B-side 1-1
煩く、安寧は無く、厳しく。奪われた時間は由来を持たず理不尽で、希少で、地獄そのものだった。それは
過去に我が身に降りかかった悲しみ。現在の自分が成し得ること。未来の人々に残せること。
それらは植田が生きる上での消えない決意であり、覚悟でもある。
「植田さん、五号室の
次々と声掛けが飛ぶ施設内を、きびきびと働く。彼女が闊歩するのに合わせて、耳の高さできっちり一つにまとめた焦げ茶色の髪が左右に揺れる。彼女がここ千葉県立シナプス再生院のスタッフとして働き始めたのは十年以上前のことで、直ぐに辞めてしまう人が多いこの業界では充分な古株といえる。年齢としてはまだ今年三十路に突入したばかりなのだが、既に当院の中では最も勤務年数が長くスタッフを取りまとめる立場にある。
「今井さん、入るね」
五号室の扉をノックするも返事が貰えず、声を掛けて入室する。四畳ほどのとても小さな空間に、寝心地の悪い簡素なベッドがひとつ。その上に横たわる十六歳の男の子は、虚ろな目で植田の存在を視認するも、身体をぴくりとも動かそうとしない。
「昼食を持ってきたよ。自分で食べられそうかしら」
意外にも問い掛けに対してこくりと頷く。彼はここに来て三日目で、回復が早い方だと嬉しくなった。
「偉いわね、きっと直ぐに元の生活に戻れるよ」
「シナプス回路って、どうしたら作れるの」
感情すら失ったまま生に貪欲な少年を前にして、植田は安易な台詞を後悔する。彼にとって回復することは最低限のことであり、求めているのは以前よりも検査値を上げることだ。
「その辺りは私達スタッフがしっかりサポートする。だから今は安心して、体調を万全にすることに専念してね」
食事がしやすいように今井の座り方やテーブルの位置を整えると、廊下に準備してあった昼食を運び込む。今日のメニューはカレーライスだ。今井は静かにスプーンで掬い、黙々と口に運ぶ。
彼の中でまだ決してこの理不尽への答えは出ていないだろう。それでも生きなければならないのだ。生きるためには、食べなくてはならないのだ。だから答えは無くても食べる。シンプルな思考回路はそういうシンプルな道理を考えるのに向いている、というのが長年この施設で多くの患者と共に過ごしてきた植田の経験則だ。シナプスが少ないことは、複雑な思考ができないことは、こんな劣悪な環境で生活する理不尽を受けるほどに悪いことだとは思えない。適材適所、文献によると百二十年程前まではそうやって生きていても文明を維持し得たはずなのだ。
「自分で食べられそうね。それじゃあ、また食事が終わった頃に片付けに来るわ」
食べ始めを見届けると、次の仕事のために個室を出た。
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