カノン

「……?」


 レイは上げていた腕をゆっくりと顔から外すと、周囲を注意深く探った。そこは不思議な光に包まれており、天地の境が分からず、きらきらとした温色にそまった空間の中にレイは立ち尽くしていた。


「こ、ここは一体……?」


 自分は死んだのだろうか。しかし、それにしては戦闘で負った体の痛みはそのままである。死ねば現世の痛みや苦しみからは解放されるものだと思っていたのだが、これまで一度も死んだことのないレイには判断がつかなかった。


 もしかして地獄に落とされたのかと考え、それならば痛みの意味も分からないでもないが、辞令もなしに勝手に地獄行きにされてはたまらない。自分をこんな場所に呼んだのが神であるのか、魔王であるのかは知らないが、一言申さねば気が済まない心がレイの足を動かせた。


 それでこの不可思議な空間をしばらく彷徨って歩いていると、やがて石柱を連ねた荘厳な建物が見えた。西方社会の様式とは明らかに違う異国情緒の溢れた建物であったが、レイはいささかの迷いなくその中に踏み入った。


「変な感じ。寺院かしら?」


 黒と白の石材がチェスの盤面のように敷き詰められた広い廊下の左右には壁に埋め込まれた石の円柱が等間隔で並んでおり、柱の間にある壁には人や獣を象った彫刻と複雑な紋様が刻まれていて、レイはそれらの精巧さに奇妙な感心を覚えた。

 通路の先はさらに大きな広間に通じて、レイがそこに入ると、まずは天を穿つようなドーム状の天井に目を奪われた。そして広間全体は宇宙の星々を連想させる微細な工芸品が連なって、それ自体が神の意識を体現しているようであり、美意識に疎いレイでさえ陶酔させるほどの圧倒的な存在感を放っていた。


「ようこそ、レイ。お待ちしておりましたよ」


 凛とした女性の声が広間に響いて、レイははっとして正面を見ると、そこには女神の石像を奉じた祭壇があった。女神像には腕が六本あり、二本の腕は合掌を、それ以外には剣、槍、宝玉、聖典を手にしており、胴体には防具が付けられている。背後には放射線状に伸びた円形の装飾が施されていた。

 レイは昔、ルティで開催された万国博覧会エクスポで同じようなものを見た記憶がある。


「だ、誰……?」


「うふふ、こちらですよ、レイ」


 女神像にばかり目が行っていたレイは、その像の手前に卓が用意されていて、そこで茶を淹れている女性に全く気が付かなかった。


「ああ、あの、ここに住んでる人? 勝手に入ってきちゃってゴメンナサイ。でも、なぜわたしの名前を知っているの?」


 レイは訪ねたが、女性の姿にどことなく親近感を覚えるのが不思議だった。

 彼女はすらりと背が高く、頭上で丁寧に束ねられた髪は青空に薄く雲がかかった時のような淡い青色。肌の色は白くて透き通るようであり、腕は朱色の紐で装飾している。一枚の白いワンピースに足元まで包まれ、大きく開いた胸元にはネックレスが巻かれていた。

 そしてその上から薄いケープを羽織っており、笑顔でレイを迎えた。


「まあ、まあ。まずはこちらへお出でなさい。お茶にしましょう」


 女に誘われるままにレイは用意されていた卓の椅子に腰かけて、差し出された杯を手に取った。


 何の気なしに口をつけると、あまりの美味に驚いた。


 すっきりとした爽やかな風味が鼻腔を抜け、体に流れていくと、まるで魂そのものが活性化していく根源的な力が溢れてくるのだ。

 一気に杯を飲み干すと、レイは深い感動に吐息を漏らして悦に入ってしまう。不思議なことに体中にあった痛み、ダメージがけろっと消えていた。


 女におかわりを勧められると、レイは素直に杯を差し出し、今度はゆっくりと味わって飲んだ。


「私はカノンといいます。その昔、機罡戦隊と共にハジュンの軍団と戦った者です」


 ぶーっ、と思わずレイは茶を吹き出して咽せ込んでしまった。あらあら、とカノンは懐から手巾を取り出してレイに手渡した。けほ、けほ、と一先ずレイは自分の症状が落ちついてから、あらためて女を見やった。


「カ、カノン?」


 レイが驚くのも無理はない。カノンと言えば旧世界で機罡戦隊を導いた存在であり、新世紀に入ってからは各国の宗教の中にも取り入れられ、伝説の大聖女として描かれている。或いはそのまま神格化して信仰の対象にもなっているのだ。


 レイも一応はこの大聖女を称える教会で洗礼を受けた身であるので、それなりに信仰心の一つはあるつもりでいたが、いきなりカノン本人だと言われれば仰天もする。

 これがふつうの状況であれば「何をばかなことを」と一笑に付すところであるが、この場所、この女性、ついでにこのお茶のどれもがこれ以上ないぐらいに神々しい。


 レイは一呼吸ついて、カノン、と名乗った女と向き直った。「ねえ、一つ聞かせて」


「なんでしょう……」


「ハジュンは復活したの?」


 そもそもレアンシャントゥールで最大の謎とされているのが、なぜ今になって魔力が復活したのか、である。

 魔法とは魔王の力の一端。人間を効率よく操るための力であったとはよく言われることだ。そのあまりに高い利便性に目を伏せがちになるが、魔王復活説は誰の心にもある。


「力の一部がこの世に出現し、それが人類に魔法の英知を授けたことは確かです。それ以上のことは私にもわかりません。それ故に冥府は私を引き続き地上に止め、さらなる監視を命じたのです」


「冥府? ハジュンが冥界の魔王じゃないの? あなたは何者?」


「冥府は冥界の秩序を保ち、魂の還元と浄化を主な仕事とする統治機構です。ハジュンは冥界の闇から生まれた災厄そのもの。私はそれらに対処する冥府の役人、天部ディーヴァの一人です」


「ディーヴァ? 女神デエスではないの?」 ディーヴァとは西方社会オクシデント一般では神の使い、または異国の神という意味合いである。


「そう受け取っていただいても構いません」


 さらりとすごいことを言われたが、レイは何も言葉が出なかった。彼女の放つ神々しさはとても人間にマネのできるものではない。カノンの神秘性を容認しつつ、そういう上位世界みたいな場所があるのだとレイは自分を納得させた。


「でもなんかイヤだな。どうせあなた達って毎日のんびり地上を見下ろして、ああ人間がまたバカやってる、とか思っているんでしょうね!」


「とんでもありません。冥界の仕事も楽ではありませんよ、レイ。新人研修でいきなり地獄の番人をやらされたり、沙汰に不満な亡者たちの控訴を一手に押し付けられたり、玉帝に上申する稟議書の作成を不眠不休で……」


「分かった、分かったから。神様も大変なのね!」


 なんだか話に引き込まれてしまったのだが、レイはそもそもの質問をカノンにぶつけた。「それで、わたしをここに呼んだ理由は何?」


「あなたにお願いがあるのです」


「もしかして魔王軍ヴァイダムを倒せ、とか?」


「ご察しの通りです……」

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