第10話〜私と、お母さんのこと〜

「あんたが悪いのよ、夜中に勝手に外に出たりするから!」


 そう叫んだお母さんにフライパンで叩かれて、私は、「ああ、やっぱり悪いことはするものではないな」と思いました。

 脇腹を力いっぱいに叩かれたので、ガクンと身体から力が抜けて、私はその場にうずくまります。フライパンの中に入っていたスクランブルエッグが散らばって、「ああ、あとで食べなくちゃな」と場違いなことを考えました。

 お父さんはお仕事に出ている時間なので、もうご飯を食べたでしょう。最後までフライパンに残っているのは、大概、私のご飯です。


 床に落ちたものを拾って食べるのは、よくあることでした。

 私が悪いことをしたから、お母さんが怒って。フライパンやお鍋の中にあるおかずが、床に散らばってしまうことがあります。

 お味噌汁とかスープとかだと仕方ありませんが、「私の分のご飯」が落ちた時は、捨ててしまうのは勿体ないので、食べるように言われるのです。

 確かに勿体ないな、と思うので、私は床に落ちたご飯を集めるのは上手になりました。


 私が、叱られるような悪いことをしなければ、それでいいのです。なのに私は、どうしてもいい子にできないから、晩ご飯の時なんかは、お母さんとお父さんの分を作り直させてしまうこともあります。

 二度手間をかけさせて、お手伝いもろくにできなくて、私は私が恥ずかしくて……だから、一生懸命、お母さんに謝ろうとしました。


「ご、め……」

「なんとか言ったらどうなの、本当に嫌な子!」

「ぁぐっ……」


 途中で背中を強くぶたれて、私の謝罪は小さな悲鳴になりました。

 全然聞こえないような、か細い声しか出せないから……だから、私の「ごめんなさい」は、お母さんには届かない。

 それがなんだか、すごく切なくて悲しくて、涙がじんわりと滲んでいきました。

 私が「悪い子」で「嫌な子」なのが、悲しいんじゃありません。だって、いつもお母さんの言うことが聞けないのも事実だし、昨日の夜、あんな深夜に一人で勝手に外に出るのは、紛れもなく「悪い子」でしょう。

 だけど私には、叱ってくれるお母さんに、「悪いことをしてごめんなさい」「嫌なことをしてごめんなさい」と伝えることすらできないのです。

 それが、切なくて、悲しくて、情けなくて……ぶたれたところが痛くて、ますます声が出なくなって。


 ああ、消えちゃいたいな。


 そう思った、時でした。


 頭のどこか、遠くで、バタンと音がしたのを聞きました。ドアが開く音に、よく似ている気がする。

 それから、足音。なんだか駆け足で、急いでいるみたい。


 とうとう幻聴が聞こえたんだと、私は思いました。だって、こんなに朝早く、少なくとも私が起きてきて支度をするかしないかの時間に、うちに来る人なんていないから。

 幻聴じゃなかったとしても、鍵がかかっているドアを開けられたということは、お父さんでしょう。お父さんは、こんなに焦ったみたいに走ったり、しない……と、思います。


 どうせ幻聴なら、本当に駄目になっちゃいたいな。

 私に都合のいい世界で、ずっと――助けてくれる人――せんぱい、とか――それか……。


「取り込み中みたいだが、邪魔するぜ」


 不意に、私の耳にハッキリと、声が聞こえました。

 それと同時に、強い力で、でも優しく、身体が引っ張り上げられました。

 床だけを見ていた視界が急に開けて、お母さんが驚きと怒りの入り混じった顔をしていて――フライパンが、ガランと、床に落ちます。


 これは、幻聴じゃない。

 幻覚なんかでもない。

 だって、お母さんにも「見えている」。

 私は、この、力強くて優しい腕を、知っている。


 恐る恐るうつむく顔を上げれば、そこにいたのは、くぅさんでした。小柄な私のことを、ごく軽い荷物みたいに、片手で抱き上げています。

 抱き上げられているのだから、当然、顔がすごく近い。下手をしたら、私がくぅさんを見下ろす位置に、頭があるのかもしれません。身長差もあるから、こんなところから、くぅさんを見たことはありませんでした。

 走ってきたのか、くぅさんは少しだけ、息が上がっていました。ドクドクと鳴る心臓の音が、私の身体まで伝わってくるようでした。

 それを聞いていると、私はなぜだか、少しほっとします。


「なっ……なんなの、あなた……!」

「さっきも名乗った通り、警察官でね。娘さんのことは、こっちで保護させてもらう」

「そ、んな……どうして……!」

「傷害の現行犯で書類送検されるのと、どっちがいい?」


 淡々と言うくぅさんに、お母さんは、奥歯を噛みました。

 私はといえば、「ああ、これっていけないことだったんだ」と、頭のすみっこでぼんやり考えます。

 お母さんは、すっかり黙り込んでいました。多分、くぅさんの言うことは、本当なんでしょう――つまり、お母さんにとって「傷害の現行犯」というのは、言われたら思い当たるフシがあるような、お母さん自身がわかっているような……そういう、こと。

 くぅさんが、警察官さんだから、というのは、あるかもしれないけど。悪いことをせずに、あるいは犯罪に巻き込まれずに生きていたら、警察のお世話になることなんて、あんまりありません。だから警察官さんに「それは犯罪になる」と突きつけられたら動揺するでしょう――私も、補導されそうになった時は、そうでした。

 だから、お母さんも、そうなのかもしれない、けど。


 ああ、私って、お母さんにいけないこと、されてたんだ――。


 気づいてしまったら、もう、見て見ぬふりなんて、できませんでした。

 私はいい子ではなかったかもしれないけど、何にも考えられないわけじゃありません。

 ちょろくて盲目的かもしれないけど、自分の意思が全然ないわけでもありません。


 知ってました。

 どんなに悪い子だったとしても、大人が子供をぶつのは、いけないことだって。

 知ってました。

 お母さんが、「いい子」であるための条件として、途方もないことを私に課しているって。

 知ってました。

 私がどんなに頑張ったって、お母さんは私に、理由をつけて暴力をふるうんだって。

 知ってました。

 何も言わないお父さんだって、私をぶつお母さんを止めないのは、おかしいって。


 ――知りたくなかったな。


 悲しくて、胸がズキズキ痛んで、私は思わず、くぅさんにぎゅうっ、と抱きつきました。まるでぬいぐるみでも抱っこするみたいに、無造作に。

 実際、この場にあったのなら、私が抱きしめたのは枕とか、ぬいぐるみだったでしょう。でも、今の私はくぅさんに片腕で抱き上げられていて、せんぱいだって、今どこにいるのかもわからなくて――ただ、そこにいたのが、くぅさんだったというだけです。

 くぅさんは、力強い腕で、私を抱え直しました。私は、落っこちないように、と内心で自分に言い訳しながら、お母さんに背中を向けて、くぅさんにしがみついていました。


 だから、お母さんがどんな顔をしていたのか、私は知りません。


 それからの記憶は少し曖昧で、気がつけば、私はくぅさんに抱き上げられたまま、家の外にいました。

 まだギリギリ、人の気配はありません。通勤の大人は車かバスが多いし、学校に行く生徒も、学校が遠いとか、朝練があるとかで早く出ないといけない子はもっと早く出ていて、始業までに間に合えばいい子はまだ出ていない……そんな、エアスポットみたいな時間帯なのでしょう。

 多分、誰に見られることもなく、私は車の助手席に乗せられました。本当に見られていないかは、わからないけれど……何しろ私は、ちっちゃな子がお父さんにされるみたいな縦抱きでくぅさんに抱き上げられていた上に、うつむいてグズグズ泣いていたので、目では見ていませんでした。でも、誰かが驚いたり、ヒソヒソしたりする音や気配はなかったので、多分見られていないと思います。


「靄、シートベルト、締められるか?」


 くぅさんに尋ねられて、私はノロノロと手を伸ばし、シートベルトを引っ張って、カチッと止めました。たったそれだけの動きで、ぶたれたばかりの脇腹や背中が痛んだけれど、くぅさんは黙っていてくれました。

 ついさっきぶりの車内には、FMラジオが流れています。読み上げられるニュースは、どれも当たり障りのないことばかりで、深夜の公園で怪物が暴れたことは勿論、高校生が行方不明になったことさえ、触れられませんでした。

 あれは、世間的には「起きていないこと」なのです。私はそれを、なんとなく感じていました。


 バタン、と車のドアが閉まる音がして、くぅさんが運転席に座りました。それから、スマートフォンを少し触って、私に手を伸ばしました。

 私は、それを目の端で捉えていたけれど、拒絶をしようとは思わなかった。拒絶するだけの余裕がなかったというのが、正しいかもしれないけど。


 ポンポン、と頭を撫でられて――私は、顔を上げました。

 多分、涙でグチャグチャになっているだろうとは思うのですが、なんだか、隠す気力もなくて。

 そんな私を見て、くぅさんは、どこか物寂しそうに微笑みます。


「悪かったな……なんだ、茶々入れちまってよ」

「……い、え……」

「お前だって、何も考えてないわけじゃなかっただろうにな」

「……いえ……」


 私はただ、首を横に振ることしか、できませんでした。

 認めたくなかった現実を――私は実の家族に暴力をふるわれているということを、直視したのは、くぅさんがいたからです。

 だけど、私は、ぶたれるのも、怒鳴られるのも、本当は嫌でした。痛いのも、苦しいのも、私がいないみたいに振る舞われるのも、嫌だったんです。

 お母さんのすることを、「私が悪いから、お仕置きをされている」と思っていたのは、そうしないと受け入れられないから。受け入れたって苦しくて、拒絶したって苦しくて、だったら、私は、受け入れる方がまだマシだと思ったから。


 私はいったい、どんな表情をしていたんでしょうか――くぅさんはふと、眉を寄せました。

 そうして、小さな声で、ポツリと呟きます。


「……ただ、俺が見ていたくなかっただけだ」

「…………」

「悪かったな、泣かせちまって」


 私に、謝るこのひとを見て。

 ああ、すごく誠実なんだな――と、私は思いました。


 確かに、私は苦しかった。

 受け入れても、拒絶しても、どっちにしたって苦しくて。

 でも、多分、いつかは認めないといけなかった。


 くぅさんがしたことは、それを少し、早めただけに過ぎません。けれども謝ってくれるというのが、なんだかチグハグで、私は少しだけ、笑いました。

 どうして「見ていた」って言うのか、なんで私がお母さんにぶたれているのがわかったのか、不思議ではあるけど、聞くまでもないことでした。

 だって、くぅさんは、魔法使いです。

 私が知らないだけで、多分、何ができたっておかしくないんでしょう。


 ああ、そうか。

 もしかしたら、くぅさんは、私の日常を「盗み見た」ことに対しても、謝っているのかもしれません。

 私は、別に、気にしてないのに。

 お母さんにぶたれて、そんな状況でも何もできない自分を見られるのは、情けなくって恥ずかしいこと、かもしれません。だけど、結果から言えば、くぅさんは要するに、私を放っておけなくて、今すぐにでも――私に、望まないことを気づかせても、助けたかった……んだと、思います。


 くぅさんは、何にも悪いこと、してないのに。

 私なんかのために、真剣に、謝ってくれている。

 それが、私には、嬉しかった。


「…………」


 私は、首を振りました。相変わらず言葉は出なかったけれど、怒っているわけじゃありません……感謝までしているかと言われれば、わからないけれど。

 ただ、くぅさんが、私のことを放っておけないと思っているのは、素直に嬉しいと思いました。ああ、好きだなぁ、と――きっと私じゃなくても親切にしてくれるとは理解していても、それでも、私はくぅさんの優しさが、好ましかった。

 だから、涙で詰まった声で、私はどうにか、呟きました。


「あ、の……うれ、しい……です……」

「……そうか」


 くぅさんは、短く言うと、車内に置かれていたティッシュボックスを差し出してくれました。そういえば、結局荷物も持たずに回れ右をしたので、私の持ち物は充電切れのスマートフォンしかありません。

 軽く頭を下げて受け取ると、私は涙を拭きました。それを見て、くぅさんは、ようやく、車を走らせました。


「靄」

「は、い……」

「ひとまず、お前の身柄は、特務課で預かる」

「……わ、かり……まし、た……」

「まぁ、悪いようにはしねぇよ。ただ、お前には色々、勉強してもらうこともある」

「べん……きょ……?」

「魔法の使い方……制御方法とか、色々な」


 くぅさんの言葉と、周囲の景色からすると、私たちの向かう先は、どうやら清藤市警察署のようでした。

 ついさっき走ったばかりの道を、今は逆向きに走っています。少し入り組んだ住宅街を出れば、広めの道路に差し掛かり、ちょうど車通勤のラッシュなのでしょうか、渋滞というほどではないけれど、行きよりもよっぽど多くなった車通りに混じります。


 どんどん、私の家が、遠ざかっていく。

 これが戻っているのか、進んでいるのかさえ、今の私には、わかりませんでした。

 それでも、いつしか涙は止まっていて、ああ、もう私は、あの家には戻らないのかもしれないな、という予感だけがありました。

 お母さんとお父さんが、私を取り戻そうとするかは、正直わかりません。でも、私は、これでよかったような気がします。


 薄っすらと、察していました。私がお母さんたちに、嫌な思いをさせているのであろうことは。そして、たとえ暴力をふるっても、どんな条件をつけたって、私が成人するまで育てようとする責任感が、お母さんとお父さんにはあることも。

 でも、それって多分、とても苦しいんじゃないでしょうか……子供は親を選べないけど、親だって、子供を選べないでしょう。

 私は、お母さんたちに酷い扱いをされていたことが、つらくて、自覚するのは苦しくもあります。だけど、どうしても、お母さんたちだけが悪いことにもできなくて……生まれてきた子供を愛せないのは、苦しいことじゃないだろうか、って、思ってしまう。


 そう、思えば。

 特務課で預かってもらえるというのは、悪いことではないようにも思えました。

 少なくとも、私が会った特務課の人たち――くぅさんに、榊さん、リンさん、黒乃さんは、先輩たちと同じように、私に対して「普通」に接してくれます。

 勿論、他人なので、内心のことはわかりませんが……それでも、何かしないと気が済まないくらいに、私のことが嫌だというわけではないでしょう。そうでなければ、きっと、私のどんくささとか、のろまっぷりに、嫌味の一つも出るでしょうから。

 ともかく、私のことを、顔や言動に出るほど嫌だとは感じていない人に囲まれるのは、私がいることで生まれる嫌な気持ちを、最小限にできるということです。それは私にとっても、決して悪くはないと思います。


 そんなことを考えているうちに、くぅさんの運転する車は、警察署が見えるところまで来ていました。

 行きよりは少し時間がかかりましたが、久しぶりだなんて感じるわけもない、慣れない場所は、すぐそこでした。


 私はふと、気がつきました。

 特務課で預かる、とは言うけれど、まさか警察署内に住むわけにはいかないでしょう……多分。

 そうなると、私は一体、これからどんな生活をするのでしょうか。

 今更ながらに、なんだか心配になってきた私は、キュッと、胸元を押さえるシートベルトを握りました。


 この時には、まだ。

 まさかあんなことになるなんて、思ってもみなかったのです――。

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