第一章 巨人マージの城砦
ランスの軍人
レイ・アルジュリオという人間
レイは目を覚ました。石造りの天井に薄明かりが微妙な陰影をつけるのを見て、相方がもう起きていることを知った。それにしても冷える朝だ。ひんやりとした空気が鼻腔を抜けると、むずむずとした違和感を覚えてレイは思わず手で鼻柱を抑えた。
「……寒っ」
ぶるりと体を一度震わせてから毛布を払い、上体を起こすと、たちまち肌の露出した首回りや二の腕が冷気に撫でられる。同時に白い息が口許から漏れてレイの顔をけむらせた。
「
「ボンジュール、ヴェロニック……」
指で目元をこすりながらベッドから降りると、すでに鏡台で身支度をしている同居人、ヴェロニックに挨拶を返した。「すっかり寒くなったわね。わたし、ルティで育ったから、この辺りの寒さは堪えるわ」
そうは言いつつ、上着も羽織らずにレイは黒い袖なしのシャツに白の下着姿のまま床の上で大きく全身を伸ばした。
「あら、この程度で寒いだなんて言っていたら、この先もたないわよ。まだ雪も降っていないのだから」
「そういえばヴェロニックって、寒いところの出身だったっけ」
「出身がどこかと言われると、難しいわね。親はいろんな国を転々としていて、その途中で生まれたの。北の果ての先住民と一緒に氷と雪の家で暮らしたこともあるわ。でもグランティアの方がいろんな意味で寒かったわね」
グランディアと聞いてレイのこめかみがピクリと反応した。グランディア連合王国はランス共和国の宿敵である。領土、文化、そしてスポーツに至るまで、あらゆる分野で両国は覇権を相争ってきた。
実際にランスはほんの十余年前まで
しかし現在両国は手を組み、連合軍として大事に臨んでいるのだから、それがレイにとって気に食わなかった。
「相変わらずグランディアが嫌いなのね。ランス人の国民性だと思うけど」
「春先に行われたラグビーのオクシデント杯でランス代表はグランディア代表にぼっこぼこにやられたばっかり。どう考えても相手方に有利な判定が多かった気がする。きっと国ぐるみで大会を買収していたのよ。
「名探偵ハウズィズ、大好きじゃない。作者のドナン・コイルは立派なグランディア紳士よ」
「そ、それはいいじゃない。面白いんだもん」
「そうそう、柔軟になることが大切。今、戦うべき相手は魔王軍でしょ」
ぐぬぬ、とレイは押し黙った。ちなみに『名探偵ハウズィズ』とは作家ドナン・コイルが創作したミステリー小説の主人公である。世界中に刊行されているベストセラーであり、舞台や映画にもなって人々を楽しませている。レイはハウズィズが探偵として事件を解決するよりも、悪者共をばったばったと薙ぎ倒す戦闘描写が痛快で大好きだった。
「……その魔王軍の連中だけど、もう半年も何もしてこないじゃない。まるでまやかしだわ。こっちは昇進と栄転を棚上げにされてまで出向いてきたってのに、すっかり肩透かし」
「グランディアとランスの連合軍はマージの北側に部隊を集結させて、ルクセイアに侵攻中の魔王軍への対応を優先しているようね。ここに派遣された兵力も順次ルクセイアの部隊へ編入されているみたいね」
「そう、今こっちに残っているのはわたしがいる四中隊だけ。言われるままにほいほいと援軍を送るここの司令長官はホントに気前がいいわ。いっそわたしをルクセイアの戦場へ送ってくれれば、魔王軍なんて三日で蹴散らしてみせるのに!」
長い髪に櫛を通しながら、ヴェロニックは鏡越しにシュッ、シュッと徒手空拳を繰り出し始めたレイを眺めた。
髪の色は自分と同じ
乳房より筋肉ばかりの胸元に赤い宝石のついた首飾りを下げているのが唯一のおしゃれであろうか。いや、下着は意外と可愛いものを履いている。
運動神経抜群であり、筋肉は素晴らしく発達している。特に脚はすらりとして長く、思わず見惚れてしまうほどに美しい。
何よりもその若々しい姿に二十五歳のヴェロニックは若干の羨望感を否定できずにいる。
この小さな同居人の経歴は見た目以上に波乱にみちていた。レイはカラテという
ところがその後で不正疑惑が囁かれ、真相も定かでないままレイに向けられた賛辞は一転して非難に変わり、四方から厳しく誹謗された。
当時レイが通っていた学校も大挙して押し寄せる苦情の声に抗えず、やむなく彼女を停学処分にすることで世間からの批判を避けた。
追い討ちをかけるように、彼女が町で二人の友人と一緒にいたところを暴漢に襲われ、その犯人を返り討ちにする事件が起こった。正当防衛ではあったが、世間ではいよいよレイを闇術式の常習者と決めつけて追放運動が加速し、施設への強制収容が叫ばれた。
その後、レイの疑惑は正式に晴れたのだが、学校には戻れず、住んでいた町にも居づらくなった。幸いレイは軍隊の中に親しく付き合いを続ける人物がおり、また軍もレイの能力に目を付けていたこともあってランス軍の幼年士官学校へ入学した。
だが苦境は続く。レイは運動や手先の器用さこそ誰にも負けなかったが、語学などの座学がまるで頭に入らず、常に落第点を推移し、このままでは進級どころか退学すら免れない状態だった。とうとう学校側からの最終案として、屈強な男でも逃げ出すランス軍特殊部隊の教育訓練に参加して最後まで残ったのならば、そのまま士官させてやると告げられる。
はたしてレイはこの試練を一番で切り抜けて任官の運びとなり、ランス軍第二混成旅団隷下である第三十一普通科連隊第四中隊へ士長として配属となった。
こうして、かつてあらぬ疑いで辛い思いを強いられた少女は過去を払拭したかのように歴戦を重ね、誰よりも強い
魔王軍による宣戦布告がエーテリア全土に向けて発せられ、敵の来襲が予想されるマージの要塞に連隊へ緊急出動の命令が下されたのが春頃。そこでマージの防御システム担当官として民間から出向中だったヴェロニックはレイと出会い、予想に反して魔王軍による攻撃が一切ないまま、現在に至る。
ヴェロニックが気を揉むのはレイの性格だ。剛毅果敢といえば聞こえはいいが、とにかくそそっかしく、じっとしているのが大の苦手。考えるより先に体を動かせ、という言葉を多分に曲解させた意味を以て矜持としており、スタンドプレーに走って上官に叱られている場面を何度も見てきた。
しかしレイは全く懲りた様子を見せない。
この生まれっぱなしの腕白娘がその気になれば城砦守備など平気でうっちゃり、一人で魔王軍に向かって鉄砲玉のごとく飛び出して行きかねない。
そんなヴェロニックの視線を気にもせず、レイはひとしきり運動を終えると体が温まったのか、室内に据えられた洗面所に行って顔を洗った。そして濡れた手のまま髪の毛をわしゃわしゃとさせつつヴェロニックの背後に立つと、鏡に映る同居人と枠との間に自身の顔を映して適当に寝癖を直している。
「もうすぐ終わるわよ?」
「ううん、これで十分」
髪を一通りまとめると、レイはクローゼットを開いて
最後に上着へ手を伸ばしかけたところで、ヴェロニックは遠慮がちに声をかけた。
「ねえ……、せめてブラジャーぐらい付けたら?」
「いらないよ。わたし、ヴェロニックほど胸が大きくないもの」
だからって年頃の娘が、とヴェロニックが苦言を呈そうとしたところに、二人がいる居室を含む城砦内部にけたたましく警報が打ち鳴らされた。
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