出会いと予感


「ゲホッ ゲホッ」


 走り続けたせいで喉がカラカラだ。

 すると、男は俺を背中から下ろした。

 そして無言で水筒のようなものくれる。

 つかみ取り、勢いよく飲み下す。


「フー……どうやら逃げ切れたようだ」


 男が森の方を振り向きながら言う。

 森の外までは追ってくる気配はないようだ。


「連中の事を、ゲホッ、知っているんですか?」


 どこのカルト集団だろうか?


「……むしろお前は知らないのか?」


 そういって男はこちらに振り返る。

 暗闇とは言え、月明りがその姿を見せてくれる。

 男は短く刈り込んだ黒髪、日に焼けた褐色肌、緑の目、筋肉質な体、180センチ程の身長、外国人。

 年は30代頃。

 動きやすそうな革製の鎧、体の各所にポーチが取り付けられている。

 腰元には一振りの湾曲した剣が見える。

 佇まいが堂々としていて、旅慣れしていそうだ。

 男はこちらを見て目を丸くしている。


「……お前、面白い奴だな」


 ニヤっと笑いながら男は言った。

 不思議と、朗らかな笑いだった。


「変な服装に、徒手空拳、しかもまだ子供の顔じゃないか。15~6って所か?」

「え、ええ、うん、そうだな、その位の年齢だよ」


 思わずどもった答えをしてしまう。

 やっぱり、そんなに若返っていたのか。

 しかも、人と話すのも数年ぶりだ。

 反射的に目をそらしてしまう。


「?……まあいいか、ここからは歩きながらでいいだろう。ほら」

「……どうも」


 そう言って男は肩を組んでくる。

 怪我のせいで歩きづらいので、正直助かる。

 ただ、他人の助けを借りまいと一人で引きこもって生きて来た手前、赤の他人の好意に甘えてしまっているこの状況がぎこちない。


「……」

「……」


 俺たちは静かに夜道を進む。

 先ほどまでの森の中と違い、開けた場所を歩き続ける。


「すみません、色々と」

「困った時はお互い様さ、こんな時代じゃ特にな。

 ……俺の名はカーブルト、ジャフアルドのカーブルトだ。お前は?」

「僕はユーヤです」

「ユーヤね。変な名前だな」

「……ジャフアルドというのはお名前ですか?」

「ジャフアルドは俺の故郷の名前さ。いい所だぞ」


 唾を飲む。

 聞いたことがない地名だ。


「……ジャフアルドというのは、どこにあるんですか?」

「ジャフアルドは内海を越えて南方大陸の海沿いにある国だ。

 砂漠ばかりで、人が住むには適さない場所だと言われるがな」

「……」


 どれほど記憶を辿っても、そんな地名は思い浮かばない。

 意を決して、恐る恐る尋ねてみる。


「……日本という場所を、知っていますか?」

「……知らないな。アルティリアにある国なのか?」

「……すみません、アルティリア?とは何のことですか?」


 彼は少し不思議そうに言った。


「アルティリアはこの辺りの国々ある地域の名前だ。

 そんな事も知らないのか」

「……」


 まさか、本当に……?

 テレポート現象。

 異世界転移。

 そんな冗談みたいな単語がよぎる。

 あの部屋から唐突に異世界に転移したという事だろうか。


 もしするにしても、何かこう、トラックとか……あるだろ?

 雑すぎないか?転移の流れ。


 どうしてこうなった?

 何かきっかけのようなものがあったか?

 どうすれば帰れる?

 いや、それよりもどうやってこの世界で食っていくか。

 無職の俺がどうやってこの世界でやっていく?

 それに―――

 脳内CPUに負荷がかかり、ファンが大慌てで回りだす。


「……どうしたんだ、さっきから。頭でも打ったのか?

 連中から追われる途中で転んだのか、服装もひどいぞ?」

「え、ええ……ちょっと考え事をしていまして……」

「とりあえず歩きながらでも話そう、ここに留まるのは危険だ」


 ・

 ・

 ・


 俺たちはさらに歩き続ける。

 かすんだ目をこすりながら暗闇を進む。

 森を抜けた事への安堵感を感じつつも、同時に今まで抑えていた疲労感がどっと溢れてくる。

 どこに向かっているのだろう。


「……今にも立ったまま寝そうな顔をしてるな」

「……はい」

「まあ、お前も大変だったろうが、命があっただけよかったじゃねえか。

 生きてりゃうまいもんも食えるし、賭け事だって出来るし、いい女も抱ける。

 そうだろ?」

「……はい」


 疲れのせいか、思考がまとまらない。

 今は一刻でも早く横になりたい。


「……着いたぞ、ほら、ここに横になれ」


 地面を触ると、薄い毛布のようなものが敷かれている。

 地面は硬く、枕もない。

 でも、ようやく寝られる。

 言われるままに横になって、じっと目を瞑る。

 意識はすぐに暗闇の中に落ちて行った。


 ・

 ・

 ・


「……?!」


 いつもと違う感触。

 驚いてすぐに体を起こす。

 辺りを見渡すと森で、近くには大きな荷物が置かれている。


 そうか、昨日、助けられて……

 幸いなことに、この森は普通の緑色。

 あの黒ずんだ葉の森ではない。


「ア?! イタタ」


 身体中に鈍い痛み。

 硬い地面に寝ていたからか。

 疲労が取れていないのか。

 どちらもありうる、それだけか。


 服もぼさぼさ、汚れていて着心地が悪い。

 地面を転がった時に着いた土の汚れ。

 獣か自分の血かも分からないものがべったりと張り付いている。

 足も無理に動かそうとすると痛みが走る。


「……」


 これから、どうすればいいのだろう。

 思わず天を仰ぐ。

 着の身着のまま、よく分からない場所に来てしまった。

 しかも簡単には日本には戻れないと来た。

 こんな状態でどうしろと?


 とりあえずカーブルトが戻ってくるまではここから動かない方がいいだろう。

 土地勘のない場所で迷子になってしまうのは怖い。


「おう、起きてたか」

「あ……」


 帰ってきた。

 昨日は暗闇で姿がはっきりと目視できなかったが、今はよく見える。

 筋肉質の褐色肌、緑がかった瞳。

 革の鎧や、腰元の曲剣。

 コスプレめいた格好に気遅れてしてしまい、何から聞けばいいのか分からなくなる。


「辺りを少し見回って来たが、この辺りに獣やそれ以外の痕跡はなさそうだ」

「……」

「痛むのなら、まだ横になっていてもいいぞ。時間はある」


 彼は置いてある荷物から何かを探し始めた。

 人と話す事自体が数年ぶりなのに、立て続けに世話を焼いてもらっている。

 むず痒い。


「ありがとうございます……」

「……しかし、どうして昨日はあんな場所にいたんだ?

 あの森は危険区域だったはずだろ?

 奴等に攫われて逃げ出してきたのか?」

「ま、まあ、そんな所です……」


 困ったような笑いを浮かべる。

 ここで正直に「異世界から転移して来ました」と言っても変人認定されるだけだ。

 少なくとも自分なら絶対に信じない。

 それだったら、多少無理にでも話を合わせておいて、少しでも目の前の人物からこの世界の情報を聞き出したい。


「途中で頭を打ってしまったのか、記憶を上手く思い出せない状態でして……」

「そりゃ災難だったな。

 確かに、連中のような輩に長い間監禁されると気がどうにかなっちまうのかもな。

 殺されなかっただけマシってもんか」


 え?

 殺される可能性もあった……ってコト?

 背筋に冷たいものが走る。


「そうだな、ここが俺の故郷だったら色々と人を紹介できるんだが、

 今できるのは最寄りの町まで送る事位か……」


 真剣に考えてくれている。

 しかし、妙に人が良いな。

 初めて会った他人の世話を焼いて、言う事も次々信じてくれて、一緒に悩み考えてくれるとは。

 何か裏があるんじゃないか?

 ……それとも、自分が人一倍疑い深いだけか。


「ここが地元だったらいい所を紹介出来るんだが、この辺りはよく分からない。

 とりあえず最寄りの、丘陵の街カヴェルナまで送り届けてやる」

「ありが……うおっと」


 そう言って、彼はビスケットを数枚投げ渡した。

 慌ててキャッチするも、無理な姿勢になり、傷ついた体に痛みが走る。

 不満の目を向けようとすると―――


「おっ、うまくキャッチできたな。ナイス」

「ナイスって……」


 屈託のない笑み。

 思わず気勢を削がれてしまう。


「これはこの土地の保存食でな。

 堅くて粉っぽいが、中々いけるぞ。

 その分喉が渇くけどな」


 そう言って彼はビスケットらしき物を齧った。


「……」


 全体的に粉っぽくて、不揃いのそれを口に含む。

 小学生の作った泥団子よりはまし程度だ。


「何か思い出したら教えてくれ。

 手がかりがあれば助言ができるかも知れない。

 ……喉が渇くと言えば、そろそろ水の補給をしたいな。

 水の量も少なくなって来たし。どうだ、一緒に水場まで行くか?

 それかお前だけでも休んでるか?」

「いや、僕も行きます!」


 昨日の傷のせいで体は痛む。

 それでも、一人で待つというのは正直不安だ。

 周囲に何がいるかも分からないし、彼と一緒にいた方が安全そうだ。


 荷物を取り出すと、カーブルトは森の中を歩き出した。

 ゆっくりとした歩みだ。

 怪我をしている自分に、歩調を合わせてくれているらしい。


「俺の知っているアルティリア……悪い、確かアルティリアって単語も覚えてないんだよな」

「……ええ」

「もとい、この土地の話をしてやろう、話を聞いていれば思い出せる事もあるだろう」

「よろしくお願いします」

「この辺りの土地はアルティリアと呼ばれていて、

 国としては、連邦王国、教国、都市国家連合、いろいろあるが忘れた。

 俺たちがいるここは、オーリヤック王国だ」

「……」


 案の定、どれも聞き覚えがない。


「お前はオーリヤックの出身かと思ったが、黒目黒髪だし、外見も人種的には違うな。

 だとしたら、土地無き流民達の流れを汲んでいるのかも知れないな」

「土地無き流民?」

「そうだ、思い出せないか?

 流民とは、遥か東の地の諸民族と言われる連中だ。

 そいつらは大体黒目黒髪で肌も褐色だ。

 ……と言っても、その服は流民達の格好とも違うか。

 顔の造形も違う気が……」


 そう言って彼は俺の顔を覗き込んでくる。

 平たい顔族ってか?

 彼はじっと俺の服、部屋着のシャツやズボンを見た。

 この世界では珍しい服装なのか。


「流民っていうのは、その人達は国が無くなってしまったんですか?」


 彼の表情が一瞬曇った。


「…そうだ。今から何十年も前、遥か東の地に魔を統べる魔王が現れた。

 異形達を率いて東の地の国は次々と滅ぼされた。

 国を失った彼等は、ここアルティリアの各地に移り住んだ。

 だがこの地も異形との戦いで不景気が続いていて、流民達の大半はいい生活をしていない」

「魔王……」


 そんなゲームめいた言葉を言われても……

 本当に実在するのか?


「魔王って、存在するんですか?」

「配下の異形達の事はよく聞くが、魔王自身の話はあまり聞かないな……

 ま、俺のいる南方大陸は魔王とは戦っていないから何と言えないな」


 そう言って彼は懐から葉のようなものを取り出して口に咥えた。


「このオーリヤック王国でも魔王軍との戦いは続いているようだ」


 ヒエッ

 とすると、この国は戦時中。

 危険な状態だ。

 さっさと逃げた方がいいかも知れない。


「そんな幾つもの国を滅ぼしたやばい連中と戦っているんですか?」

「そうだ」

「勝てるんですか?」

「うーん、難しいかもなあ。

 ここ数年でこの国は何度も戦いに負け、領土は減り続けてきた。

 それでも、国全土から見ればまだ一部という話だがな。

 ま、これから向かうカヴェルナから東の前線までは、間に幾つも城塞都市がある。

 大きな戦いに巻き込まれる事はないだろう」

「そう、ですか……」


 差し迫った影響はないのか。


「ただ戦争の影響で治安は滅茶苦茶だな。

 盗賊や異形がどこにでもいる。

 今もすぐ近くにいるかも知れんぞ」


 おいおい……マジか。

 ここも危険なのか。

 早く最寄りの都市とやらに向かわないとな。


「いざとなったら南方大陸にでも来るか?

 魔王軍がいない分人同士の争いが激しいが、少なくとも怪しげな儀式の生贄にされる事はないだろう」

「ハ、ハハ」


 冗談めかした口調。

 ただ、先日掴まる直前だった自分にとっては笑えない冗談だ。


「まあ、南方大陸に渡る旅路も中々危ないけどな……ん」


 気が付くと足元が水っぽい。

 泥だ。

 水場が近いのか。


「もう少し歩けば川が見えて来る。

 そうすればそのひどい服もひと洗い出来る」


 確かに、泥や血でひどい格好になっているが……


「悪かったですね、ひどい服で」

「ハハハ、すまんすまん」


 進むと小川が見えた。

 早速川に足を入れ、服と傷口を洗っていく。


「ッ」


 水が傷口に染みて、痛みが走る。

 ふと辺りを見回すと、遠くに水車小屋が見える。

 ただ、人のいる気配がなく朽ち果てている。


「あの、カーブルトさん」


 彼は水辺の近くに腰を降ろし、腰のポーチから何かを取り出している。


「ん、どした」

「この辺りの民家や人はどうなったんですか」

「住まいを放棄して安全な場所に移動したんだろう」


 彼は何やら水面で作業をしている。


「異形達が現れてからは世が乱れ、盗賊が各地で出没し、小さな村々は真っ先に襲われて滅びていった。

 村人たちは壁のある都市に逃げるか、西へ西へと逃げ続けたそうだ」

「……ここも危険って事ですよね?」

「日が出ている内は大丈夫だ。

 だが、夜になれば……ちょっと待て」


 彼はポーチの中にあった何かをつかみ、水の中に潜らせる。

 少しの間作業をすると、それを布のようなものに包んで絞る。


「ユーヤ、こっちに来い」

「……」


 なんだろう?


「この軟膏を、お前の体のケガしている箇所に布で縛り付ける」

「……」

「この軟膏には貴重な薬草を混ぜている。これを傷口に塗れば治りが良くなるんだ」

「……」


 少し困惑してしまう。

 確かに、嚙まれた部分の痛みは続いていて、歩きづらい。

 薬は正直ありがたい。

 ただ、わざわざ薬草を使って傷薬を作ってくれたのか。

 どうしてここまでしてくれる?

 何か裏があるんじゃないよな?

 俺はとりあえず、当たり障りのない返事をする。


「あ、ありがとう」

「困った時はお互い様さ。

 もっとも、俺がお前に助けられる事はないだろうがな」

「言いますね」

「本当の事だろ?

 ま、将来出世したら恩を返してくれ」


 彼はそう言って、足元の傷口を縛ってくれる。

 その後水を汲み、俺たちは再び道を進み始めた。


 重い荷物は基本的に彼が背負っている。

 俺は比較的軽い物を持つように言われた。

 もう少し荷物を受け持ってもいいと伝えたものの、足の治りが遅くなると言われてしまい、何も言い返せない。


「ここから先はひたすら北上して、カヴェルナを目指す」


 歩きながら彼は続ける。


「ここから数時間進んだ所に廃村がある。

 そこまで行けば無料の宿にありつける。今夜はそこで過ごす」


 無料の宿……物は言いようだな。


「どの位歩けばカヴェルナに到着するんですか?」


 連日の疲労は中々取れない。

 速く街に到着して体を休めたい。


「10日程度だ」

「10日も?随分と遠くですね」

「病人には堪えるかもな。

 ただ、俺がジャフアルドからここに来るまでの旅路に比べりゃ近所のお散歩だ」

「……」


 そんなに遠いのか?


「故郷ジャフアルドにはろくな船がなかったから、私掠戦や海賊に見つかるとすぐに追いつかれちまう。

 そいつらと戦い、あるいは交渉し、あるいは霧や雨の中に隠れてやり過ごし、積み荷を切り売りして何とかこの地にたどり着いた」


 中々ヘビーな旅だな。

 俺だったら最初の交戦で戦死していそうだ。


 しかし、船旅か……

 船乗りや漁師になるのも有りか。

 少なくとも、獣や盗賊たちは海にはいないだろう。

 でも、海賊がいるのは怖いな。

 世はまさに大航海時代ってか?


「どうしてカーブルトさんはそこまでして旅をして来たんですか?」


 俺だったら、とっくに引き返してる。

 少なくとも、悪魔の実でも貰わないとやってられないね。


「俺達は交易路の開拓がしたかった」


 彼は遠い目をしながら言った。


「ジャフアルドは国土の大半が砂漠地帯で、人はその日飲む水すら満足に確保できない。

 周辺の国々には油断ならない連中がいて、内海にはルヘニ人の私掠船がうようよしてやがった。

 しかし活路はその先にしかなかった。

 だから俺達はアルティリアの国々と交易を行うため、国を出た」


 彼の方をちらっと見ると、足はズボンの上からでも太く引き締まっている。

 筋肉質な腕は日に焼けていて、所々傷跡がある。

 戦士とも見えたし、腕のいい船乗りとも見えた。


「……その希望は叶ったんですか?」

「アルティリアの幾つかの国には、俺達の事を知って貰えた。

 帰りの船の費用も出してくれるらしい。

 本格的な交易が始まるのはしばらく先だろうが、最初の一歩は何とか歩み出せた」

「また、海賊たちと戦ってジャフアルドまで帰るんですか。

 と言うより、帰れるんですか?」


 聞いた限り中々の修羅場だったらしいが、帰りも乗り越えていけるのだろうか。


「アルティリアの造船技術は進んでいるから、多少はマシになるだろう。

 護衛船もつけて貰えるようだ。

 それでもルヘニ人達の船の速さには心許ないが……

 少なくとも、俺達には機会が与えられた」


 そう話す彼の声は硬く、覚悟の色を帯びていた。


 ・

 ・

 ・


 太陽がそろそろ沈む頃。

 痛む傷口をさすりながら歩いていると、進路方向に複数の小屋が見えて来る。


「あっ」

「ようやく着いたな……あそこが今日の宿だ。

 と言っても半壊してるし温かい飯も出迎えもいないがな」

「もう休めるんだったら何でもいいですよ……」


 ただ歩くだけでも苦しい。

 堕落した生活を送っていた反動だ。

 道もろくに整備されていないので、歩くのにも一苦労。

 ようやく一息付ける。


「……」


 町の中に入ると、無惨な景色が広がっていた。

 建物はどれも寂れ、朽ち、壊れかけている。

 壁は変色し、植物が巻き付いている。

 看板は傾き、戸は虚ろに開いている。

 道には雑草が茂っていて、ここを歩く人がもう存在しない事を示している。

 無常だ。


「……」


 彼は腰元の剣に手を掛けながら、忍び足で手前の建物に入って行く。

 俺は緊張しつつも、後を追って中に入る。

 建物に入ってみると、閉め切っているせいで暗い。

 足元はよく見えないが、感触からして物が散乱している。

 床が傷んでいて、歩くと軋む音がする。


「埃っぽいな」


 そう言って彼は近くの窓を開ける。

 それを尻目に、俺は近くにある古いベッドに腰をかける。

 痛む足をさすり、凝った肩をもむ。


「お前はしばらくここで体を休めていろ。

 俺はもう少し辺りを見回って来る。

 何か使えるものがあるかも知れない」

「分かりました」


 彼はそう言うと、荷物を降ろして出て行った。


「……ふぅ」


 一人になった部屋でゆっくりと息を吐く。

 ベッドの上で体を横にする。

 古いベッドの異臭が鼻をつく。

 即座に口呼吸に切り替える。

 何とか、今夜は平和に夜を越せそうだ……


 窓の外からは沈みゆく夕日の光が差し込んでいる。

 ……妙に感傷的な気分だ。

 家にいた時は気が付いたら日が明ける生活。

 それが当たり前だと思っていた。

 しかし、この世界に来てからは、一日平和な夜を過ごせそうだというだけで、本当に安心する。


 過酷な世界に来て悲しむべきか。

 それとも生きる事へ真摯に向き合えたことに喜ぶべきか。


「……」


 太陽が沈みかけた頃に彼は戻ってきた。

 辺りを物色したものの、人が住んでいる痕跡はなく一晩過ごすのに問題なさそうとの事だ。


「金目の物も食料も無いようだ。

 ま、行きにも寄ったし多少は分かっていたが」


 そう言って彼は毛布をばさっとこちらに投げ渡した。

 これを掛けて寝ろと言う事だろうか。

 確かに夜は冷えるので助かる。

 ただ、人からの好意には慣れない……


「あ、ありがとうございます」

「傷もまだ治ってないんだ。ゆっくり休め」


 そう言って彼は窓の近くの椅子に腰かけ、窓の外にある街の景色を物憂げに眺めた。


「……この町も」


 彼がゆっくりと口を開いた。


「この町も、かつては活気あふれる街だったんだろうな」

「……」


 窓の外を見て見ると、半壊した露店が見えた。

 誰かの服のような物、食べ物を入れる籠のようなものが地面に捨てられている。

 沢山の生活の跡が打ち捨てられ、無惨な光景を晒している。


「……こんな事を誰がやったんですか?

 少し前に話していた盗賊ですか?」

「盗賊じゃないだろうな。ここには死体が無い」

「それは、どういう――」


 言葉を伝えきる前に、彼は懐から何かを取り出して俺に差し出す。


「これを持っていろ」

「……!」


 目の前に差し出されたのは、一本の小ぶりなナイフ。

 柄は木製で、鞘は革製。


「お前にも、必要になるはずだ」

「え、ええ」


 日本にいた頃から、刃物とは無縁の生活だった。

 緊張しつつも、ゆっくりと受け取る。

 鞘をずらして刀身を覗くと、鈍い光が見えた。


 それにより、否が応でも意識させられる。

 自分が戦うかも知れない事、相手を殺すかも知れない事。

 そして、殺されるかも知れない事を。


「――じき、夜が来る」


 沈みゆく太陽を眺めながら彼は続ける。


「この国の出来事について俺が知っている限りの事を伝えておく。

 立ち寄った途中で、酒場の詩人共から立ち聞きした話だがな」


 ・

 ・

 ・


 数十年前、遥か東に異形とそれを統べる魔王が現れた。

 彼等は東の地から攻め上がり、その足音はやがてこのオーリヤック王国にも強く響き渡った。

 国王とそれに付き従う9つの名家は兵を起こし、侵攻に抗った。


 この国を守る騎士達は強く、時に異形達を攻めあげた。

 だが、それも長くも続かなった。


 王の偉大なる軍勢を相手に、不利を悟った魔王は深き闇夜に冒涜的な言葉を吐き捨てた。

 それが故に影の獣達が現れた。

 獣達は暗闇で生まれ、暗闇に潜み、人の恐怖や怯えの匂いをかぎ取る事に長けていた。

 やがて夜は獣たちの領分となり、村々の人々は陽が落ちてからは家の外に出られなくなった。

 ただ彼等の信仰と英雄達に祈りを捧げる他なかった。


 この国の騎士達は夜の陣にも火を焚き、結界を敷いて獣を近寄らせなかった。

 そして異形と戦いを続けた。


 それを見た魔王は、今度は報われぬ怒りや形なき憎悪に形を与えた。

 魔王は死者の魂に語りかけ、野に打ち捨てられた英雄たちの魂を誘い堕落させた。

 呼び覚まされた死者の内、最初の死者にしても最も強力な力を持った者が不死公だった。

 彼は9つの不義の名を冠する死者達を引き連れ、王国の騎士達に戦いを挑んだ。


 死者たちは疲れを知らず、恐れを知らず、容赦を知らなかった。

 そして死者たちの軍勢は、王国の騎士達を闇夜に打ち破った。

 それを聞いた王国の諸侯達は、村々の人々を見捨て都市の門を固く閉ざし、

 異形とは戦おうとはしなくなった。


 そして外には野盗と、影の獣と、夜に起き上がる死体達が蔓延る地となった。


 ……そんな話を詩人たちから聞いた」


「……その話、本当なんですか?」


 大げさな物言いで、内容も抽象的だ。


「さあな?」


 肩を竦めて、彼は無責任に言い放った。


「は?」

「この手の話は詩人たちの間で語り継がれ、語り手によっていいように脚色されていくものだ。

 どの位正しい部分が残っているかなんて分からない。

 ま、流石は騎士と詩人達の国と呼ばれるだけの事はあるな。


 別の酔っぱらった語り手は、魔王はこの国の名のある貴族に捨てられたおとし子だと言った。

 それ故復讐を果たすためこの地に舞い戻って来たのだと。


 別の詩人は、これは古き時代に忘れられた神々の神罰だと言った。

 自堕落に生きてきた我々はこの裁きによって救われるのだと。

 要は語り手にとっちゃ話が盛り上がっておひねりを沢山もらえば何でもいい訳だ」

「さっきから、言ってる意味が―――」


 再び言葉を遮って、彼は言った。


「要は、自分で確かめてみる事だ。

 それが真実なのか、嘘なのか。

 この地には随分と嘘が溢れていて、それを確かめる術は自分で確認する事だけだ」

「確、認?」

「そうだ、運が良ければ今夜中に出会えるかもな、さっき話していた者達のどれかに」

「……」


 思わず唾を飲む。

 ナイフを持つ手に力が入る。


 盗賊、獣、死者。どれとも出会いたくない。

 折角、死ぬような思いをして森から抜け出したのに……

 もう、うんざりだ。


「……」


 沈黙が流れる。

 味気なく硬い保存食を口にし、それを水で無理やり胃袋に流し込む。

 食事をした後は眠くなった。

 嫌な現実から逃れるように、すえた匂いのするベッドに意識は沈んでいった。

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