯びてきた。納涼床から、夏に酔った人間の笑い声が鴨川に響き、川に映った提灯の明かりがゆらめいている。

「近田、帰り道にビール買って帰ろう。僕はなんだか飲みたい気分だ」

 それになにより、走り過ぎて喉が渇いた。

 服に付いた草を軽く払い、僕と近田は「やっぱ夏はビールだよな」「枝豆も買おう」とか言いながら、賑やかな納涼床の横をふたり並んで歩いていった。

「そういえば、本多よ。枝豆はもちろんだが、今日はお前が作ったいなり寿司も食うからな」

「まったくキミってやつは、次は食い気かよ!」

「油揚げ用意してただろ? それに、お前の作る飯が美味いのがいけないんだ」

 夏に振り回された僕の心にも、涼の風が流れ込んできたようだ。今日だけ近田のために灼熱の台所に立って作ってやろう。

 いいか、近田よ。今日だけ、感謝を込めた特別仕様だ。





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近田の夏 霜月れお @reoshimotsuki

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