第2話 こころ先輩の心臓の音 耳元どきどき水泳指導

(キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴り響く)


(ざぶん、とプールの中に入る音)


「お待たせいたしました」


「今日はわたしのほうが遅かったですね」


「先に泳いでおられましたか? ……そうですか」


「いえ、お気になさらず。泳いでいてくださって結構です」


「……はい」


「プールのあちこちに浮かんでいるこの浮き輪はなに? ……ですか?」


「これはわたしが今朝、プールにやってきて浮かべておいたものです」


「ハリセンボンの浮き輪です」


「可愛い浮き輪です」


「愛らしいでしょう」


「可愛がってくださいね。ぶつかるとちょっとチクチクして痛いですが」


(ちゃぷん)


「あっ」


「わたしがぶつかってしまいましたね」


「痛い……」


「でも、大丈夫です」


「あなたのことを思えば、耐えられますから……」


「……ええ、そうです。ただの浮き輪です。ハリといっても先端は丸いです」


「ちょっとした、気分の問題といいますか」


「あなたが愉快な気分になってくれるのではと思い」


「おもちゃを持ってきた次第で」


「面白い、ですか?」


(ちゃぷん)


「そうですか」


「それはよかったです」


「いい大人がハリセンボンかと笑われるかと思いました」


「大人……ええ、もうわたしは自分を大人だと思っていますよ」


「こうして、指導する後輩もいるのですから」


「おもちゃは。……つまり」


「大人のおもちゃ、ということで」


(ジャブン!)


「大丈夫ですか」


「どうかされましたか」


「平気。……それならばいいのですが」


「とにかく、このハリセンボンは」


「可愛いので」


「お友達になってくださいね」


「わたしは嬉しいです」


「ハリセンボンのこと」


「あなたに喜んでもらえて」


「……さて、それでは」


「本日の水泳部、活動を始めます」


「よろしくお願いします」


「今日は昨日に続き、背泳ぎを行います」


「昨日のあなたの背泳ぎを見ていましたが、まだ力が入っていますので」


「今日は力の抜き方を指導いたします」


「では、まずは上向きに浮かんでください」


(ばちゃん、と水がはねる音)


(ちゃぷ、ちゃぷ、と水音)


(ざば、と水の中から主人公の頭だけが水の上に出る音)


「耳が水の中に入っていては、わたしの声が届きませんので」(至近距離)


「こうして、わたしがあなたの頭の上に立って」(至近距離)


「あなたの頭を手で持ってあげます」(至近距離)


「大丈夫です。力を抜いてください。抜けば必ず、人間の身体は浮かびます」(至近距離)


(ちゃぷ、という水音)


「そうです。そのまま、そのまま」(至近距離)


「全身の力を抜いてください。わたしがすぐ後ろにいますので」(至近距離)


「安心して……わたしに頭の重さを委ねてください」(至近距離)


(ちゃぷ……)


(どっくん、どっくん……)


「?」(至近距離)


「なにか聞こえますか?」(至近距離)


「どくん、どくんという音ですか? ……なるほど」(至近距離)


「それはきっと、わたしの心臓の音でしょう」(至近距離)


「いまちょうど、わたしの胸の上にあなたの後頭部がありますので」(至近距離)


(じゃぶじゃぶ、と主人公が慌てたことで出てきた水の音)


「いけません。暴れないでください」(声が少し離れる)


「わたしにすべての体重を預けてください」


「わたしを信じてください」


「もう一度、どうぞ」


(ちゃぷん……)


「そうです、そのまま、そのまま」(至近距離)


「いいですか。力を抜いて、背泳ぎですよ」(至近距離)


「わたしが」(至近距離)


「教えてさしあげます」(超至近距離)


(ちゃぷちゃぷ、という水の音)


(どっくんどっくん、という心臓音)


「では、両手をだらりと下にさげて」(超至近距離)


「胸をもう少し張る感じで。……はい」(超至近距離)


「ちょっと体勢が崩れました。わたしも胸を張ります」(超至近距離)


(どっくん、どっくん、どっくん……心臓音がさらに大きくなる)


「素晴らしいです」(超至近距離)


「そのまま、頭を、首を」(超至近距離)


「顔全体を……」(超至近距離)


「すべて、わたしの胸に預けるようにしてください」(超至近距離)


(ちゃぷちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん……)


「水の中でいいので、少し足をバタ足させてみましょう」(超至近距離)


「ばたばた、ばたばた……」(超至近距離)


(ちゃぷちゃぷ)


「ばたばた、ばたばた……」(超至近距離)


(ちゃぷちゃぷ)


「そうです。いまの感覚を忘れないでください」(超至近距離)


(どっくん、どっくん、どっくん……)


「……わたしの心臓の音、それほどまでに高鳴っていますか?」(超至近距離)


「そうですか。いいえ、でも……自覚はしています」(超至近距離)


「わたしも、初めて誰かに水泳の指導をいたしますので」(超至近距離)


「どきどきしています」(超至近距離)


(ちゃぷちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん、どっくん)


「……いけません、ね。わたしのほうが先輩なのに」(超至近距離)


「こんなにどきどきしていては」(超至近距離)


「わたし……少し、深呼吸をしますね」(超至近距離)


「すう……はあ……」(超至近距離)


(ちゃぷ、ちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん、どっくん)


「もう一度。すう……はあ……」(超至近距離)


(ちゃぷ、ちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん、どっくん)


「すう……はあ……」(超至近距離)


(ちゃぷ、ちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん、どっくん)


「……水があたたかくなってきましたね」(超至近距離)


「今日は先日ほど、暑くないので、先ほど、水の温度を少し高めに設定にしたのですが」(超至近距離)


(ちゃぷ、ちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん、どっくん)


「わたしの心臓の音。まだ聞こえますか?」(超至近距離)


「性別によって、心臓の音は違いがあるのでしょうか」(超至近距離)


「わたしにも分かりませんが……もし違いがあるのなら」(超至近距離)


「覚えていてくださいね」(超至近距離)


「これが、女性の心臓の音です」(超至近距離)


(ちゃぷ、ちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん、どっくん)


「あたたかい水と、ちゃぷちゃぷした音」(超至近距離)


「お腹の中は、こんな感じかもしれませんね」(超至近距離)


(ちゃぷ、ちゃぷ)


(どっくん、どっくん、どっくん、どっくん……)


「では最後に、水面でバタ足をいたしましょう」(少しだけ声が離れる)


「もう少し、腰を浮かせてください」


「そのまま力を抜いて……」


「大丈夫です。怖がらないでください」


「このわたしが」


「教えてさしあげます」(超至近距離)


(ざばあん、と派手に水しぶきが上がる音)


(ちゃぷ、ちゃぷ)


「……惜しかったですね」(声が離れる)


「最後の最後で、力が入りすぎました」


「急に身体が」


「固くなってしまいましたね」


「いいえ、お気になさらずに」


「わたしは平気です」


「それよりも、わたしの指導に至らぬ点があったのかと思い、反省しております」


「いかがでしょうか。わたしの水泳指導は」


「……そうですか。それならば、よかったです」


「このように、背泳ぎの指導をされるのは初めて?」


「はい、わたしもです。……あなたも、でしたか」


「……嬉しいです。もっと、あなたの初めてでありたい」


(ちゃぷん!)


「本当のことを言ったまでですが」


「あなたの、すべての初めてを」


「わたしが教えてさしあげます」(声が近くなる)


(ちゃぷん、ちゃぷん……)



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