1章 旅路編

1


 そこはカーテンで遮られた薄暗い部屋だった。

 部屋全体の空気は重く淀んでいる

 部屋の中央には寝汗で染み込んだシーツがくしゃくしゃのまま残されている。

 その周りには、カップ麺やレトルト食品等のゴミが床一面に散乱していた。


「……」


 最後に人と話したのはいつだろう。

 はるか遠くの事の気がする。

 もう社会復帰は難しい。

 金がないため、この生活の維持すら難しい状況。

 かと言って、誰かの力を借りる程の気力もなかった。


「……」


 そこで考えるのをやめる。

 今更原因を考えても意味がない。

 何度考えようと、堂々巡りだ。


 同じことを何度も考えても結果は同じ。

 ただ何も考えないという事もそれはそれで難しいため、何かもっともらしい事を考えてしまう。


「……はぁ」


 毎日毎日ゴミの匂いで目が覚める。

 外に出る度胸もないのでただ無気力に何時間も寝て過ごす日々。

 こんな日々がいつまで続くのだろうか。

 日々が過ぎる内、少しずつ心に嫌な物が溜まっていくのが分かる。

 分かってはいたが、それをどうするべきかが分からない。


「……!」


 窓から強い夕日が差し込み、思わず目を反らす。

 目が覚めた時、外は暗かったはずだが……もうこんな時間か。

 薄汚れた窓を通して中学生位の子供たちの声が聞こえる。

 恐らくは下校途中。

 中学生時代の自分の姿を思い出して、思わず胸がチクリと痛む。

 一体どこで間違ってしまったのだろうか。


 ……考えても無駄なことか。


 ため息をついた。

 問題はどうやってこの手遅れな現実に向き合うかだが、その方法が見つからない。

 もうどうすればいいか分からない。


「……」


 そのままゆっくりと目を閉じる。

 願わくば、もう目が覚める事がない事を祈って――――――――――――




「……?」


 妙だ。


 ゴミの異臭の匂いが消えた。

 とうとう鼻がバカになったか?

 布団の質感も変だ。

 妙にチクチクする。


「……!」


 室内にも関わらず、強い風のようなものが吹く。

 慌てて体を起こし、目を開ける。


「……夢、なのか?」


 久しぶりに声を発したせいか、掠れ声しか出ない。

 いつもの息苦しさのする部屋ではない。

 どこまでも続く緑の草原だ。

 風が吹くとともに、青々とした草原がざわめく。

 某OSの背景画のような草原だ。


「!」


 陽光に目を細める。

 上を見ると、澄み切った青空があった。

 空気も室内の淀んだそれとは違い、新鮮なもの。


「ぇ……ぁ……」


 目の前の景色が理解できない。

 夢としか思えない。

 でも、夢にしてはあまりにリアルな光景。

 体の五感全てが、これは夢ではないと訴えている。


「……」


 声は出なかったが、その分心臓の音がうるさいほど聞こえてくる。

 試しに、足元に生えている葉をひとつまみし、指の間に挟んでさすってみる。

 表面に感じるザラザラとした植物の感触は、現実そのもの。

 植物の下にある土を少し手にすくい、匂いを嗅いでみる。

 確かに土の匂いがする。

 子供の頃に嗅いだ、懐かしい匂いだ。


 これは、夢じゃない。


「……」


 足腰から力が抜け、崩れ落ちそうになる。

 つまり、家から追い出されて人里離れた山奥で目を覚ましたという事か。


 ……話に聞く引きこもり矯正施設の仕業だろうか。

 一瞬、脳裏に機器類を全て没収されて、ジャージ姿で行進する自分の姿がよぎる。

 思わず頭を抱えたくなる。


 ……でも、待てよ?

 だとしたらどうしてこんな場所で目を覚ます?

 あまりに悪徳な業者で、施設に入れる費用の節約のために山奥に捨てられたという事か?


 ……ああ、どうする、何だこれ?!

 まったく理由が分からない。

 何がどうしたらこうなるんだ?


「……ふぅ」


 そんな事を色々と考えて、ゆっくりと息を吐く。

 空を見上げる。


「……」


 空は雲一つなく晴れやかだ。

 思えば、こうして自然の景色を見上げるのも何年ぶりだろう。


 ……どちらでもいい事か。

 本来なら、あの暗闇の部屋の中で、ずっと不安に耐え続ける生活。

 単に終わりを待つだけの、ただ息をしているだけの生活だった。

 あそこに逆戻りしたいかと言われると、正直迷う。

 ここは景色も良いし、空気も爽やかだ。

 そよ風も心地よい。


 狭苦しい部屋での生活はもう十分だ。

 たまには、こういうのも悪くないかも知れない。

 そんな事を考えながら、目の前の景色を眺め続けた。


 ・

 ・

 ・


 心地よい日光を浴びつつ、草原に寝転がりながら少し経った頃。

 そろそろ行くか。


 そう思い体を起こす。

 とりあえず、近くにある一番高い場所――少し先にあるなだらかな丘の頂上――を目指して歩き始める。


 あの頂上から景色を見渡せば、どこか近くに町が見えるかも知れない。

 食料や飲み水の問題もある。

 いつまでもこんな人里離れた場所にいるのは無理がある。


 ゆっくりと歩いていき、丘の頂点に到着。

 そこから景色を見渡す。


「おお……」


 少し先には生い茂った森があり、それだけで何十キロも広がっている。

 その向こうには山々が連なっていて、まるで海外の秘境だ。

 目を凝らしてみると、森の奥に小さな湖らしきものが見える。

 更に驚いたことに、街らしき場所がどこにも見つけられない。


 思わず唾を飲む。

 姥捨て山説が現実味を帯びてきた。

 人が失踪しても誰も驚かないような広大な場所。

 富士の樹海か?


 でも、少し変だ。

 自分一人を失踪させるために、わざわざこんな人里離れた奥地に放置するだろうか。

 何より、車道らしき物も無ければ、タイヤの跡もない。

 どうやって自分をここまで運んだ?


 いつぞやテレビ番組で見た、テレポート現象という言葉が頭によぎる。

 唐突に人が何百キロメートルも先の場所に転移してしまった事例。

 思わずゾッとする。


 ……考えても、仕方ないか。


 どうにもならない問題は脳内から締め出そう。

 答えの出ない問題は考えるだけエネルギーの無駄だ。

 かえって脳が疲れるだけだ。

 長い引きこもり生活の中で、嫌というほど学んだ事じゃないか。


 それよりも今は、緊張のせいか喉が渇きを訴えている。

 水が欲しい。

 とりあえず先ほど見えた、湖のある方向に向かうとしよう。


 ・

 ・

 ・


 森の中に入ると、木々が生い茂っている。

 ふと近くの木を見ると、節くれだった木の幹からは長い歴史が感じられる。

 木の根は太く長い物ばかり、足に引っかかって何度も転びそうになる。

 妙なことに、この森の植物はどれも少し色が黒ずんでいる。

 葉の色が黒いこともあり、木々が密集している所は昼にも関わらず薄暗い。


 この森はどこまで続いているのだろう。

 丘から見た時はかなり広かったが……

 この森を抜ければ、人里に下りられるのだろうか。

 不透明な先行きに、不安がよぎる。

 ただ、時々鼻腔をくすぐる植物の匂いや、葉擦れの音は心地よい。


「……」


 ふと近くに生えている木に目をやる。

 表皮は古く、乾燥している。

 傷がつけられそうだ。

 先ほど拾った尖った石を取り出し、表面にガリガリと跡を付ける。

 素人対策だが、やらないよりはましなはずだ。


 ・

 ・

 ・


「ふぅ……ふぅ……一体、いつまで歩けばいいんだ……」


 どれほど歩いただろう。

 呼吸が乱れ始め、足裏にも痛みを感じる。

 仕方なく、近くにあった木の根元に腰を下ろす。


 ずっと運動をしてなかったニートが体を動かしたのだ。

 少しくらい休んだっていいはずだ。


 辺りを見回すと、昼間にもかかわらず木々で形作られた天蓋のせいで薄暗い。

 葉の隙間からは、僅かに陽の光が差し込んできている。

 昼間なのに薄暗く、そこに僅かな光が差し込む景色は珍しい。


 悪くない眺めだ。


 仮に人里に下りられてもあの部屋に戻るのは気が進まない。

 いっそここで暮らすか……

 食料の問題さえ解決できれば、それも不可能ではないはずだ。


 もちろん、あらゆる生活水準は下げないといけない。

 食料も自分で川魚等を釣る必要があるだろう。

 一か月ゼロ円生活の世界。

 獲物を取れば「とったどー!」と言わなければいけない世界だ。


 中々大変な生活になるかも知れない。

 それでも、この場所にいた方が人間らしく生きられるような気がする。


 ・

 ・

 ・


 何度目かの休憩の時。

 夕方を越え、空は暗くなり始めた。

 ただでさえ暗いこの森の中だと、少し先すら見えづらくなる。


「うおっ」


 思わず転びそうになる。

 暗くて足元も見えづらいな。


 今日はこの辺りで野宿した方がいいか。

 暗闇で方向を見失うことも怖いし、体の疲れもある。

 近くの木の根元に腰かける。


「いてて」


 足裏をさする。

 ずっと靴下で森を歩いてきた。

 鋭い枝先を踏む度に足裏が痛む。

 そのせいで、ただ歩くだけなのに気を遣う。


 ここで負傷した足裏の分は、後で裁判でも起こして悪徳業者に治療費として請求するべきか。

 ついでに精神的苦痛費もいただこう。


 ……しかし、ここは本当にどこなんだろう?


 足をさすりながら考える。

 黒ずんだ葉の森なんて近所では見たことがなかった。

 暑い季節にも関わらず、こうしてシャツ一枚で動き回っていると寒い。


 ひょっとして、ここは日本じゃないとか?


 もしテレポート現象なら、海外のどこか。

 それこそ雄大な自然の広がる中国大陸の内地にまで飛ばされてしまったとしたら?


 そうだとしたら、本当にお手上げだ。

 ……いっそ、仙人を目指して崑崙で修行でもしてみるか?

 あの閉塞した部屋にいるよりかは、悟りが開ける可能性は高いだろう。


 ……そろそろ疲れた。

 考えても仕方ない。

 寝る準備をしよう


 近くにあった、枕に見立てた石を引き寄せる。

 周囲の落ち葉を集めた、申し訳程度のベッドを作る。


 ……作ってはみたが、寝心地は悪い。

 寒いのに上に敷く布団もない。

 喉の渇きや空腹感もある。


 しかし、疲れが溜まっていたせいか、すぐに睡魔が襲ってくる。

 泥のように眠るとは、こういう事を言うのだろうか……


 ・

 ・

 ・


 二日目


 寝苦しさと共に目が覚める。

 最低限の支度をして歩みを再開する。

 靴下と足裏の間にはクッション代わりに木の葉を挟んだ。

 昨日よりかは歩きやすい。


「……」


 木々の隙間から空を見上げる。

 昨日とは違い曇り模様。雨が降るかも知れない。

 傘も何もないのに、困るぞ……

 すれ違いざま、手頃な木に切り傷を刻みながら進む。

 問題を脳内で整理する。


 まず最初に、このまま湖に到着しても食料がない事だ。

 何とか湖で水分を確保できたとしても、食べ物がなければ腹が満たせない。

 行き倒れだ。


 今の内から周囲を確認しつつ、食べられそうなキノコ等を集めておいた方がよさそうだ。

 ただ、どれが食用なのかが分からない。

 半強制のロシアンルーレットだ。


 次に、湖に着いた後はどうするか。

 丘から見えた景色には、湖らしき場所は確かに見えたものの、その周囲に文明の気配はなかった。

 水場を拠点として、生活基盤を整えて助けが来るのを待った方がいいかも知れない。


 ……でも、そんなサバイバル生活が自分にできるのか?

 食料も家も、道具も何もない状態で?

 某外国人のサバイバル動画をもっとよく見ておくべきだった。


「……」


 素人が、一か八かの賭けで湖の先に進むのは危ない。

 途中で物資が尽きて行き倒れになる可能性もある。

 下手に動かず、水場で救助を待つべきか。


 ……そもそも、この道は本当に湖に進んでいるのか。


 そう考えて周囲を見渡す。

 森は相変わらず薄暗く鬱蒼としている。

 周囲には動物などの気配はなく、静まり返っている。

 ずっとこうだ。

 生き物の気配がまるでない。

 少し気味が悪い。


「……」


 ふと怖くなり、歩みを止める。

 何度か休憩を挟む内、少しずつ方向をずらしてしまっていたら?

 実は湖とは見当違いの方向に進んでいたとしたら?


 ただでさえこの森は昼でも薄暗く、視界が狭い。

 湖があっても見逃してしまう可能性もある。

 今までの道のりの中で、見逃がした点はなかっただろうか。

 そんな嫌な想像が何度もよぎる。


「……フーー」


 ゆっくりと息を吐いて、吸うを繰り返す。

 自分の頬をぺしぺしと叩く。


 考えてもどうにもならない事は沢山ある。

 それは引きこもり生活の中でよく分かった。

 体力的にも今更来た道を引き返すのは難しい。

 前に進み続けるしか、ない。


 ……ま、元々死んだような人生だったしな。


 少なくとも、あの部屋で誰にも気づかれず腐乱死体になるよりかは、広々とした自然の中で土に還るが余程マシだ。

 セルフ自然葬だ。

 そう無理やり、自分に言い聞かせる。


 ……行くか。


 ずれた靴下を整え、首筋に滲んだ汗をぬぐった。


 ・

 ・

 ・


「ハー……ハー……」


 更に数時間歩き続けた。

 呼吸が苦しい。

 足が重い。

 腰も重い。


 そこらで拾った、丁度よいサイズの木の枝を杖替わりにして進む。

 もう片方の手で、食べられそうな植物を抱えている。

 私服のシャツと相まって、人が見れば山菜取りに来た素人が遭難して疲労困憊になっているような図にも見えなくもないだろう。

 今日もいいタケノコが取れた。

 ばあさんや、儂はこれから帰るぞい。


「大分、痩せたかなっ」


 昨日から通算して、もう何キロ歩いているだろう。

 引きこもり生活を始めてからは、腰回りは太くなるばかりだったが……

 この二日で多少は解消されていると嬉しい。

 もっとも、痩せた所で生きて帰られる保証はないのだが。


「!」


 唐突に、目の前の草むらの量が一気に減った。

 疲れてうつむきがちだった顔を上げると、遠くに反射する水面が見える。


 たどり着いた、のか……?


 覚束ない足取りで、草木をかき分けて水面に向かう。

 水面まではなだらかな傾斜になっているせいで、何度か足が取られそうになる。

 水面に近づくと山菜や杖を放り、ひざまずいて水に口をつける。

 何度も飲み込む。


「っぷはー!……生き返るなぁ」


 今まで飲んだ水の中で一番美味い。

 800円出しても良いレベルの美味さ。

 水を飲み終わると、その場で座り込む。


 首の皮一枚、繋がったか……


「……」


 周囲に誰もいない事を確認して、服を脱いでいく。

 そして水に入れて手洗いする。

 ここ二日歩き続けたせいで、汗がにじみ酷い着心地だった。

 これで多少はよくなるはずだ。

 確かに寒さは感じるものの、今は我慢するしかない。


「おっ、少し痩せたかな?」


 服を脱ぐついで、自分の腹回りを見る。

 心なしか、数日前に比べて腹回りがスッキリしている気がする。

 前はそこそこ出ていた腹が、今は平原のようになだらかだ。

 思わぬダイエット効果に少し感動しつつ、汚れた手足や靴下を洗う。


 ・

 ・

 ・


 一通り身を清めると、近くの木の根元に腰を降ろす。

 慣れない運動で痛んだ足裏をさする。

 目の前にある、広々とした湖をぼうっと眺める。


 ……これから、どうするか。


 最終的には人里にたどり着く道を確保する事が目標だ。

 そうすれば、命の危機から逃れられる。

 問題はそこに至るまでの道のりが分からない事。


 丘の上から見た景色から考えると、湖の左右には森が広がっていた。

 湖の先はよく見えなかった。

 だとすると、湖の先に人里がある可能性を信じて進むという選択肢しかない。

 ただ、信じて進んだ結果、何もなく行き倒れる可能性もある。


 今の状況で進むのは危ういか?


 ここに留まり続けるにしても、食料の問題がある。

 食べられる植物の見分け方、火の起こし方。

 自分のような引きこもりに自給自足してくださいと言われても分からない事だらけ。

 ドッキリ企画だとしたら、企画倒れもいい所だ。

 そんな事を考えながら、水面に目をやる。


 ……あれ、何か違和感が


 もう一度水面を覗いて、自分の顔をじっと見つめる。


「……嘘だろ?」


 ……若返っている。

 何年も前の、恐らく中高生の頃だろうか。

 でも、あり得るのか、そんな事が?

 何かの見間違いか?

 もう一度水面を覗こうとすると―――


 ん?


 視界の隅で何かが動く。

 目をやると、うさぎのような小動物がいた。

 水面に口を付けている姿が見える。

 小動物は、さっと翻して森に隠れてしまった。


 そうか、水場か。


 丘で見た景色から考えると、周囲に川などはなかった。

 この辺りの水場は目の前の湖のみだ。

 だとしたら、辺り一帯の動物がこの辺りに集まっている可能性がある。

 待ち伏せするなり罠に嵌めるなりで食べられそうな獲物が捕まえられるかも。

 とすると、食料の問題は何とかなるかもしれない。


 うだうだ考えていても仕方ない。

 ここを拠点にできるかの調査として、湖周辺の探索をしてみよう。

 道中で拾ったキノコのような植物を、近くの木の根元に隠す。

 杖を拾い上げて再び森の中に入って行く。


 ・

 ・

 ・


 辺りは既に日が落ち始めている。

 葉の天蓋がそれに拍車をかけ、視界を暗くしている。


 ……これは、ダメそうだな


 薪として丁度よさそうな枝があったが、思った以上に湿気ている。

 森の捜索を始めてから、いくつかの収穫があった。

 火打ちに使えそうな石――動画で見ただけで実際に火を起こした事はないが――も入手してポケットに入れている。


 いくつかの山菜も採取して脇に抱えている。

 タケノコによく似た山菜もあり、素人目だが食べられる可能性が高そうだ。


 何だかんだ、色々集まったな。

 そろそろ帰るか。


 これだけ材料があれば、ここを拠点としてやっていけるかも知れない。

 そもそも、今更社会に助けを求めても、あの閉塞した部屋に再び押し込められるだけだ。

 それかホームレス。


 それに比べればこの雄大な自然の中で自給自足の生活を送る方が健康的だ。

 昼は湖で静かに魚釣り。

 時には先ほどのような小動物を狩猟して勝利の肉を食べる。

 あの心地良い草原で昼寝をするのもいいかも知れない。

 そんな生活だって悪くない。むしろ良い。


 もちろん、人里への通り道を確保する必要はある。

 ケガや病気をする可能性もあるしな。

 でも、もう少しここでゆっくりしてもいいか。


 俺の帰りを、喜んで待っている人はいない。

 それに、山奥での遁世生活……悪くない響きだ。

 そうは言っても、元々遁世生活もいい所だったか。


「……?」


 鼻歌交じりに歩いていると、妙な匂いに気が付く。

 今まで嗅いできた森の中のどの匂いとも違う。

 何の匂いだ……?

 匂いの元が気になり、辺りを探す。

 クンクン。


 ……何の音だ?


 近くの木の反対側から、何か物音がしている。

 背を屈め、気配を潜めてゆっくりと影から様子を伺う。


「ッ」


 絶句した。


 鹿のような動物が地面に倒れている。

 目には僅かに生気が宿っていたが、もう動けるような体力も残っていないようだ。

 鹿の脇腹に三匹の狼のような黒い獣が乱暴に食らいつき、我先にと中身を掻きだして咀嚼している。


 ……匂いの元はこの強烈な生臭さ。

 臓物からはまだ僅かに湯気が立ち上っている。

 周囲に飛び散った血の跡を見るに、つい先ほどまで争っていたのだろう。

 咀嚼されている動物と目が合った。

 そのつぶらな瞳に見つめられ、思わず目を反らす。


「……」


 生臭さが鼻を不快に刺激する。

 額に汗が滲み、呼吸が荒くなる。


 下がらないと……!


 少しの間呆然としていた事に気が付く。

 ゆっくりとその場を立ち去ろうとする。

 体が震えてしまい、思うように動かない。

 何とか杖を握り、静かに立ち去ろうとする。


 あ。


 踵を返した拍子に、脇に抱えていた山菜の一つが地面に落ちて転がった。


「ッ……」


 どっと汗が噴き出る。

 心臓の音が煩い。

 祈るような気持ちで、ゆっくりと黒い獣たちの方に振り返る。


「……」


 黒い獣たちは臓物の咀嚼に夢中になっている。

 落した山菜は触らず、そっとその場を後にした。

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