三十三話 フラン視点のアリルナハト
槍の空洞は、驚くほどに深いものでした。
落下を始めて既に一分、時々ナハトさまが木壁を蹴って速度を殺していることを踏まえても、5キロメートルは落ちているのにいまだ底が見えません。空間が歪曲しているのでしょうか。
「やっと、再スタートが切れたな、ここまで長かったよ」
何度目かの壁蹴りをしたあと、おもむろにナハトさまが口を開きます。
「しかしフラン。あんたは本当にとんでもないな……個人で傭兵を五人を雇うなんて聞いたこともない。小国なら本当に潰せるぞ」
ナハトさまは感心したようにそう言いました。
特異物の力が権力に直結するこの世界において、強力な特異物を持っているなら、どの国にいても厚遇は約束されています。
それでもなお国家に縛られず雇われの兵士をやっている人間は、余程の変わり者か、戦い好きか、物欲に狂った欲張りだけです。
ただでさえ貴重な戦力がそんなあこぎな精神を持っているものですから、報酬は天文学的なものになります。
富豪が一人破産するほどの額でさえ手付金にさえ満たない報酬額が、五人分。
さすがに、わたくしの表向きの財産だけでは賄いきれないほどのものでした。
なので。
「わが社の昨年度利益、1887兆9551億4200万……そのすべてを横領いたしました……」
「……」
こいつ本当に。と言いたげな目でナハトさまがこちらを見てきます。
「露見しなければ問題はございません……」
こいつ本当に……。と言いたげな目でこちらを見てきます。
しかし、そんな目で見つめられても性根が変わるわけもないのです。苦しい時や悲しい時に法律に守られた経験が一切ないので、法律を守ろうという意識もないのです。
「しかし……お金の出所に、多少の難こそあれど……良い、取引でございました」
わたくしは、心からそう思っていました。
「……」
ナハトさまには、絶対に伝えられないことですが。
わたくしは、本当は……敵対する企業や政治家を処分するために、彼らを使うつもりだったのです。
金の小窓に潜ませたスパイウェアを使って、敵対者の情報を探り、弱みを見つけて、葬っていくつもりだったのです。
信念もなく、ただもっと多くのお金を稼ぐためだけに、善良で邪魔なひとたちを効率よく消していくつもりだったのです。
「ナハトさま……」
「なんだ?」
「……なんでも、ございません……」
ナハトさま。わたくしは……きっとあなたが思うよりも、ずっとろくでもない女なのですよ?
おそらく、あと一年もあれば、わたくしはお金のために容易く人の命を奪う金の亡者になり果てていました。
落ちるところまで落ちて、燃えることもできない程に心が冷たく凍り付いて、いつかどこかで誰かに悪として倒されていたのでしょう。
……だからナハトさま。わたくしが、どれだけあなたに救われたのかは、言葉に表すこともできないのです。
世界樹を焼いて、淀んで腐っていたわたくしの心を揺らして。
無理やり迷宮に連れ出して、
拒絶してもめげずに会いに来て、
また冒険に誘ってくれました。
大事なものを、大事にしてくれました。
たかだか十七年しか生きていない小娘が、そんな風に救われたらどうなるか。結果は火を見るよりも明らかでしょう。
……奪われるのが怖いから、大事なものなんてもう増やしたくはなかったのに。
昔好きになったものをもう一度楽しめるだけで幸福だったはずなのに。
凍り付いた借り物の心臓が、ずっとずっと早鐘を打っています。
ナハトさま、わたくしは――。
あなたが欲しい。
血も肉も骨も、魂のひとかけらまで、欲しいのです。
口には出しませんし、行動に移すつもりもありませんが、それがわたくしの偽らざる本心でした。
「…………それにしても……ナハトさまは、ずいぶんおモテになるのですね……?」
ナハトさまのことばかり考えていたからか、思わず口からそんな言葉がこぼれてしまいました。
「いきなり何の話だよ」
「先ほど……女性二人に求愛された件を、もうお忘れなのでしょうか……?」
じーっと顔を見つめると、ナハトさまは苦虫を噛み潰したような表情になりました。
「いや俺、あの二人とは殺しあったことしかないんだがな……」
なるほど、つまり彼女たちは女を殴っていそうなお顔につられた面食いということですね。
……ふと、嫌な予感がしたので尋ねてみます。
「まさかとは思いますが……ファンに手を出しては、いませんよね……?」
「それ女子高生の視聴者にも言われたが本当に何なんだ。今朝デビューだぞ俺は」
「……もうファンに粉をかけられているのですか……?」
ね、念のための確認だったというのに、驚愕です。
いや冗談でしょう本当にふざけないでほしいです被リア凸Any%RTAでもやっているのですかあなたは。
前言撤回です。方針転換です。
ナハトさまは真面目で誠実だと思いますが……時々頭がおかしくなるので、平然と人を騙し、策略に陥れる邪悪な女には絡めとられてしまいます。
そうなる前にわたくしが、彼を騙して策略に陥れてでも絡めとる必要があると、そう確信したのでした。
ふと、薄暗かった木のうろが、昼間のように明るくなりました。
一つ耳のウサギが目の前で跳ねました。
「わぁ……」
――それは、草原を魚眼カメラで見たような、爽やかで不思議な光景でした。
芝のように青く、きらきらと輝くコケが空洞内の180度を覆う、槍の中の草原。そこに、数えきれないほどの不思議な動物たちが住んでいました。
胴がとても短い馬を蛇のような狐が追い回しています。宙を泳ぐ長いエビを、巨大なまりもから弾丸のように発射されたモグラが捕えます。一級異獣と思われる大猿が、あくびをしながら毛づくろいをしています。
見たこともない土地、見たこともない色彩、見たこともない生物……それはいつか欲して、いつか凍らせた儚い夢の形。
自ら望んで、得られたのは、これが初めてでした。
だから目が潤むのも、仕方がないことなのです。
「参ったな。こんなことなら、飛び込んだ瞬間に金の小窓を起動しておくべきだった」
落下しながら、ナハトさまが苦笑します。一方のわたくしは、すっかり配信のことを忘れていたのでほんの少しだけ焦りました。
……本当はまだ、迷宮配信に少しの忌避感があります。
皆、迷宮を娯楽として消費しているのではないかと、疑ってしまう心もあります。
けれど。
彼は、私の大事なものを大事に扱ってくれたのですから。
彼の大事なものを、私も大事にしたいと、そう思うのです。
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