A-side 1-2

 音もなく講義室前方の自動ドアが開いて、一時限目の講義を担当する講師が現れると、それまで談笑していた学生たちは一斉に黙って席に着く。

「おはようございます。皆さん、前回の講義の最後に課した問題の提出ありがとうございました。今回はまずこの課題の解説から始めます。アップロードしてある講義資料を見てください。ここに示されているゼータ関数ζ(s)の自明でない零点 s は、全て実部が二分の一の直線上に存在することを証明せよ、という問いでしたね」

 講義室前面の電子黒板に、手元の資料と同様の数式が映し出される。これは数学上の未解決問題としてミレニアム懸賞問題のひとつでもあったらしい有名な証明問題、リーマン予想だ。

「皆さんの解答に目を通したところ、全員ほぼ正解でした。流石、一類シナ生ですね。解説は簡単に済ませます」

 かつて数多の数学者を悩ませたリーマン予想だが、西暦二一八〇年となった現在は大学二年生を対象とする数学の教材の一つに過ぎない。教師はある学生の解答を補足する形で解説を始めたが、いつも通りに講義室の一番後ろ窓際の席を陣取っている更紗は、最早それを聞いていなかった。

「なぁサラ」

 何故なら、彼女の耳元に囁きかける声があったからだ。

「何なのかえで、今は授業中なのだから話しかけないで」

「どうせ空想が楽しくて講義なんか聞いてないのだろうし、僕達はもうあの問題を理解しているのだから、良い子に聞いているふりしていたって時間の無駄だろ。それよりも僕はサラの物語の続きが気になる」

 期待に胸を膨らませ、無邪気に思考の共有を求めてくるこの楓という男に対して、更紗はどうにも弱かった。

「今朝の和音との会話は、聞いていて楽しかったなぁ。和音のことは嫌いだけど、サラを見ていたら飽きないということに関してだけは共感できる」

 男性にしては高く、女性にしては低い、中性的な声。しかし変声期のように掠れてはおらず凛とした張りがあり、尚且つ気づいたら夢の世界に誘われてしまいそうな魅惑的な抑揚で語る。

「それはどうもありがとう、私にとっても二人の存在は貴重だよ。他の人は私の話を理解しようとすらしてくれないもの。自らのみで完結する世界ほど、切ないことは無い」

 楓は柔らかく微笑み、甘く優しい声音で再度物語の続きを促す。彼にとって、更紗の考え出したストーリーの語りを聴くことが何よりの幸せであった。求めに応じ語り始めた更紗は、しかし直ぐにその口を封じられた。

「講義中だ」

 静かにしろ、と和音に目で怒られしおしおと口を紡ぐ。楓は舌打ちをしたが、和音は全く意に介さない。類似したやり取りはほぼ毎日行われていることで、もう三人にとってお決まりの流れになっていた。

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