side:光莉 やさしい月明かりの下で

「はぁ……疲れたなぁ」


 ひとりで帰る道に慣れたのは、いつからだったろう。誰かと付き合っても長続きしないし、友達らしい友達も、社会人になってからは特にできてはいない。同期の子や先輩と飲みに行くなんていうのはあるけど、そういう人たちは学生の頃の友達とはちょっと違う。

「あの頃はよかったなぁ」

 飲み会で先輩たちがたまにこぼしている言葉を、思わずわたしも漏らしてしまう。


 あの頃は、定期的に繋がりを確認するようなこともなかったし、その確認のたびに相手の内心を探ったりするようなことなんてしなくてよかった。

 相手の内心を探って、損得勘定したりして──そんなのを当たり前のように隠して、さも本当に一緒にいる時間が楽しいみたいな顔して……そんなのを当たり前の人付き合いみたいに考えたりする必要なんてなかった。


「はぁー……」

 夜空を覆う雲の向こうで、楕円形の月が柔らかく輝いている。全容はぼやけて見えないけれど、その輝きは何も頼るもののない夜空においては何物にも替えがたい、紛れもない光で。

 そんな光を見ると、何となく思い出す。


「あの子、元気にしてるかな」

 つい先程思い出していた懐かしい時代を象徴するような、月明かりのように柔らかく優しい子。いつもわたしの近くにいて、たぶん心から信じてくれていた、懐かしい親友。

 他にも仲のよかった友達はいたけど、あの子と一緒のときはなんていうか、最低限の装いさえする必要がなくて。

「ふふ、」

 懐かしくて、思わず笑みがこぼれた後。

 ふと今の自分を省みて、気持ちが沈む。


 わたし、あの頃とはずいぶん変わっちゃったな。

 あの子が好いてくれたわたしのままではいられなかった──そんなわたしを、あの子はなんて言うかな?


 考えたら、月明かりすらも疎ましくなって。

「こっちから帰ろ……」

 普段なら通らない、光のない暗い路地を選んでしまった。夏の暑く湿った空気が凝縮されたような蒸し暑さに思わず息が詰まったけど、なんとなく今のわたしの気分にはぴったりな気がして。

「迷わなきゃいいけど」

 それでも胸のなかでくすぶる不安が、ちょっとだけ口から漏れたときだった。


「光莉ちゃん?」

「え、」


 たったいま背を向けた通りから聞こえてきたのは、ちょうど思い返していた声。

 控えめで、静かで、強い風でも吹いたら紛れてしまいそうな声。だけど、その夜はとてもよく響いて聞こえて。

月花るか

「わぁ、やっぱり光莉ちゃんだ!」

 呼んだ名前は、ひどく懐かしいもので。

 向けられた笑顔に、涙が出そうだった。


「す、すごい飲みっぷりだね……」

「だってさぁ、会社の飲み会だと変に遠慮とかしちゃうしさ……! それにさ、最近彼氏とも別れちゃってさぁ~」

 ちょっと困ったような月花の笑顔はわかっていたけど、もう日頃積もり積もったものは止まりそうになかった。


「なんかさ、急によそよそしくなってさ? 会えない日が増えたどころか、会おうって約束してた日まで会えなくなっちゃって」

「うんうん」

「結局最後には別れようって。何かしちゃったって訊いてもはっきり答えが返ってきた試しないし」

「そっか……」

「ここ何年か、誰と付き合ってもそうなんだよね。そんなんなるなら最初から付き合うなっつーの!」

「光莉ちゃん、苦労してきたんだね……」

「ほんと、なんでこうなっちゃうかな。わたしもさ、そんな嫌なことしてたつもりないんだよ? 変に重くしてたつもりもないし、あ、もちろんほったらかしとかそんなんでもないよ!?

 でも、なんか駄目なんだよね……。そこまで続いちゃうとさ、わたしの何かが駄目なのかなって思っちゃうよ。人として、」

「そんなことないよ!」

「え?」


 突然強い語気で言葉をさえぎられて、思わず声が止まる。居酒屋のテーブル席の向かい側で、少し気色けしきばんだ様子の月花がジョッキを置いてこちらを見ている。多少酔っているのか、その顔は暖色系の照明のなかでもわかるくらい赤くなっていた。


「光莉ちゃんが悪いなんて、そんなの絶対ない! 悪いのは、光莉ちゃんにそんな顔させるやつらだよ! 光莉ちゃんは何も悪くないのにそんな顔させるなんて……! きっとそんなやつら、光莉ちゃんには相応しくなかったんだよ!

 光莉ちゃんに悪いところなんてない、私の手を引いてくれたあの日から、光莉ちゃんには悪いところなんてないの、絶対ないの! そんな光莉ちゃんにそんな悲しいこと言わせるなんて……! やっぱりあいつらみんな光莉ちゃんに好かれる資格なんてないやつらだったんだ、違いない違いない、絶対そうなんだ……!」


 ふぅー、ふぅー……!

 そんな息遣いすら聞こえてくる。

 明らかに興奮したような様子に、わたしの酔いが少し醒めたような気さえした。

「ちょ、ちょっと月花。落ち着いてよ、いいんだよそこまで言ってくれなくても……! ほら、他人同士が付き合えばそれなりにぶつかったりいざこざが起きる方が普通なんだしさ!」

「……ぇ、う、うん。あ、ごめん。ごめんね光莉ちゃん」

「ううん、そんな風に言ってもらえるのあんまないから、ちょっと嬉しかったよ。ありがとね、月花」

「……うう、」


 恥ずかしそうに身体を縮こませている月花の姿は、昔と変わらないように見えた。外見こそすっかり大人びて、スーツも似合うような社会人になったように見えるけど、昔通りの月花はなんだか見ていて安心できて。

「可愛いなぁ」

「えっ、……え!?」

 本心から出た言葉で、そんな言葉に照れたような顔も昔のままで、なんだか可愛らしかった。


 あぁ、なんか本心からの言葉を誰かに伝えるのって久しぶりだなぁ。

 こんなに安心できるんだなぁ。


「ありがとね」

「え、」

 自然と言葉が出ていた。


「月花と久しぶりに会って、こうやって昔みたいに話して、それで……なんかすごい気持ちが救われた。会社であった嫌なことも、元カレ絡みの嫌な気分とかも、全部吹き飛んだみたい。なんかね、ほんとにすっきりしちゃった!」


 わー、なんかこういうの照れ臭いな。

 たぶん素面しらふじゃ言えないかも、こんなこと。

 月花はというと、やっぱりけっこう酔っているのか、目をぱちくりさせてわたしを見ている。あれ、やっぱり変なこと言ってたかな?

 どうしよ、なんか言った方がいいかな?

 どうにか取り繕う言葉を探していると、小さな声が聞こえた。


「嬉しいなぁ」

 その声はたぶんわたしに聞かせるわけでもなく、月花自身のなかで噛み締めようとするものに聞こえた。

 なんか、そんな風に嬉しがられると変な感じになっちゃうな……。


「へへ、」

 思わず漏れた変な笑い声に目をパチクリさせる月花だったけど、まぁいいかな。なんだかふわふわした気分は、店を出たあとまで続いていて。


「なんかさ、こうやって帰ってると昔みたいだね」

「そうだね」

「ねぇ、月花」

「なぁに、光莉ちゃん」

「またこうやって、会いたいね」

「…………、うん!」


 優しくて柔らかい月明かりの下。

 見下ろしたアスファルトでは、ふたつの影が並んで歩いている。

 この先いろんなことがあるだろうけど。

 この景色はずっと変わらないといいな。


 すぐ近く、触れられそうな距離にある手を見ながら、そんなことを静かに願った。

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