2


「ハァ……ハァ……」


 荒い足取りで湖を目指す。

 既に日は落ちた。

 周囲のほとんどは暗闇に支配されていて、それが尚更不安を煽り立てる。

 木々の間から差し込む、僅かな月光だけが頼りだ。


 思えば、水場なのだから肉食獣が集まっていてもおかしくない。

 それなのに、自分に都合のいい事だけを考えてしまっていた。

 先ほどまでの、遁世生活云々の能天気な考えに笑いすら込み上げて来る。


 ……もう、うんざりだ。こんな場所。


 今はただ、この危険な場所から一刻も早く抜け出したい。

 湖に到着したら、荷物を回収して急いでここを離れよう。

 ……何だ?


 湖の側まで来た。

 木の影に身を潜める。

 空には月が登り、水面に反射して揺らめいていた。

 昼間、荷物を置いた場所に数人の人影があった。


 ……三人程度か。

 皆一様に黒いローブを被り、暗さのせいで顔は見えない。

 水面に反射した月夜によって、ローブの人影達の後ろ姿が照らし出される。

 不安を煽られる光景だ。


 獣の次は不審者か?!

 それか……何かのコスプレだろうか。

 いや、コスプレであって欲しい。

 不審者ではなく一般人であって欲しい。


 そんな淡い願望を持ちつつ、草木に隠れて少しずつ近づいてみる。

 近づくにつれて、話し声が聞き取れるようになってくる。


「……侵入者が××××××……」

「捧げものだ……!捧げものだ……!俺達で×××……」

「……久々の××××生贄××××血肉××××××……」


「……」


 不安がどっと押し寄せる。

 焦りで上手く考えがまとまらない。

 断片的な単語しか聞き取れないが、恐らく連中は危険だ。

 ふざけているのでなければ、連中は自分の事を侵入者であると思っている。

 捕まえてどうにかしてやろうと思っている。


 過激な新興宗教の狂信者。

 そんな危険な単語が頭によぎる。


 三人をよく見ると、腰元に何か剣のようなものを差している。

 見つかったら最後、あれで刺されるかもしれない。

 緊張のせいか、足が竦みそうになる。


 頼む、どこかに行ってくれ!

 頼む!


「他の連中にも……」

「皆を呼んで……」


 連中は、再び森の中に入って行った。

 三人とも見えなくなると、竦んだ足に力を入れる。

 ゆっくりと立ち上がる。


「フー……フー……」


 何度も深呼吸して呼吸を整える。


 ……これからどうするか


 猶予はあまり残されていない。

 このままここで隠れても、やがて連中が戻って来れば見つかってしまうかも知れない。

 かといってこの暗い森の中を抜けるのも危険。

 先ほどのような獣がいる可能性もある。


 ……でも、森を抜ける以外に選択肢はあるだろうか。


 ここでただ隠れていれば、いつかは捕まってしまう。

 なら、森を走り抜け、湖の向こう側に存在するかも知れない人里を目指そう。

 部の悪い賭けだが……やるしかない。

 何より、こんな場所からは一刻も早く逃れたい。


 ・

 ・

 ・



「ハァ……ハァ……」


 僅かな月明かりを頼りに、夜の森を力なく走る。

 杖で体を支え、何とか小走りしている状態だ。

 思考が上手くまとまらず、頭に靄がかかっている。

 昨日からろくに食事をとってないせいだろうか。

 精神的なプレッシャーも苦しい。

 あの口元から血を滴らせる獣や、ローブ男から逃れたいという一心で何とか足腰を奮い立たせる。

 瞬間、視界の隅に妙な影を捕らえた。


 ……嘘だろッ


 杖を握る腕に力が入る。

 暗闇に並走する影が見える。

 くすんだ色の体毛。

 野生の狼のような顔つき。

 月の光を反射して、アーモンド形の目だけが一段と暗闇に浮かび上がる。

 先ほど見た黒い獣だ。


 来た道を戻るか?!

 いや今戻ってもどの道追い付かれる!

 もう少し気づかれないように進むべきだったか?!


 ……!


 獣が目の前に回り込み、立ちはだかって対峙する。

 暗闇に二つの目が浮かび上がり、注意深くこちらを伺っている。


「……」


 喉がひりつくような緊張感。

 その眼には、野生の中で生き抜いてきた鋭さがある。

 月を背にした狩人の眼光。

 思わず射すくめられそうになる。

 正直、背を向けて逃げ出したい。

 一歩後ずさる。


 ……しかし、ここで引き下がってもいいのか?

 俺はここでも逃げるのか?


 元々、死んでいたような人生だ。

 色々な事から逃げ続けてたどり着いたのは、あの狭い牢獄。

 逃げ続けても結局、人生は良くならなかった。

 ただ自信と時間だけを失った。

 ここで逃げ延びられても、また同じ事の繰り返しだ。

 そんなの、本当に生きていると言えるのか?


 どの道、逃げたとしてもあの速さならすぐに追いつかれる。

 ……なら!


 重心を深くして、両手で構えた杖の先を獣に向ける。

 ここで目の前の獣にただ殺されて死ぬより、せめて最後ぐらい意地を見せてやる。

 せめて最後は逃亡者ではなく、挑戦者として死んだ方がましだ。


 周囲を見る。

 周りは木々や木の根があって、身動きが取りづらい。

 しかも、夜という事もあって相手の姿も見えづらい。

 目を凝らせば、何とかおぼろげな獣の姿が浮かび上がる程度。


 ―――来る!


 唐突に獣の輪郭が掻き消える。

 反射的に身構える。


「ッ」


 暗闇の中、唸り声と駆け足がよぎる。


「っあぁ!」


 斜め右の暗闇から唐突に獣が出現。

 牙を剥いて飛び掛かってくる。

 咄嗟に杖を横に押し出して、噛みつかれる前に牙と牙の間に挟み込む。

 衝突の衝撃で体がよろめきそうになる。

 腕に何か生暖かい液体の感触。

 獣の唾液か、自分の血か。


「!」


 獣がいない。

 すぐに獣が去った方向に振り返る。

 しかし、獣は闇の中に姿を消していた。


「……」


 暗闇は獣の領分。

 闇雲に動くのも危険か。

 そう思い、相手の出方を待つ。

 注意深く辺りを見るものの、暗闇のせいで何も見えない。


 聞き取るんだ。

 獣の僅かな息遣い、足音、気配――


「っあ!」


 足元に鋭い痛み。

 噛みつかれたッ

 すぐに杖で突こうとするも、その前にするりと闇の中に逃げ込んでしまう。


 ちょこまかとッ


 その後も獣は暗闇に潜み、浅い傷をつけては逃げるを繰り返す。

 獣を捕らえるのは難しく、手足に少しずつ傷を負っていく。


「ハー……ハー……ッッ!」


 再び、足への鋭い痛み。

 痛い!

 痛い!


「うあ!」


 杖を振り上げる前に、ひき倒されて体ごと振り回される。


「ああッ……ああッ」


 獣はしつこく噛みついてくる。

 痛みを押し殺して、何度も杖で突き出す。

 手ごたえがあると、獣は足から口を離し、再び闇の中に潜り込んだ。


「ああぁぁぁぁ、うううぅぅぅぅ」


 激痛だった。

 立ち上がろうとすると、足に一層の痛みが走る。

 仕方なく、足を引きずって近くの木を背に腰を降ろす。

 額の脂汗を拭う。


 ……歯が立たない。


 獣は戦い慣れていて、夜目も効くらしい。

 暗闇を自在に潜り、じわじわと獲物を弱らせている。

 木に傷を付ける際に使用した鋭い石がポケットにある。

 これで切りつけてやろうと思うものの、捕まえようとすると、するりと抜け出してしまう。

 もう右足は満足に動かせない、今までのような速度では走れない。


 ……もう、無理か。


 弱気になりつつも、生きる事は簡単には諦められない。

 注意深く辺りを探る。


「……」


 ある事に気が付いた。

 先ほどは360度の暗闇の中、攻撃が予測できず防戦一方となってしまった。

 しかし、今は大きな木を背にしていて、背後からの攻撃は防げる状態。

 先ほどと違って辺りは開けた場所になっていて、数か所で葉の天蓋から月の光が差し込んでいる。

 差し込んでいる光の揺らぎで、獣の動きが見て取れるかも知れない。


 と言っても、この暗い森の中に差し込む光の数は僅か数条。

 それも風に揺られて葉摺れと共に、光は場所を変え続けている。

 獣が運よく引っかかってくれる可能性は、低い。


 でも、もうこれしかない。


 足を怪我していて、ここから動くことは難しい。

 暗闇の中を闇雲に動いても、夜目の利く獣に勝ち目は薄い。


 足への攻撃を防ぐため、痛む足を無理やり折り曲げて胡坐の体勢を作る。

 だめ押しで肩や首から力をぬき、だらりとさせて油断を誘う。

 力が抜けたように見せて、すぐにつかみ取れる所に杖を放り出す。

 獣を油断させ、攻撃を誘ってみる。


「……」


 暗闇を慎重に見渡す。


「……!」


 左側の暗闇で何かが動き、光が僅かにゆらぐ。

 瞬間、反射的に杖を握り、そこに構えて押し出した。


「!」


 暗闇からの急襲。

 俺の喉元めがけ、獣が大口を開けて出現。

 咄嗟に口に杖を差し込み、口を閉じられないようにする。


「捕まえたぞ、犬っコロ!」


 獣が闇に戻る前に、その手首を掴む。

 獣は爪を振るって激しく抵抗する。

 腕や顔に何度も鋭い熱が走る。


 痛ッ!


 獣が身をよじって逃れようとする。

 逃がすか!


 慌てて足を掴み、力を込める。

 獣は、その大きさから想像していたよりも、簡単に押し倒す事が出来た。

 体毛が多いだけで、体自体はそれほど大きくない。

 そのまま獣と激しく取っ組み合う。

 手足の爪や牙は鋭く、思うように近づけない。


 石が無い!何で……


 ポケットにあったはずの鋭い石が見当たらない。

 戦いの最中に落としてしまったのか。

 獣が激しく吠え、鼓膜を震わせる。


「このッ」


 一瞬の隙をつき、右腕で獣の頭を押さえつける。

 そして、その下がった頭の――一瞬迷って――一番柔らかそうな鼻に嚙みついた。

 そのまま強く噛みつき、抉り取る位の強さを顎に込める。


「―――キャン!キャン!キャン!キャン!」


 獣は甲高い声を上げる。

 身を捩って逃れようとするがさらに噛み続ける。

 口の中に苦い血の味が広がっていく。


「―――!」


 獣が激しく身を捩った拍子に、思わず逃がしてしまう。

 獣は思わぬ反撃に狼狽えたのか、そのまま森の奥に逃げて行った。


「ゲホッ ゲホッ オエェ」


 口の中の気持ち悪い感触を必死で吐き出そうとする。

 こんな危険な所、早く逃げないと―――

 獣が逃げたことを確認すると、すぐに手探りで杖を探し始める。

 あった!


 何とか杖を見つけ出すと再び走り始める。

 右足を踏み込む度に鋭い痛みが走る。

 半ば足を引きずるようにして必死で進み続ける。


 ・

 ・

 ・


「ハァ……ハァ……」


 目はかすみはじめ、体中が痛い。

 恐怖から逃げる為、僅かな力を振り絞って走り続ける。


 何でっ……俺が、こんな、目に……


 どうしてこんな事になってしまったんだ。

 何年も家に引きこもっていた罰だろうか。

 ただ、俺だって好きで家にいたわけじゃない。

 何もない部屋でずっと過ごすのは精神的にも苦痛だったし、焦燥感で眠れない日もあった。

 何年も苦しんで来たのに、更に罰を受けなくてはいけないのか。

 近くで気配を感じ、不意に振り向いた。


「ッ」


 少し離れた茂みから、黒ローブの輪郭が浮かび上がる。

 黒ローブはこちらを見ると、笛のようなものを口に咥えた。


「――――!!」


 鋭く甲高い音が周囲に響く。

 仲間を呼んだのか?

 まずい。


 黒ローブが迫って来る。

 必死で足を動かすも、先ほどの戦いで足が満足に動かせない。

 どんどんと距離が縮まっていく。


「く、来るな」

「……」

「来るな!来るなよ!何なんだアンタら!」


 上ずった声で叫ぶ。

 黒ローブは何も答えない。

 ローブの素顔は暗闇のせいで見えない。

 代わりに、ぽっかりと空いた穴がどこまでも続いているように見える。


「来るな!来るなって!触んな!うああ!」


 そして、その手が届きそうになり―――


「来るなって、あっ」


 唐突に足場が消失し、転げ落ちる。

 体中を打ち付けながら傾斜の激しい坂を転げていく。


「――ッ!」


 体勢を立て直そうともがいていると、唐突に地面に投げ出される。

 近くの木を掴んで何とか立ち上がる。

 口の中に入った葉や泥を必死で吐き出す。


「ぅ……ぅええ」


 足元がふらつく。

 景色も歪んでいる。

 眩暈もひどい。

 平衡感覚がおかしい。

 感触からして、落ちた場所は落ち葉の集まりの上だ。

 そのおかげで落下のダメージは思ったより少なかった。

 ただ、左腕が痺れていて上手く動かせない。

 転がる途中で打ってしまったようだ。


 四の五の考えている暇はないか……


 平衡感覚が戻ってきた。

 転げ落ちる途中で無くした杖の変わりに、近くにあった木の棒を杖替わりに拾う。

 手と足を引きずって、暗闇の中を再び進み始める。


 ・

 ・

 ・


「ゼヒュッ、ゼヒュッ」


 何とか小走りで動き続ける。

 ……もう限界だ。

 一度立ち止まってしまえば、再びは走り出せない。

 そう確信できる。


「ッ」


 すぐ横を何か鋭い物が飛来し、身じろぎする。

 おぼろげに矢やボウガンのイメージが浮かぶ。

 後ろからは、数人が近づいて来る気配がする。


 走る速度を上げようとしても、うまく体が動かない。

 体中が痛い。


「!」


 足元が取られ、転げそうになる。

 その時―――


「―――オイ!こっちだ。

 踏ん張れ!」


「―――!!」


 沈みかけた意識が、力強い言葉に呼び戻される。


「こっちだ!何してる!早く来い!」


 半ば無意識に、声のする方向に足を動かす。

 限界を迎えた体が、軋んで悲鳴上げる。


「そうだ、こっちだ!来い!真っ直ぐすすめ!」


 助けが、来たのか?


「耳塞げ!」


 声の主が何かを投げつけ、反射的に両手を耳に当てる。

 それは自分を通り越して、黒ローブたちの方に投げられた。

 その瞬間、激しい音響が響く。


 耳をふさいでいるのにも関わらず、鼓膜を打ちつけるような振動が伝わる。

 耳鳴りに苦しみながら、何とか声の主の元にたどり着く。

 暗闇のせいで、姿はよく見えない。


 辺りを見渡すと、目の前には開けた道が広がっていた。

 ここが森の終点か。


「今の内にここを出るぞ!」


「あ、ああ……」


 少し待って……

 呼吸を整える時間が欲しい。


「よし、俺が背負ってやるから任せろ」


 そう言って男は背を向けて膝をついた。


「助かります……」

「それじゃしっかり掴まってな」


 そういって男は元気よく走り出す。

 ちゃんと捕まっていないと、振り落とされてしまうのではないかと思うほどだった。

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